第二話 不穏な隣人
「ああああああああああ!!」
廊下から響いてくる大音量の絶叫に飛び起きた。
何事だ?
絶叫はまだ続いている。何か事件か事故でもあったのか?
最近はこの辺も治安が悪化しつつある。
先週も近くの民家に強盗が押し入ったとかで、私の所まで警察が聞き込みに来た事がある。
それとも火事か何かだろうか。
だとしたら他人事ではない。
面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁してもらいたいが、無視するわけにもいかないだろう。
火災に気付かず逃げ遅れて焼け死ぬのなど御免だ。
寝間着を兼ねた部屋着のジャージ姿のまま、スリッパをつっかけて廊下に出た。
「あああ、酷い…酷すぎる…サクラたん、誰が君にこんな惨い事を…」
廊下では紺色のスウェット上下を着た小太りの男が蹲って、なにやらブツブツと呟いていた。
909号室に住む隣人だ。楼池とかいう名字だが、下の名前は知らない。
以前住んでいた老夫婦が子供と一緒に暮らすと言って引っ越していった後909号室は永らく空室になっていたのだが、昨年の暮れ頃に入居してきたのがこの男だ。
年齢は私と同じくらいだと思われるが、近所づきあいと言えるようなものは殆ど無いので、どういう人間かは良く知らない。
どうやら先程の絶叫の主は彼らしい。
彼の様子は明らかに変だが、こうして出てきてしまった以上は無視する訳にもいかない。
思い切って声をかけてみる。
「あの、楼池さん、どうかなさいましたか?」
楼池氏はただ肩を震わせているばかりで返事もしない。いや、この男、泣いているのか?
正面に回ってみると、ボロボロと涙を流しながら嗚咽している。
「サクラたんが…サクラたんが…」
大の男が顔中を涙と鼻水でグシャグシャにして泣きじゃくるなど、只事では無い。
いったい何があったというのだろうか?
とりあえず、火事だとか、誰かが暴漢に襲われているだとかの緊急性のある事態ではない事が分かったので、正直もう部屋に帰りたい。
他の住民達は見て見ぬふりを決め込んでいるようだ。
先程からいくつかのドアが少しだけ開いて、すぐに閉じられたのを見ている。
私もそうすべきだったと思ったが、今となっては後の祭りだ。
酷い貧乏くじを引かされた気分だ。
号泣する楼池氏を宥めること十数分。ようやく落ち着いてきたようだ。
結局何があったのかよく分からないが、後は彼を自分の部屋に押し込めばこの騒動も解決だろう。
ただ、気になる事がある。彼はずっと右手の手の平を上に向け、その上からそっと左手で包む姿勢を崩そうとしないのだ。
そうして両手が塞がっているため、流れる涙や鼻水を拭おうともしないので、顔面はベチャベチャだし、垂れた汁がスウェットの襟に染みを作っている。
「取り乱してしまって済みません。ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですから」
やっとお役御免になれるようだ。
結局この騒動の理由は分からなかったが、大方、何か彼にとって大事な物が壊れたかどうかしたのだろう。
「いえ、その、お大事になさってください」
こういう時にどういう挨拶をすれば良いのか分からず、自分でも何か頓珍漢な事を言っているなと思いつつ返事をする。
「ご丁寧にありがとうございます。これならばサクラたんも浮かばれるでしょう」
「…?」
「お礼はまた後ほど改めて伺わせて頂きます」
「いえいえ、お気になさらず」
腑に落ちない物を感じながらも、私は自分の910号室に戻った。
戻ってから二度寝して、起きたら11時を回っていた。
朝から妙なトラブルに巻き込まれて睡眠が中断されたが、トータルでは久しぶりに充分な睡眠時間を取れて、なんだか身体が軽い気がする。
休暇を取っているのは午前中だけなので、午後からは仕事だ。
殆ど出社する事なしに在宅勤務で済ませられるのが今の職場の利点だ。
出社するとなれば当然往復の通勤時間もかかるわけで、半休の旨みは殆ど無くなってしまう。
何にせよ、冷蔵庫の中がほぼ空なのは分かっている。自由に動ける内に買い出しを済ませておくべきだろう。
シャワーを浴びてこざっぱりしてから近所のスーパーへと向かう。
生乾きの髪も風に当てている内に乾くだろう。
食料品やら日用品やらが詰まった袋をぶら下げて戻ると、自室の前に誰かがいた。
あの小太りの姿は楼池氏か。
「ああ、丁度よかった。お留守のようなので出直そうと思っていた所でした。今朝はどうもご迷惑をおかけしました」
今朝見た時とは別人のように落ち着いた様子だ。
「いえいえ、大した事もできませんで。何かご用ですか?」
「ああ、いえ、ちょっとお願いがあるんですが」
お願い?いったい何だ?面倒な事でなければ良いのだが。
「履き物の裏を見せて頂けませんか?最近履いた物だけで結構なんですが」
どういう事だ?なんとも風変わりな依頼に困惑する。
ああ、そうか。今朝の様子だと何か手の平に収まる程度の小さな物が壊れたかどうかしたような感じだったな。
その部品だか破片だかが靴底に貼り付いていたりしないか、ダメ元で確認したいという事だろう。
それならば合点がいく。
「最近はもっぱらこのサンダルばかり履いてますから、これだけで充分でしょう」
買い物袋を自室のドアノブに引っかけて、片足立ちになって左のサンダルを脱ぎ、楼池氏に渡す。
楼池氏は私のサンダルを裏返すと、顔を近づけてマジマジと見つめる。捜し物は余程細かいものなのだろうか。
しばらく凝視していたが、何も見つからなかったと見えて返してきた。
「もう片方もよろしいですか」
返されたサンダルを履き、今度は右のを脱いで渡す。
そのサンダルの裏を一目見た瞬間、楼池氏の顔つきが変わった。
「そうか…あなただったんですね…」
一体何の事だ?
楼池氏の目付きはまるで親の仇でも見るようなものだ。
粘着質な憎悪が籠もった目で睨みつけてくる。
私は何か彼に恨まれるような事をしたのだろうか。
「いえ、何でもないのです。彼女が外に出るのを許してしまった僕にも責任がありますしね。この傷みは僕一人で耐える事にします」
彼が何を言っているのか、私にはさっぱり分からない。
「これはお返しします」
楼池氏から渡されたサンダルを履き直す。
「これは忠告ですが、どんな小さな命にも魂は宿っているのです。無益な殺生は関心しませんね」
駄目だ。私には彼が何を言っているのか、まったく理解できない。
「それでは失礼します」
そういって楼池氏は自分の部屋へと帰っていった。
続く




