第一話 拡張現実
国際資本の情報網が地球を覆い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えて無くなるほど情報化されていない近未来
アジアの一角に横たわる、教育水準の高さが無知蒙昧を根絶できる訳ではないと証明しつつある国、日本
整然とした近代都市と猥雑で不衛生なスラムが同居する、首都東京とその近傍
これはその片隅で発生したとある悲劇の記録である
Now Sending...
プログレスバーが徐々に伸びていく。
「早く!早く!早く!」
バーが示す進捗はナメクジが這うが如きノンビリとしたものだ。
クソッタレ!
どうせ暇人どもが通信対戦ゲームや没入型エロ動画のストリーミングで通信回線の帯域を輻輳させているのだろう。
まったく困ったものだ。こっちは仕事だというのに。
回線の帯域割り当ても、そういう下らないものよりもこちらを優先してもらいたいものだ。
97%...98%...99%...Complete!
時刻は23時58分。ギリギリだが、本日中という納期に間に合う事が出来て胸を撫で下ろす。
相手は外資系の大手電脳アプリメーカーだ。
少しでも納期に遅れる事があったら違約金だなんだと面倒なトラブルになりかねない。
「ふうぅ…」
思わず安堵の溜息が漏れた。
ここ二ヶ月ほど取り組んできた拡張現実《AR》アプリの不具合修正が、どうにか片付いてくれた。
無事に納品を済ませた事の報告と、明日は午前半休をもらう事を申請するメールを送り、電脳のネットワーク接続を解除する。
首の後ろに埋め込まれたアダプタからプラグを抜き取り、目を瞑ったまま数秒待つ。
作業領域のユーザーインターフェイスが消え、視界が真っ暗にブラックアウトしてからそっと瞼を上げる。
まず視界に入るのは、複数のディスプレイが設置された壁と、デスク上に散乱したキーボードやマウスやトラックボール類。
机の下ではPC本体が冷却ファンを唸らせ、そこに接続された外部ストレージやらメディアドライブやらが動作中を示すランプを明滅させている。
しかし、これらの機器を実際に触る機会は殆ど無い。
大概の操作は電脳で済ませてしまえるからだ。脊髄にインプラントを埋め込んで脳神経系にコンピューターを埋め込む技術は人類の知覚と演算能力を飛躍的に向上させる技術的革命だった。
当初は体内に機械を埋め込むことに忌避感を持つ者による反対運動などもあったが、電脳化処置の有無によって能力に隔絶的な差があるという認識が広まるにつれ、電脳化していない人間の労働市場における価値は激減し、政府による電脳化手術の費用補助もあって、今では現役世代のほぼ全員が電脳化するほどの普及率となっている。
それにしても疲れた。納品三日前になって致命的な誤作動を引き起こす可能性のある不具合が発見され、その修正に掛かりきりだったのだ。
グウゥゥゥゥ…
腹の虫が鳴いた。納品前の最終チェックに掛かりきりで、昼飯も抜いて仕事漬けだった。
だいぶ遅い時間になったが、晩飯にしよう。
そう思って、冷蔵庫を開いてみるが、めぼしい物は何も無い。
こんな時間じゃあスーパーも閉まっているし、コンビニ飯で済ませるか。
財布をポケットにネジ込み、サンダルをつっかけて部屋を出た。
近所のコンビニで焼き鳥とカップ焼きそば、酎ハイ2本を買って戻る途中、月明かりに照らされた我がマンションを見上げる。
築40年を超えているが、管理会社や自治会がよくやっているので、外観は綺麗なものだし清掃も行き届いている。
最寄りの駅からは徒歩10分。間取りは3LDK。まあ悪く無い物件と言える。
ここの910号室が私の自宅だ。元々は私の実家でもある。
5年前に両親が交通事故で死んで相続したのを機に、アパートを引き払って実家に戻ったのだ。
エレベーターに乗って9Fに上がる。
ワンフロアは12部屋あり、階段はそれぞれの両脇、エレベーターは中央に配置されている。
すなわち、エレベーターから見て右に行くと906号室から901号室があり、左に行くと907号室から912号室があるというわけだ。
910号室の住人である私はエレベーターを降りて左に進む事になる。
ポケットに入れた部屋の鍵をまさぐりりながら電灯に照らされた廊下を進んでいくと、視界の隅で何か黒い物が動いた。
まさかと思ってそちらに視線をやれば、ヤツだ。
油を塗ったようにテラテラと光る嫌らしい黒茶の身体。
長い2本の触覚がワサワサと揺れている。
「ひぃっ」
思わず喉の奥から妙な声が漏れた。
私はどうにも子供の頃から虫というやつが苦手だ。
セミやカブトムシですら、あんなものを素手で触れる人間の気が知れない。
どうにも気持ちが悪いのだ。
あんなものが人類と同じ惑星で共通の祖先から進化した生き物であるなどとは到底思えない。
隕石に乗ってやってきた地球外生命体が地球上で独自に進化したと言われた方が余程納得できる。
中でもゴキブリは最悪だ。
あの姿形、妙に素早い動き、何処からでも侵入してくる侵略性、どれ一つとっても我慢がならないのに、その全てを兼ね備えている。
出来うることなら、地球上からヤツラを一匹残らず駆逐して絶滅させてやりたいとすら思う。
そいつが今、床の上に居座って私の進路に立ち塞がっている。
私はありったけの憎悪を込めてそいつをスリッパで踏み潰した。
帰りがけに少々嫌なことがあったが、そんな事は記憶から締めだして食事の支度をする。
カップ焼きそばの蓋を半分剥がし、かやくとソースを取り出して、ケトルで湧かしたお湯を注ぐ。
蓋が浮かないよう重しを置いて、3分にセットしたキッチンタイマーをスタートさせる。
同時に焼き鳥を電子レンジにセットする。
3分後、机の上には湯気を立てるカップ焼きそばと焼き鳥、酎ハイが並んだ。
電脳を操作し、ARアプリを立ち上げる。
途端、目の前の光景が変化した。
拡張現実が実際の風景を上書きしたのだ。
カップ焼きそばはイタリアンレストランで出てくるようなスパゲティ・アラビアータに。
焼き鳥は肉汁滴る串焼き肉に。
酎ハイは流通量が少なくて入手困難な海外製クラフトビールに。
影響は視覚だけではない。
嗅覚もそれに相応しい匂いを感じている。
「いただきます」
口に入れれば味覚や触覚もそれに相応しいものに変換されている。
今の私を客観的に見れば、割り箸でカップ焼きそばを啜っているだけだ。
しかし、私の自認としては銀のフォークでスパゲティを丸めて口に運んでいるのだ。
安っぽいソースの味はARアプリによって唐辛子の利いたスパイシーなアラビアータに変換されている。
硬く筋張った焼き鳥も、私の脳内においてはジューシーな牛肉に変換されている。
文明万歳!人類は安っぽい食事でも最高のグルメと同等の歓喜を味わえる技術を得たのだ!
私もプログラミング技術者として、その技術の一端を担っている事を誇りに思う。
貧相な実態など気にしなくて良い。この拡張現実さえあれば、昔の王侯貴族に匹敵する充実した生活が送れるのだ!
続く




