白衣と鮭の塩焼き
「失礼します。三年二組佐々木です。」
「お、化学係か。ノート、その辺に置いといてくれ。」
化学室に入ると、白衣の背中から声がかかった。
少しだけ開いた窓からは、下校し始めた生徒の声が聞こえてくる。
高校生にもなって必ず係を担当しなくちゃいけないこの学校で、定期テストの前にノートを集めるだけの化学係は一番人気が高い。
三年生の二学期でやっと科学係になれた佐々木ミホノは、この日が来るのをドキドキして待っていた。
今日は他の化学の先生が出張やお休みで、化学室に一人なのも確認済み。
授業中や限られた休み時間では・・・伝えきれない思いがあったから。
こちらに背を向けたままの遠野に気付かれないようコッソリとドアに鍵をかけ、口を開いた。
「先生・・・遠野先生。私の事、わかりますか?」
「んあ?三年二組のササキ、なんだろ?」
テストを作っていたのか、ノートPCを閉じた遠野がこちらを向いた。
緩くなったネクタイが、白衣の中で変な方向に曲がっている。
「やっぱりわかんないか・・・。先生、好きです。」
「っぶね!・・・は?」
思わずバランスを崩して椅子から落ちそうになり、机に手を付いた。
「あと半年で卒業だし、そのあと付き合ってください。」
一度、二度、ミホノの顔を見ると、大きなため息と共に手を膝に付いて下を向いた。
「あのな・・・罰ゲームか何かか?イジメとかなら、担任の先生と一緒に話を聞くが。」
「違いますよ。先生の事が好きだから告白したんです。」
「・・・もし本気だとしても、悪いが生徒はそういう目で見れな」
「はい。だから、半年後に。彼女とかいますか?」
「あ〜・・・まぁ今は居ないが・・・そうじゃなくて、卒業して元生徒になったとしても相手が教師じゃ倫理的にだな。」
「じゃあ、昔からの顔馴染みならいいですか?」
「・・・え?」
「ね、鮭のおにーちゃん?」
一瞬の間。
カバッと勢いよく遠野が顔を上げた。
驚いた遠野の瞳に、嬉しそうなミホノの顔が映る。
むふふ、と笑うと言葉を続けた。
「おばあちゃんの旅館で毎年夏休みに会ってたミホノです。あの時はお世話になりました。」
「お、おまっ、お前、ばあちゃん家の横の民宿に来てたガキか?!」
「・・・あれでも一応、旅館です。それにもうガキじゃないし。高校卒業した途端に来なくなっちゃったから、もう会えないかと思って寂しかったんですよ?」
色々と気になるポイントがあったのか、口を尖らせた。
「は?!だからってお前、そんな、こ、告白とか、からかうような真似するんじゃない!」
「もう、からかってないってば。・・・毎朝おばあちゃんが焼いてくれる塩鮭、私が苦手だからってずっと食べてくれてたでしょ?あの時からずっと好きだったんです。」
「いや、あの時って・・・小学生のガキじゃないか?」
「ですです。だから、八年くらいですね。」
「いやお前、そんな子供の時の・・・というか、せっかくの花の女子高生の時間を、あんな鮭ごときでだなぁ。」
頭を抱えて下を向いた遠野の顔を、ミホノがしゃがんで覗き込んだ。
「キッカケなんて、些細な事でしょ?恋に落ちる時なんて。」
少し恥ずかしそうにはにかむ笑顔は確かに夏の少女の面影がある。
だが纏う雰囲気は蕾が花開く瞬間のような、大人になろうとする女性の面持ちだ。
遠野が口を開こうとした瞬間、ミホノの指がその唇に触れた。
触れる指は震えているが、その瞳は反応を楽しむかのように艶やいで遠野を誘う。
その色香に、思わず息を飲んだ。
「まだ、返事はしないでください。八年越しの片想いなんだもん。あと半年くらい待てるから。それからでもいいでしょ?」
「・・・だったら、何で今言ったんだよ。」
ミホノの指を掴んで離しながら、目を合わせないよう明後日の方向を見た遠野が聞く。
あの視線は、妙な気持ちになってしまう。
「だって、いきなりあの鮭の小学生です〜なんて言ったって、断られるに決まってるじゃん!本当は三年間かけるつもりだったんだけど、二人っきりになれるチャンスがなくて・・・。」
ゆるゆると力無く指を下ろし床へと視線を落とすミホノ。
その寂しそうな後頭部に、無意識に手が伸びる。
と、その瞬間、ガバッと顔を上げられ慌てて手を引っ込めた。
「だからっ!半年は私の事見てて!ちゃんと見て、オッケーしてください!」
強い意思のこもった顔に驚き、言葉を理解して自然と笑みが溢れる。
「何だそりゃ。オッケーする前提かよ。」
「そりゃあそうでしょ!可愛くて、一途で、もう鮭も食べられる女の子を断る理由なんてないんだから!」
両手で握りこぶしを作ったミホノの勢いに、遠野が笑いを堪える。
「・・・わかったよ。別にお前の気持ちはお前の自由だし。でも、俺は教師だからな?」
「大丈夫!ちゃんと長期計画立ててるから!」
とうとう我慢出来なくなった遠野が大きな声で笑い出した。
「はははっ!長期計画な!そりゃ安心だ。」
声を出して笑う遠野を嬉しそうに見つめていたミホノが、廊下を歩く足音にハッとする。
「じゃあ、先生!失礼します!」
言うが早いか、素早い動きで鍵とドアを開けて出て行った。
だがすぐにまたドアが開くと、今度は眼鏡の同僚が顔を出した。
「遠野先生、今日配られたこのプリントなんですけど・・・どうしました?変な顔してますよ?」
「あ、いやいや、何でもないですよ!」
「そうですか?あ、さっきの生徒、怪我が何かしたんですか?」
「え?!どうかしたんですか?」
「何か指を口に当ててたんで、切り傷でも作ったのかと・・・え、遠野先生?!ホントに大丈夫ですか?!」
「いえ、ホントに大丈夫です・・・。」
机に突っ伏したまま、半年かぁ・・・と誰にも聞こえないように呟いた。




