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29 君を愛す(イッチ・リーベ・ディッチ)

 コンクールの授賞式が終わりエントランスに出ると、華音が助走をつけて飛び込んできた。


「キョウジ、銀賞おめでと!」

「わわっ」


 転びそうになるのを、なんとか踏みとどまる。

 華音はまっすぐに僕の目をのぞき込んできた。


 夜空みたいな深い青のロングドレスがよく似合っていて、目が離せない。


 息をするのも忘れるくらい、きれいだ。


「……なんで、あの曲を弾いてくれたの?」


 こんなふうに気軽に華音と話せるのも、今日で最後なんだ。


 なんでもっとはやく、気付かなかったんだろう。


「……今日弾かないと後悔すると思ったから」


 華音の手に、手のひらを重ねる。 


「……僕、高校を卒業したらウィーンの音大に行こうと思う。もっと勉強して、向こうの劇場で弾けるようになるから……」


 ああ、言いたいのはこれじゃない。

 こんなことじゃない。


 もう時間がないんだから、ちゃんと言わなきゃ。


「僕が向こうでピアニストになれたら、そのときは隣に居てほしい。…………華音と一緒に居たいんだ」


 行かないでほしいなんて言えない。

 ドイツ語もまともに話せない今の僕が、一人でウィーンで暮らすなんて現実的じゃない。


 だからせめて、僕がウィーンに行けるだけの力を付けてから。


 すごく遠回しな言い方しかできなくて、情けないな。


 華音は何度もまばたきして、それから小さく笑った。



「今じゃなくていいの? ……あたしは今キョウジといたいよ」


「…………え、だって、華音は明日引っ越すんじゃ」


 華音は肩を震わせて、僕の手を握り返す。


「ふふふっ。あはは、キョウジ、あたしがひっこすと、思ってたのね? Die(ディ)Oma (オマ)のとこいくのは、旅行。五日だけよ。レオ、テレビ通話はしてたけど、ちょくせつ会ったことないから」


「よかった……」


 全部、僕のはやとちりだったんだ。

 華音はこれからも日本にいてくれるんだ。

 嬉しくて、涙が出そうになる。


 華音はひとしきり笑って、めじりに浮かんだ涙を指でぬぐう。

 それから、「でも」と付け加えた。


「……でも、なに?」


「高校出たら、ウィーンに帰る。Die(ディ)Oma (オマ)みたいなオペラ歌手なりたいから。そこから音大行く」


 いますぐでないにしろ、華音は日本を離れるんだ。

  


「本気でウィーンの音大目指さないとだ」


「ならあたし、キョウジのせんせになるよ。ウィーンの学校、ドイツ語、話せないと行けないのよ?」


 華音は得意げに、人差し指を指揮棒みたいに動かす。

 華音にとってドイツ語は第一言語。


 こんなに頼もしいドイツ語講師は他にいない。


「……厳しそうだな」


「ふっふっふっ、手加減はせぬぞ、覚悟めされよ」


「とのさまかな」


 たまにサムライみたいな話し方になる華音。

 このやりとりが心地良い。


 僕も華音につられて笑う。


「それで、キョウジはほんとに大学行ってからでいいの?」


 話を戻されて、さっき自分が言ったことを思い出す。


 もう後悔したくない。

 華音の目を見て、今度こそ伝える。



「……やっぱり、今がいい。華音が好きだから」

「うん、あたしもすき。キョウジといたい」


 手を繋いで、どちらからともなく笑い合う。



「ブラボー!」とどこからか声援と拍手が聞こえてきて、振り返れば、コンクールを聞きに来ていたお客さんたちがいた。


 そうだ、ここはコンクール会場、つまり公衆の面前。


 頭が真っ白になった。


「うわあぁあ、すみません、すみません、人前でお恥ずかしいところを」


「いやはや、あの曲を弾いたのは恋人のためだったか。うんうん、若いなぁ」


 近くにいたご夫婦の旦那さんがしきりに頷いている。


「そうね、わたしたちの若い頃を思い出すわぁ」


 奥さんもなぜかハンカチで涙をふいている。


 早くどこかに逃げたい。


 ちょっと離れたところにいた父さんと母さんが右手をひらひらさせる。


「響司、おれとゆーちゃんは先に帰るから、彼女をしっかりと家まで送ってやるんだぞー。家に帰るまでがデートだ」

「ちょ、ちょっと待って父さ……」


 僕が止めるのも聞かずに行ってしまった。


 華音は渦中の人のもう一人なのに、僕の隣でずっと笑っている。


「キョウジ、ごはんたべて帰ろう。帰るまでがデート、Papa(パパ)さん言ってた」


「言ってたけど」


 財布もあるし、スマホに交通ICも入ってるからレストランで食事できるし問題なく帰れる。


 金銭的に問題ないけど、いたたまれない。


「さ、行こうキョウジ」

「……どこで食べるの?」

「あたしおはし使えないから洋食がいい」


 そういえば、華音が箸を使っているところをみたことがない。


 お弁当はいつもサンドイッチだったし、華音の家でもパン食だった。


「僕はあまり詳しくないから、華音が入りたいところでいいよ」


「ならこれから駅に行って、最初に見つけた洋食のお店にしよ。ね?」


「いいよ」


 華音は僕の腕に抱きついて、意気揚々と歩き出す。



 こうして僕らは、嘘の恋人から本当の恋人になった。


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