28 心からの思いを込めて(インネルステ)
今日はピアノコンクール全国大会。
こんな日に限って電車が遅延するなんて、ついてない。
ホームは電車を待つ人がたくさんで、おしくらまんじゅうになってる。
いそいで別の電車に乗り換えて、会場のホールを目指す。
スマホで場所を確認しながら走って、キョウジの出番が来る前に、なんとか空いた席に滑り込めた。
息が苦しい。まだ心臓がばくばくいってる。
呼吸を落ち着けて、滴る汗をハンカチでぬぐう。
こんなぎりぎりになるなんて、ロングドレスにして失敗だった。
パンプスが靴擦れして痛い。
でも、キョウジの晴れ舞台だもん。
普段着で来るなんてできないよ。
隣に座っているご夫婦が、参加者リストを読みながら話をしている。
「次は当馬くんか。確か、去年は英雄ポロネーズを弾いていただろう。あれだけの曲を弾けるのに、今年はなんだってこんな簡単な曲にしたんだろうな」
「いいじゃあありませんか、あなた。わたしは今年の選曲、どちらも好きよ。すごくロマンチック」
……こんな簡単な曲って、なんだろ?
リストをもらわずかけこんじゃったから、直接聴くしかない。
キョウジが名前を呼ばれて舞台に出てきた。
はじめの和音を聞いて、ピンときた。
パッヘルベルのカノン。
ピアノに向き合うキョウジの表情はとても優しい。
春の木漏れ日の中で聞いているみたいな、あたたかい気持ちになれる。
曲が一番盛り上がるところにはフォルテを。
二人で手を繋いで坂を駆け上がるような、とびはねたくなる楽しさがある。
キョウジと出会ってから今日までのこと、つぎつぎに頭の中に浮かんでくる。
カノンが終わって、間をおいて次の曲につながる。
ゆったりのびやかなメロディ。
ベートーヴェンのIch liebe dich。
──DieOmaの子守唄。
『キョウジがお昼寝するときは、あたし頭ポンポンして歌ってあげるよ』
あたしが言ったら、キョウジは微笑んで約束してくれた。
『じゃあ、華音が眠るときは僕が弾こう』
キョウジは音楽に詳しいんだから、わかってるでしょ。
これは、ベートーヴェンが恋人に贈った愛の歌だってことも。
短いから、コンクールで勝ちたい人が選ぶ曲じゃないってことも。
あたしのために弾いてくれてるんだって、うぬぼれていいのかな。
キョウジも、あたしと同じ気持ちでいてくれるって。
Ich liebe dich
君を愛している。
so wie du mich
君が僕を愛してくれるように。
am Abend und am Morgen
夜も朝も
doch war kein Tag, wo du und ich
nicht teilten unsre Sorgen.
僕らは苦しみを分かち合った
やわらかくて、あたたかくて、胸が痛い。
キョウジの心が、まっすぐ流れ込んでくる。
気づいたら、目の前が濡れて滲んでいた。
キョウジの演奏が終わると、会場内はしんと静まり返る。
なぜ全国大会でこんな簡単な曲を、と嗤っていたおじさんが、耳が痛くなるくらいの拍手をする。
あたしも舞台を見上げて拍手する。
キョウジと目が合う。
いますぐ、キョウジのところにかけていきたい。
キョウジに言いたい。
あたしは、もう嘘の関係じゃ足りない。
ほんとうの恋人として、隣にいたい。




