memorys,90
薄暗い病院の廊下を走っていくと、ある病室の前にぼんやりと数人の人影が見えてくる。その人影の正体が分かるのに時間は掛からなかった。
「やっと来たのね、涼華さん……このままいらっしゃらないかと思いましたわ」
「別に九条家には知らせなくてもよかったんだがな。会長秘書が勝手に連絡してしまってね……」
涼華さんのことを見るなり冷ややかな言葉をぶつけてきたのは、わたしが最も苦手で唯一好きになれないあいつの両親だった。涼華さんの亡き旦那さんの弟夫婦。パーティの時は晶としか絡みがなかったが、やはり子も子なら親も親なんだろうと心の隅で思った。
「よう、陽太じゃないか」
会長が倒れた一大事にも関わらず、ひとりだけ陽気な口調で声を掛けてきた相手を思わず睨んでしまう。いつか会った時はかなり機嫌が悪い様子だったが、今日はいつになく気分良さそうに満面の笑みを浮かべていた。今にも口笛まで吹き出しそうな相手に誰もが呆れた表情を向ける。
「ついに俺の時代がやって来たぞっ! これで時期社長候補は決まったなー」
「不謹慎だぞ、晶っ!!」
本当にこの人は会長の孫なのかと疑いたくなるような失礼極まりない発言に、わたしより先に陽太さんが怒りの声を上げた。
「こんな時にお前はそれしか言うことはないのか!」
「俺は時期社長だぞ!! 一般社員が俺に対してお前呼ばわりとは無礼じゃないか!!」
「陽太くん落ち着きなさい。晶くんも今は気持ちを沈めてくれないかい?」
今にも掴み掛かりそうな雰囲気のふたりに、お父さんが優しく制止を求める。そのお父さんの姿を馬鹿にするようにして鼻で笑う晶を見て、今度はわたしが我慢の限界を感じた。せっかく止めに入ったお父さんには悪いが、晶に一言でもいいから文句を言おうと口を開きかけた時だ。ある人物の声によって空気は一変する。
「皆様、会長が目を覚まされました」
病室から出てきたのは、会長秘書を勤めている年配の男性だった。
「お父様の容態は?」
心配の声を漏らした涼華さんに対し、秘書は笑顔を浮かべながら答える。
「今か落ち着いておられます。会長から皆様にお話しされたいことがあるそうなので、詳しいことは中で……」
そう言って病室へと誘う。秘書の言うとおりにみんな病室へと入っていこうと足を向ける中、晶はひとり足を止めて陽太さんに向かって自信満々な顔付きで告げた。
「みんなをわざわざ病室になんか呼び出したのは、親父を会長に、俺は社長にって発表するためだぜ。これでお前もますます肩身が狭くなるな」
沸き上がる怒りと、言い返せない悔しさから陽太さんの握られた拳が小刻みに震えている。余計なことをペラペラ話すその口をどう塞いでやろうかと陽太さんの後ろで思っていると、晶の目線がわたしに向けられた。
「俺が社長になったら、せいぜい自分の身の振り方を考えておくんだな」
そう言って、にやりと嫌な笑みを浮かべる。
背中にゾクッと寒気が走った。自分が邪魔だと思えば、記者を使ってまで相手を陥れる非道な男。また何かを企んでいてもおかしくない。それを知っているからこそ、もしも晶が社長にでもなれば彼に逆らえなくなるのが目に見えていた。
「すまないね。こんな日に倒れてしまって……いらん心配を掛けてしまったようだ」
みんなが病室に入ったところで、ベッド上で上半身を起こした状態の会長が笑顔で言う。元気そうには見えるが、やはり顔色があまり良くないように見えた。
「お父様、心配したんですよ」
「身体は大丈夫なんですか? もう年なんですから無理なさらない方がいいんじゃないですか? なんなら誰かに会長の座を譲ってはどうでしょうか」
これを期に自分が会長になりたい欲が見え見えの弟夫婦に、わたしは小さく溜め息を漏らしながら様子を見守る。
「実はだな……その事もあって、みんなに病室へ集まるよう秘書に頼んだんだ」
「まあ! なら主人を会長にしてくださるのですか!?」
「だったら僕が社長なんだよね、お祖父様!!」
「当たり前じゃないか、跡継ぎはお前しかいないんだから! 父さん、いつからですか?」
待ってましたとばかりにはしゃぐ3人を見つめてから、会長はひとつ咳払いをした。
「わたしはまだ何も話していないぞ。いいから黙って聞きなさい」
穏やかな目をしていたのが急に、厳しい仕事人の目付きに変わった。それを見たからか、三人は喉を鳴らし言葉を飲み込んだ。
「今回倒れたのは軽い不整脈が原因だった。命に別状はないが、わたしももう年だ……会長と社長の二足のわらじをあと何年続けていけるかも分からない。それにいつまでも社長不在では会社としての信用問題に関わる。今日倒れて、それを痛感した」
会長は隣の秘書に何かを指示するように手で合図を送る。秘書はベッド脇の棚の引き出しから大きな茶封筒を取り出すと、それをそっと会長に手渡す。それを開くことはないまま、会長は何かを確認するかのようにわたし達を見渡した。
「ここへ呼んだ理由は、お前たちの想像通り……社長を誰にするかわたしの口から報告したかったからだ」
会長はふっと晶に目線を向ける。それを見た陽太さんが肩を落とすのをわたしは見逃さなかった。
「晶……お前には時期社長候補としていろいろ任せたな」
「はい!」
目を輝かせながら返事をする晶の反応を見て、会長は一気に目線を陽太さんに移す。
「その結果、やはり陽太を社長に就任することを決めた」
この言葉で晶の表情は一瞬にして凍り付き、異様な沈黙が部屋に訪れた。




