memorys,40
窓から聞こえる細波の音、カーテンを揺らす潮風はもう耳には届かない。自分の瞳の中に映る白藤さんから、目を逸らせなかった。
「なんの覚悟も持たない奴が簡単にできるものじゃない……必ずお前は傷付く。“一緒に幸せ”なんて望みはまるでない……それが今のお前がしている恋愛だ」
その言葉はどこか経験を語るように重い。
「執事とお嬢様は決して結ばれない」
その重さは確実にわたしの上へと伸し掛かり、現実を見せた。
「時代がいくら変化しようとも、身分での差別はなくならない。世間は弱いものを容赦なく排除しようとする」
わたしは、神木さんの側にいてはいけないの?
脳裏に浮かぶ神木さんの笑顔に、わたしは改めて白藤さんを見上げる。
「覚悟があればいいの? 覚悟があればわたしは神木さんの側にいられる……そうなんでしょ?」
相手は目を見開き、わたし
から体を離す。
「ほんと、お前って小学生のままでかくなっただけだな。よーく考えてみろ……お前たちの事が世間に知られた時、真っ先に排除される人間は誰だと思う?」
「えっ?」
「神木だろ?」
ベッドから立ち上がり、また椅子の方へと戻っていく。その後ろ姿を黙ったまま目で追った。
「世間に曝された時、神木は執事でいられなくなり……もちろん屋敷からも追放される。そんな状態のあいつでもいいと思った時こそ、本当の覚悟が必要になるんだ」
「本当の……覚悟?」
「神木のために自分を犠牲にできる覚悟だ。お前は今の生活、家族を捨てられるのか? 大切なものを捨てる覚悟……お前に出来るか?」
“覚悟”の意味と責任を思い知らされる。
絶望に近い落胆に言葉をなくした。
「俺が言いたいのはそれだけだ」
椅子に置かれた本を手に取り、またこちらへと振り返る白藤さんの顔を見るのが躊躇われ、目線を天井へとずらす。
「今はとりあえず休め……考えるのは後でもいい。考えたくないなら、そのまま知らないフリをして構わない。それはお前の自由だから」
本棚に本を戻すと、もう何も言わずに寝室から出ていってしまった。静かに閉ざされたドアの音に、なんだか涙が出そうになる。
(大丈夫……神木さんのためなら、どんなことだって笑顔で乗り越えられる)
そうだよね、お母さん。
記憶の中にいる母に問い掛けるも、答えなど返ってくる筈もなかった。
◇◇◇ ◇◇◇
そっとリビングの扉が開かれる音に、テーブルを拭いていた白藤が手を止める。
「白藤さん、こちらにいらっしゃいましたか」
穏やかな笑顔を浮かべる神木に、思わず小さな笑みを見せた。
「何か?」
「夕食の食材の下準備が終わったようですので、後程外へ運びますので手伝っていただけますか?」
「ええ、構いませんよ」
ふっと時計に目を止めると、白藤さんは作業を中断する。
「それなら先にお嬢様を起こして参ります。まだお休みのようだったので」
「……よろしくお願いいたします」
出口のドアが閉じぬように支えながら、神木はあくまで執事スマイルを向け続けた。そんな相手の前を通り過ぎようとした白藤の足が急に止まる。
「随分と……余裕なんですね」
「何を仰りたいんですか?」
笑顔を崩さない神木に対し、白藤も冷静な口調で続けた。
「本当は気になって仕方ないのではあしませんか? お嬢様とわたしの間に何があったのか……」
一瞬、顔を歪ませる神木に笑みを零す。
「心配いりません。わたしは今のあなた達を邪魔立てするつもりなんてありませんから……どうせ、俺が何もしなくても、あなた達は勝手に壊れていくでしょうしね」
まるで予測しているような口振りに、ついに神木は“執事”を保つのをやめた。
「決め付けないでくれ……壊れるなんて有り得ない。何を考えてるのかは知らないけど、あなたの思うようにはならない……絶対に」
「自信があるならそれで構いませんよ。これは俺が勝手に警告してるだけですから」
「警告?」
怪訝そうに聞き返す神木に、白藤は静かに背を向ける。
「俺とあんたじゃ“覚悟”が違う……いずれ“その時”が来たとしたら、俺はあんたになんか負けませんからっ」
そして、振り返ることなく立ち去ってく彼を神木は溜め息混じりで見つめた。
「一体なんなんだ?」
相手の急激すぎる変化に首を捻る。
「……覚悟か」
その意味と意図がわからない。けど、何かを予期しているような彼の言葉に、なんだか嫌な胸騒ぎが走ったのだった。
神木と別れ、白藤はそのまま亜矢が休む部屋へと向かう。まだ物音がひとつも聞こえない寝室のドアを軽くノックするが、案の定反応は返ってこない。
返事を待たずにドアを開けると、安心したよう顔をして寝息を立てる亜矢の姿が目に映った。
「全く……少し油断しすぎだろ。まぁ、俺としては好都合だけどな」
亜矢の側に立ち、ゆっくりとベッドに座る。
「俺はあの日から何もかも失って、絶望の中で生きてきた。お前とこうして再会するまでは……」
亜矢が起きないように、優しく髪を撫でた。
「まだ邪魔はしない。誰が好きでもいいさ……けど、会えたからには必ず言わせてみせる。“俺が必要”だって思わせてやる」
そっと触れたかどうか分からないぐらいの一瞬のキスを柔らかな頬に落とす。
「んっ―――」
「お前のためなら俺はできるよ……“全てを捨てる覚悟”」
その声を亜矢が聞くことなく終わるも、白藤はどこか満足そうな笑みを浮かべた。
その“覚悟”の重さと意味など誰も知らない。
しかし、それを知る時が近いことを少なくとも彼は知っていたのだった。




