幕間 陽の当たらない場所で
陽が落ち、深い闇が街を覆う時間。一人の男が夜の裏路地を走っていた。
背後に迫る『何か』から逃げ惑う男は、時折後ろを振り向いては、恐怖に顔を歪めている。
「なんなんだよ! あいつは! 僕が何をしたって言うんだよ!」
逃げても逃げても、そいつは確実に追いかけてくる。一心不乱に走るあまり、何度か通行人にぶつかったが、謝る余裕などない。
警察に助けを呼ぼうとポケットを探るが、どこかで落としたのかスマホが見当たらなかった。
「なあ! 助けてくれ! 追いかけられ――ひっ!」
すがりつくように通行人に助けを求めた直後、男は振り返り、闇の中に立つ『何か』を視界に捉えて悲鳴を上げる。そして再び、狂ったように夜の街を走り去った。
逃げて、逃げて、逃げて。
気が付けば、男は夜には誰も寄り付かない広大な工事現場へと足を踏み入れていた。
彼自身は気づいていない。自分が無我夢中で逃げていたのではなく、狩られる獲物のように『そこ』へ誘導されていたという事実に。
積まれた工事資材の陰に身を潜め、男は両手で口を塞いで必死に荒い息を殺す。だが――
カツン……。カツン……、カツン……。
わざと金属を引きずるような不快な音が闇に響き、男は「ひっ……」と声にならない悲鳴を漏らした。
コツ、カツン。コツ、コツ、カツン。
硬質な靴音と、金属がアスファルトを擦る音が交互に聞こえる。その足音は、確実に男の隠れ場所へと近づき――。
コツ、カツン。コツ、コツ、カツン……。
――やがて、少しずつ遠ざかっていった。
「ふぅー……」
男は小さくため息をつき、安堵から小声で吐き出す。
「なんで、僕がこんな目に……。やっと、警察の連中からも解放されたっていうのに……。あとは愛しの彼女に会いに行くだけなのに……。なんで……」
足音が完全に聞こえなくなったことを確認し、男は資材からそっと顔を出した。誰もいない。追っ手を撒いたのだと思い込み、安堵とともに一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
――ザシュッ!
「痛っ! あ……え? なんで、ぼく、足が……」
唐突に視界がブレて、男は無様に地面へ倒れ込んだ。
彼自身の足元に、不自然な角度で転がっている『それ』。靴を履いたままの自分の右足首から先だと、脳が必死に理解を拒絶していた。
「ああ……あああああっ! 痛い! 痛いぃっ!」
数秒の空白。直後、脳髄を焼き切るような破滅的な激痛が遅れて襲いかかり、工事現場に喉を裂くような絶叫が響き渡った。
コツ、コツ、コツ、コツ。
「痛い! 痛いぃっ!……お、お前か! 僕のあ、足を……ッ!」
血溜まりの中でのたうち回る男の前に、ゆっくりと歩み寄る一つの影。
黒いフードを目深に被ったその『人』は、片手に金属製の長いパイプを、もう片方の手には不気味に『光る何か』を握りしめていた。
街灯のネオンが、フードの下の素顔を照らし出す。
だが、そこに人間の表情はなかった。顔を覆っていたのは、骨格のラインにピタリとフィットした黒い金属製のタクティカルマスク。両目の部分は分厚いガラスで覆われ、口元には無機質なスリット状の通気口があるのみ。
「ひっ……! ぁ、あぁっ……!」
感情の一切を読み取れない異様な出で立ちに、男は恐怖で歯の根を鳴らし、這いずりながら無様に後ずさる。
――だが。
ズブッ……!
マスクの人物は、逃げようとする男の背中へ、無慈悲にその先端を鋭く尖らせたパイプを振り下ろした。
肉を裂き、臓腑を貫通する鈍い感触。
「ごぼっ……うぅ……あぁ……」
男の口から、おびただしい量の鮮血が泡を吹いて溢れ出す。
マスクの人物は、ぴくぴくと痙攣する男の姿を一瞥し、満足したかのように踵を返して闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、事切れるまでおぞましいうめき声を上げ続けるストーカーの男と、血の海に沈む切断された足だけだった。
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