第88話 金沢旅行⑦
朝食を済ませた俺たちは、砂浜の熱気を肌に感じながら海へと足を踏み出した。すでに日焼け止めは塗ってある。
初めての海に緊張しているのか、瀬那は落ち着かない様子で俺のラッシュガードのジッパーを何度も上下させている。俺に合わせて買ったそれは、彼女の背丈にはあまりに大きく、袖の先から小さな指先が申し訳程度に覗いているのが、なんとも言えず庇護欲をそそった。
まだ早い時間帯ということもあり、浜辺に人影はまばらだ。俺たちは手近な海の家でシートとパラソルをレンタルし、本日の拠点を設営した。
「暑いですね……。昨日より温度が上がっていませんか?」
「気象データじゃ同じなんだがな。照り返しのせいか、あるいは……」
「あるいは?」
「……いや、なんでもない」
浮かれている場の空気のせいだ、と言いかけて飲み込む。だが、鋭い金色の瞳が俺の横顔を逃さなかった。
「テキトーですね。……朔也くん、さては今、すごくテンション上がってますね?」
「……別に、普通だろ」
バレたか……。実際、数年ぶりの海に、ほんの少し――いや、かなり気持ちがあがっているのは自覚している。
とりあえず瀬那の言葉をスルーして、荷物を設置する。「図星だったからって、誤魔化さなくてもいいのに」と、呆れたような、それでいて嬉しそうな瀬那の声を背中で聞き流しながら、俺は保冷バッグの配置を整える。
ちなみに、シートの上に置いた保冷バッグには、保冷用の氷とペットボトルの飲料、そしてタオルが詰めてある。
さあ、準備は万端だ!
「と、言うわけで瀬那は初めてだから、海に入る前にまずは『砂浜の洗礼』を受けてもらうか」
「洗礼……? なんだか怖い響きです」
「そんな大層なもんじゃないさ。……ほら、手。まずは波打ち際に行こうか」
差し出した俺の手を、瀬那がギュッと握り返す。そのまま彼女を連れて波打ち際へ歩を進めると、足元の感覚がひどく曖昧に、頼りなくなっていった。
踏み出したつま先から、ざらついた砂がサラサラと逃げていく。
しっかりと大地を踏みしめているはずなのに、寄せては返す波の力で、足場がズルズルと崩れ落ちる。海へと引きずり込もうとする見えない手に足首を掴まれているような、不思議な浮遊感。
これだ……この感覚を、瀬那にまずは味わってほしかった。
「……っ、変な感覚ですね。くすぐったくて……動いていないのに、体が勝手に動かされているみたいです。ふふ、面白いですね!」
太陽の光を浴びて、彼女の瞳が宝石のような輝きを増した。
バシャバシャと楽しげに足踏みをして遊び始める姿を見て、俺は安堵すると同時に、不敵な笑みを向けてくる彼女にたじろぐ。
「だろ? これは一度覚えると病みつきになるんだよ」
「いえ、それはまだよくわかりませんけど? 朔也くんが子供みたいにはしゃいでるのは、よくわかりました」
「……こいつめ」
ニヤニヤとからかうように笑う瀬那。
瀬那は「クスクス」と笑いながら、その場でバシャバシャと足踏みをしながら遊び始めた。
どうやらテンションが上がっているのは、俺だけではなさそうだった。
しばらく波打ち際で遊び、海の感覚に慣れていく。定番だが砂で山をつくったり、桜貝を拾ったりして穏やかに楽しんだ。
ただ、時間が経つにつれて周囲に人が増えてきて、一つ厄介なことに気づいた。通りすがる男性陣の視線が、かなりの確率で瀬那へと向けられているのだ。
ここでは知り合いに出くわす心配がないことに加え、波で流されるのを防ぐため、今回の旅行中、彼女はカラーコンタクトを外している。そのため、本来の綺麗な金色の瞳が、陽の光と乱反射する水面の影響で宝石のように煌めいていた。
そこにこの整った顔立ちと、隠しきれないプロポーションの良さである。パートナーがいない男たちにとって、目を奪われるのは本能として仕方ないことだろう。最初から大きめのラッシュガードを着せておいて本当に正解だった。
波打ち際での水慣れもある程度済み、周囲の視線から少し離れるためにも、そろそろ本格的に海へ入ることにした。ホテルの穏やかなプールとは違い、絶えずうねる波がある状態だ。手を繋いだまま少しずつ沖へ進んでいくが、腰まで水に浸かったところで、瀬那がギュッと歩みを止めた。
「さ、朔也くん。絶対に、ぜーったいに手を離さないでくださいね!」
「ビビりすぎだろ。……わかった、わかった! そんなに睨むなって」
「むーっ!」
ジト目で睨まれてしまったのは仕方ないとして、こんな足場の悪いところで手を離すわけがない。
時折押し寄せる大き目の波に「きゃっ!」と可愛らしい悲鳴を上げているが、俺の腕をしっかり掴んでいる今のところは大丈夫そうだ。
「大きめの波が来るタイミングに合わせて、一緒にジャンプするんだよ。……ほら、来るぞ」
「え? は、はいっ!」
タイミングを見計らい、瀬那の両手を軽く引き上げるようにして波越えを促す。
「わぷっ」
俺のリードにもかかわらず、タイミングが少しズレて顔に波を被ってしまったらしい。目を白黒させて驚いている姿が、不謹慎にも――ものすごく可愛いと思ってしまう。
……完全に重症だな、俺は。
そのまま少しずつ深いところへと進み、小柄な瀬那の胸元がすっぽり水に浸かるぐらいの位置まで来た。
……よくラブコメ漫画のネタで見るが、海水だから余計にだろうか……本当に浮くんだな。ダボついたラッシュガードを着ていてもなお主張が激しいそれは、当然ながら俺の身体にはないものだから、つい視線がそちらに吸い寄せられてしまう。
「ふふっ。朔也くんも、ちゃんと男の子なのですね。安心しました」
悪戯っぽい声にハッとして視線を上げると、ニヤニヤと口角を上げた瀬那とバッチリ目が合った。……俺がどこを見ていたのか、完全にバレている。
(しまった……)
「……安心って、どういう意味だよ?」
頭を抱えたい衝動を押し込み、何とか平然を装って言い返す。だが、言葉の端が少し上擦ってしまい、まったく反撃の体をなしていなかった。
「だって……朔也くん、私が勇気を出して抱き着いても、いつも平然としてるじゃないですか。一緒に寝ている時だってそうですし……」
「っ、それは……」
「私だって、少しでも朔也くんに『可愛い』って思ってもらいたくて、ちゃんとケアしたり、プロポーションを維持するために運動したり、いっぱい努力してるんですっ。それなのに……。あんなに余裕な顔ばっかりされちゃったら、いくら私でも自信なくなっちゃいますよ……」
上目遣いで、少しだけ唇を尖らせた瀬那の抗議。
真っ直ぐに俺を射抜く金色の瞳には、冗談めかした響きの中に、切実な乙女心が混じっていた。
「お、おぅ……なんか、ごめん。別に意識していないわけじゃないんだよ。ただ、あまり意識し過ぎても実生活で困るかなって。……一緒に暮らしている以上な、わかるだろ?」
「言いたいことはわかりますが……それはそれです! もっと、ちゃんと良い感じにしてくださいっ!」
後半はかなり理不尽な要求をされた気がするのだが、真っ赤な顔で抗議してくる彼女を見ていると、ここは素直に飲むしかなさそうだ。
それにしても、普段の無防備なスキンシップは『天然』だと思っていたのだが、まさか俺の反応を見るために『わざと』やっていた部分もあったとは……瀬那、恐ろしい子!
◇
波と戯れているうちに、気づけば昼頃だ。楽しい時間はあっという間に過ぎると言うが、まさにその通りだ。一度ホテルに戻ってもよかったのだが、せっかくなので昼食は海の家で調達することに決めた。
落ちてしまった日焼け止めを塗り直すらしいので、瀬那には拠点のパラソルの下で待っていてもらう。
俺は焼きそばにフランクフルト、フライドポテトといった、砂浜で食べれば三割増しで美味くなる定番メニューを両手に抱え、拠点へと戻る。
「いや、まあ、予想はしてたけどさ……」
視界に入った光景に、俺は思わず嘆息した。案の定というか、様式美ですらある。瀬那の周囲を、三人の男が取り囲んでいたのだ。俺が離れてから、ほんの数分。ハイエナのように隙をうかがっていたのだろうか。
そもそも、男物のラッシュガードを羽織っているのはわかるだろうに、わざわざ瀬那を選ぶとは。チャレンジ精神旺盛というか、ただのアホというか……。
彼女はチャックを完全に閉め、フードまで被っているのだから、拒絶の意思全開だ。
「ねえねえ、そんな無視しなくても良いじゃん。一人で寂しいでしょ?」
耳障りなほど高い声。先頭の男が距離を詰め、膝を抱えて座り込む瀬那を追い詰めていく。
「お姉さん、もしかして彼氏にフラれた? マジかー、可哀想に。俺らと一緒にテンション上げてこーよ!」
「な! ちょっと顔見せてってば」
男の無遠慮な手が、瀬那のフードの縁へと伸びる。
「……っ」
びくりと肩を震わせる彼女の姿に、俺の理性が冷たく静まり返った。
「なあ。その子、俺のだからさ。ナンパやめてもらえるか?」
男たちの背後から、俺は話しかけた。手にいっぱいの食べ物があるのは様にならないが、気にしてはいられない。
「朔也くん!」
「ごめん、遅くなったな」
声を聞いた瞬間、瀬那の顔が「ぱぁ」っと、わかりやすく明るく輝いた。彼女は男たちを避けて、俺の背後へと滑り込む。俺の背中に触れる彼女の指先が、わずかに震えていた。
「お前、なんだよ!」
「なんだって、見たまんまだろ。……説明がいるか?」
素直に引いてくれると助かるんだけどな。後ろで瀬那が「朔也くん……」と心配そうな声を漏らしているが、正直、喧嘩になって下手に怪我をさせる方が困る。
(さて、どうするか……)
しばらくグチグチと何か言っているが、手を出すほどの度胸はなさそうなので安心した。ただ、どう切り上げたものかと困った状態は続いている。
「……っ! お、おい、こいつの左手見てみろよ! やべーぞ、こいつ。行こうぜ!」
「えっ!? なんだ、こいつ! 半グレかもしれんぞ!」
「マジかよ! し、失礼いたしましたー!」
俺が無意識にピアスを触っていた左手を見ては、失礼なことを言って脱兎のごとく逃げ出す男たち。
そう言えば今日、面倒だから手袋をはめていなかったな。だいぶマシになったとは言え、傷痕は強い陽光の下では思った以上に生々しく、少し目立ってしまっていた。
「なんか誤解されたが、結果オーライか。悪かった、瀬那。怖かったろ?」
「……ふふ、あ、あの人たち。半グレって……! 朔也くんを見てあんなに慌てて……っ」
「笑いすぎだ。……まあ、喧嘩になるよりはマシだったけどな」
俺の背中でクスクスと笑う瀬那。後ろに隠れている彼女の方を向き、フードに隠れた顔を見た瞬間――
『い■、あの……■■が無くな■まして……』
ふいに、何かを思い出した。
ただ、いつもの嫌な記憶のフラッシュバックではない。前にも感じた感覚だが、なぜこのタイミングで?
「……朔也くん? どうしましたか? 何かついていますか?」
「いや……。変なこと聞くけどさ。以前、どこかでお前と同じような状況に遭ったこと、なかったっけ?」
「えっ!」
瀬那は弾かれたように目を見開いた。その瞳が激しく揺れる。
「もしかして……思い出したのですか!?」
「え!? マジで遭ったのか?……いや、なんとなくそう思っただけで。……それ以上は何も」
「……むぅ」
期待に満ちた表情から一転、瀬那はこれ以上ないほど露骨に不満そうな顔で頬を膨らませた。
「何かご不満ですね」
「そんな事はないです。はい、この話はおしまいです!」
「えー、気になるんだが……」
「さあ、買ってきていただいたご飯をいただきましょう!」
俺の追及を完全にシャットアウトし、彼女は俺の手から食べ物を取ると、そそくさとシートに戻っていく。謎のままなのが気持ち悪いのだが、これ以上何を言っても教えてくれそうにない。
だが彼女は、食事を広げながら悪戯っぽく首を傾げて俺を振り返った。
「それにしても。私は朔也くんの『もの』……らしいですね?」
「……そこを弄るな。あの状況じゃ、そう言うのが一番手っ取り早かっただろ」
「『俺の』ですって。ふふっ♪」
「くっ……!」
顔を赤らめる俺をよそに、瀬那はご機嫌そうにフランクフルトを頬張る。
どうやら彼女の機嫌は、俺の一言によって、別の意味で気分が上がったようだ。
女性を物扱いするのは良くないのだが、瀬那は特段気にしていないらしく、しばらくの間、彼女はこのことをいじり続けるのであった。
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