第85話 金沢旅行④
お互いに日焼け止めを塗った後、軽く準備運動をする。さっきまで歩いていたとはいえ、準備運動ぐらいはしておかないと危ないからだ。……瀬那が、俺の背中に日焼け止めを塗っている時、「意外と硬いんですね……ふふっ」や「この筋肉の溝、ずっと撫でていたくなりますね……」と、妙に熱っぽい声でぶつぶつと呟いていたが、この子、本当に大丈夫だろうか。普段はこんな大胆なことを言うタイプではないだけに、旅行という非日常が彼女の理性を少しだけ狂わせているのかもしれない。
「気持ちいいですが、思ったより冷たいですね」
プールの端に座って、水に手を入れて確かめている瀬那。ラッシュガードは塗った時から脱いでおり、チェアに置いてある。陽の光の下で見ると、白い肌が余計に綺麗に見える。
パチャパチャと水を飛ばしながら感触を楽しんでいるようだ。俺も彼女の横に座り、足を入れてみる。
「……最初にプール入る時って勇気いるよな。何なんだろうなこの感覚」
「そんなことないですよ」
「えっ、マジ?」
俺が思わず聞き返すと、瀬那は不思議そうに小首を傾げた。
「はい、感じたことないですね。気持ちいいとしか思ったことないです」
アンケートを取ったわけではないが、ほとんどの人がそう感じていると思っていた。もしかして俺って少数派なのだろうか。
そんなどうでも良いことを考えつつ、俺は思い切ってその場から降りるようにプールへと入った。
「入ったら思ったより冷たくないな。陽の光で暑いのがちょうど良い感じだ」
「朔也くん」
「うん?」
バシャ!
「ぶふっ!」
呼ばれて振り向くと、俺の顔面めがけて容赦なく水が飛んできた。
俺が怯んだのをいいことに、瀬那は続けてバシャバシャと容赦なく追撃を仕掛けてくる。
俺は反撃を諦めて逃げるように一度潜り、少し離れた所まで移動したあと息継ぎのために顔を出した。
「瀬那……」
「水も滴る良い男ですね!」
「あぁ!?……そうか、そういうことするんだな。うん、わかった」
俺はゆっくりと歩きながら、手で水を集めるように進む。
「朔也くん……女の子の顔に水をかけるのは駄目だと思いますよ?」
「それ、卑怯じゃないか」
「ふふっ♪」
俺がため息をついて、両手を軽く上げるのを確認したら、瀬那はプールの縁に座った。入ろうとしているのだろうが、二の足を踏んでいるようだ。
「どうした?」
「朔也くんの胸当たりに水があるのですよね……。私が入ったら呼吸できますかね……」
言われてみればそうだ。周りを見ると水深が書かれている壁があり、 120cm と表記されている。……ギリギリか?
……いやいや、いくらなんでも溺れるわけがないだろう。しかし、潤んだ瞳でそんな上目遣いをされると、思わず別の意味で緊張してしまう自分がいる。
「うーん、無理してここから入らなくても良いかもね。あっちの方が浅いからそっちに行こうか?」
「……いえ、ここから入ります! 朔也くんに捕まるので、手を伸ばしておいてください」
そこまでしてここで入らなくても良いとは思うが、彼女は彼女なりにこだわりがあるのだろう。俺は言われるがままに手を伸ばして、いつでも受け止められるようにした。
「ありがとうございます。では、入りますね」
ゆっくりと水に入っていく瀬那を見ながら、俺は『子供が初めてプールに入る』ぐらいの気持ちで固唾をのんでいた。受け止めようとして、手を引いたら面白いか? いや、さすがに危ないか。うーん、何かやり返したいが……。
「……朔也くん、また変なことを考えていますよね」
「……だからなんでわかるんだよ」
脚の根元近くまで水につかった状態でツッコミを入れてきたのは良いが、……この対面って、結構やばくないか? プールの縁に座る瀬那を見上げる形になるため、彼女の白く滑らかな太ももや、その際どい付け根のラインが嫌でも目前に迫ってくる。だからと言って目を離すわけにはいかないので、俺はできるかぎり瀬那の顔を見るように努める。
「くすっ、なんででしょうね。……それでは行きますよ」
ゆっくりと軽く腰を上げ、そのまま降りるように水に入った。申し訳ない気持ちもありつつも、安全のため瀬那のわきに手をひっかけるように支えた。まさしく子供を持ち上げる時の体勢だ。この格好の状態でこの近さは恥ずかしい……。
「今のところどう、足はつくか?」
「ギリギリつま先が付いている状態ですね。ゆーっくり降ろしてください」
俺は言われた通り、ゆっくりと降ろしていく。瀬那の顎が水面に着くぐらいで足が付いたようで、手を降ろしても沈んでいかない。
「ギリギリですが、大丈夫ですね」
「そうだな。だけど、このままだと遊べないから、やっぱりあっちへ行こうか」
俺は瀬那の手を握って、ゆっくりと浅瀬の方へと歩いていった。
瀬那の顔に水の波がかからないように。
◇
そこからしばらくプールで遊んだ。水を掛け合ったり、深いところに行ってみたいというので連れて行くと、想像よりも怖かったのか、俺の背中におんぶするような状態でもたれかかったりと……どんな青春漫画だよと言いたくなるような状態だった。絹のような髪や柔らかな特定の部位の感触が背中に当たり、心臓の音が伝わってくる。俺のほうがプールの中で溺れそうになるのは、おそらく彼女のせいである。
一時間も遊んでいると流石に疲れたので、一度プールを上がりチェアに移動する。タオルで水を拭きながら周囲を見ると、バーカウンターが目に入った。
(そういやあったな。喉も渇いたことだしちょうどいいな)
「瀬那、あそこで飲み物買ってくるけど、何がいい?」
「え? えっと……お任せします」
彼女はちょうど日焼け止めを塗り直していたので手が離せない。当たり前だが、メニューはわからないのだろう。「りょーかい」と言って、そのままバーカウンターへと向かう。
メニューから彼女が好きそうなジュースと、それとは対極になりそうな炭酸のジュースを選ぶ。
俺が戻ってくる頃には、瀬那はラッシュガードを羽織っていた。プールに入っていた時はともかく、寒くなってきたかもしれない。
「お待たせ。ほれ、これで良いか?」
俺が注文したのは、いかにも高級リゾートらしい二つのグラスだ。
一つは、まるで目の前の海をそのままグラスに注いだような、鮮やかなブルーの炭酸ジュース。グラスの底から細かな気泡が立ち上り、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
もう一つは、夕焼け空を思わせる濃厚なオレンジ色のフルーツジュースだ。輪切りのフルーツが添えられたグラスの表面にはうっすらと結露が浮かび、カラン、と涼しげな氷の音を立てた。瀬那にはこちらを手渡した。
「美味しそうですね、ありがとうございます。お金は後で払いますからね」
「うん? いや、いらないよ。どうやらサービスらしい」
「……本当ですか?」
訝しげに目を細める瀬那に、俺は苦笑して肩をすくめた。
「疑うな、マジだマジ」
隣同士のチェアに並んで座る。
とりあえず一口と飲んでみると、見た目通りの爽やかな味が舌に広がって、炭酸の弾ける感じがこの熱気を飛ばしてくれる。
瀬那も一口飲むと、「甘くて美味しいです」と喜んでいるようだ。冷たい飲み物にしたけど寒くないのか?
「ラッシュガード羽織ってるけど、寒かったりするか? 暖かいもの取ってこようか?」
「えっ? いえ、別に寒いわけではないのですよ。日焼け予防と……少し視線が気になったもので」
チラリと視線だけで周りを見ると、最初は家族連れかカップルぐらいしかいなかったが、いつの間にか男性だけのグループがちらほらと増えていた。ナンパ目的なら海に行きそうなものだから、目的は別なのかもしれないが、視線がこちらに向いているのが丸わかりだ。
あの眩しい水着姿と目を引くような白い肌を見れば、野郎どもの視線が集まるのも無理はない。正直なところ、だぶだぶのラッシュガードで身を隠してくれて、少しホッとしている自分がいた。
「申し訳ないのですが、これを着たままプールに入っても良いですか?」
「もちろん構わないよ。日焼け予防にもなるし、好きに使ってくれ」
「はいっ、ありがとうございます。それにしても、いい気持ちですね。パラソルが良い日陰になって、眠くなりそうです」
その気持ちはよくわかる。寝不足に加えてプールでの心地よい疲労、そして暑いのに日陰による涼しさ……ここが外じゃなかったら俺は寝ているな。
「眠いなら寝てもいいぞ。しばらく経ったら起こすからさ」
「いえ! 勿体無いので寝ませんよ!」
張り切っているが、大丈夫だろうか。流石にプール内では寝ないだろうが……。この子、たまにポンコツぶりを発揮するから心配だ。
◇
少し休憩した後、ホテルのプール内だけで使用できる浮き輪の貸し出しがあったので、借りてみた。
「こうですよね……どうですか、ちゃんと座れていますか?」
「大丈夫、大丈夫」
プールの縁からプルプルと体を震わせながら、瀬那は大きな浮き輪の上に座るようにして乗り、優雅に水面を漂っていた。
穴には入らず、チューブ部分に腰掛けた状態の彼女の白い足が、透明なプールの中でゆらゆらと揺れている。
背後に広がる青い海と、ラッシュガードの隙間から見える、ミントグリーンのオフショルダービキニ。まるで雑誌のグラビア撮影でもしているかのような完成された光景に、言葉を忘れて見入ってしまった。
「えい! えい! えい!」
「うぷっ!」
浮き輪に座ったまま、足と手で水を俺にかけてくる。傍から見たら微笑ましい光景なんだろうけど、やられた側はたまったもんじゃない。
「お前、俺がひっくり返さないと思ってるだろ」
「そんな酷いことをするのですか? ……やっぱり、朔也くんはイジワルさんですねー」
「えぇ……」
理不尽なことを言われた気がする。ただ、予想外だったのだろうな。手と足で俺に水をかける動作をしていたせいで、どんどん俺から遠ざかって行く。……深いところへ。
「あっ! ちょっと、そっちはダメです!」
バシャバシャと水をかいてなんとか戻ろうとしてもがくが、うまく動かずその場でぐるぐる回転するだけだった。微笑ましい光景だなと、俺はそんな瀬那を……録画した。
「な、なに撮ってるんですか! た、助けてくださいよー」
「くくっ」
「何、笑ってるんですかー!」
録画に満足した俺は、ゆっくりと近づき、ガシっと浮き輪を止めた。
「うぅ……朔也くん、笑ってましたよね」
恨めしそうに唸る瀬那に、俺は肩をすくめる。
「まあまあ、そう唸るなよ。自業自得ってことで反省してください。だけどな……」
捕まえた浮き輪を離さず、瀬那の目を見て微笑んだ。
その目に『逃がさない』と込めながら。
「……な、なんでしょうか?」
「俺はまだやり返していないんだよね」
「えっ?」
ニヤっと笑いかける。
流石にここからひっくり返して水に落とすのは、やりすぎだろう。
だから俺は代わりの罰として、浮き輪の縁をしっかりと掴み直した。そして、瀬那が逃げ出す隙も与えないまま、彼女ごとコーヒーカップのようにその場でぐるぐると回し始めた。
「わわっ!? さ、朔也くん、目が、目が回りますーっ!」
「あはははっ!」
浮き輪にしがみついている瀬那を見て、溜飲を下げた。……が、勢い余った瀬那が浮き輪から転げ落ちそうになる。
「きゃっ!」
「あぶねっ!」
ザパーン!
浮き輪から飛び出した瀬那をギリギリで掴み、沈むことは回避できたが、俺も瀬那も頭から思いきり水を被ることになった。
「......」
「......」
瀬那が水に沈まないように、両脇に手を入れて浮かせる。
至近距離で見つめ合ったまま、少しの間、沈黙が落ちる。
俺の顔からはポタポタと水滴が落ち、目の前にいる瀬那も、綺麗に整えられていたはずの髪が額に張り付き、見事な濡れ鼠になっていた。
お互いのその間抜けな有様と、今の状況が急に可笑しくなってくる。
「くっ……! ははっ、あははははっ!」
「ふふっ、あははははっ! さ、朔也くん、顔が、顔が変ですっ!」
「お前もだろ! もう、やめろってっ!」
俺が先に堪えきれずに吹き出すと、釣られたように瀬那も大きな声を上げて笑い出した。
俺の腕の中でバチャバチャと水面を叩きながら、お腹が痛いと言わんばかりに笑い転げている。初めて出会った時のような遠慮や影は一切ない、年相応の……いや、優等生の欠片もない無防備な笑顔。その心底楽しそうな姿に、俺まで釣られて笑いが止まらなくなってしまった。
……その後、はしゃぎすぎだとプールスタッフに怒られたのは言うまでもない。
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