第8話 落ち着かない理由
放課後。
今日は委員会で図書室に来ている。
南雲瀬那も一緒だ。
バイトばれの件以来、顔を合わせていなかったので久しぶりに会う。
二人して受付ではなく、本棚の整理をしている。
今週に入ってから始まった仕事だ。
本が乱雑に入れられているのを見て司書が憤慨し、受付の合間に整理することになった。
その司書は現在、フィルムがけをしている。
フィルムがけとは、本に透明のフィルムを貼る作業だ。
やったことはないが、空気が入らないよう慎重に伸ばしていく必要があり、かなり集中力を使うらしい。
時折、
「……気泡、死ね。……消えろ、消えろ……」
と物騒なことを呟いているのが聞こえる。
――大丈夫か、この司書。闇落ちしないよな?
受付に人がいないことを確認しつつ、整理を続ける。
(長時間座るのもキツイが、これはこれで腰にくるな)
『歴史』の棚にまったく関係ないラノベが入っていたり、『生物』の棚にロボット工学の本が並んでいたり。
なぜ元に戻さないのか……。
一冊一冊はそこまで重くないが、上の段に入れたり別の棚に運んだりしていると、さすがにしんどい。
「……(じーっ)」
「……」
南雲の視線を感じる。
バイトのことを、バラしていないか疑っているのか?
「……東條さん、今日はいじわるしないでくださいね」
「ぶふっ!」
唐突な一言に、思わず吹き出してしまった。
この前のことをいじってくるとは……最初の印象と違ってきたな。もう少し大人しいと思っていたのに。
「あのなぁ……」
「ふふっ♪」
恨めしげに軽く睨むが……まったく効いていない。何が楽しいのか、満面の笑みだ。このままだと勝てる気がしない。話を変えるか。
「ら、来週の野外学習……た、楽しみだな」
「……話題を変えるの、下手ですか?」
……呆れられた。
いや、自分でもわかってるけどさぁ……。
「……うるせぇ」
「ふふ、拗ねないでください」
なんか完全に手玉に取られてる気がする。
何とかこっちのペースにしたいが……
「班決め、大変だっただろ」
「あっ……少しだけ。女子はすぐ決まったのですが……」
「男子で揉めた感じか」
「えぇ……」
南雲は、少し困ったように苦笑した。
人気があるのは知っていたが、班決めとなるとやはり大変なのだろう。
「自惚れではありませんが、目立つ方なのは自覚しています。ですが、毎回こうだと……困りますね」
――その声は、少しだけ本音が混じっていた。
南雲は小さく息をつき、分厚い図鑑を戻すために脚立に足をかける。
どうやら一番上の段に入れるつもりらしい。
……待て。
スカートのまま、その無防備な角度で上まで登るのはまずい。下で見上げている俺の位置からだと――確実に、見えてはいけない領域が見える。
「南雲、ストップ! 一番上は俺が入れるから!」
「えっ!?」
焦った俺が声をかけるタイミングが、最悪だった。
南雲は脚立に片足をかけたまま驚いて振り返り、そのままバランスを崩して足を踏み外す。
「きゃっ!!」
「危ない!」
俺は本を放り出し、とっさに回り込んで落ちてきた身体を抱き止めた。
勢いを殺しきれず、俺の背中が本棚に激突する。背骨に鈍い衝撃が走った。
――だが、彼女を床に転ばせずに済んだ。
腕の中にすっぽりと収まった瞬間、ふわりとシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
それと同時に、彼女の細い肩の震えと、制服越しに伝わってくるトクトクという熱い鼓動が、俺の腕の皮膚を通して直接響いてきた。
「……っ」
驚くほど軽くて、少し力を入れただけで折れてしまいそうなほど華奢な身体。
俺とは違う、守らなきゃいけない存在なのだと、本能が警鐘を鳴らしている。
驚きのせいか、近すぎる密着した距離のせいか――俺の心臓の音が、やけにうるさい。
……顔が、近すぎる。
「……」
「……」
静寂が落ちる。
南雲も、あまりの急展開にまだ状況が飲み込めていないらしい。
さっきまで俺をからかって余裕な笑みを浮かべていた彼女は、今は嘘のように小さく縮こまり、俺のシャツの胸元を小動物のようにぎゅっと握りしめていた。
その白い指先の震えが、ダイレクトに俺の心臓にまで伝わってくる。
早く離れなきゃいけない。
頭では分かっているのに、体勢が崩れているせいで俺の方からはうまく動けない。
(女の子って……想像以上に柔らかいんだな)
――なんて、健全な男子高校生らしい不埒なことを考えた瞬間。
「ちょっと二人とも、悲鳴とすごい音が聞こえたけど大丈夫ー!?」
「「!?」」
本棚の向こうから響いた司書の大きな声に、俺たちは弾かれたようにバッと体を離した。
さっきまで柔らかい熱に触れていた腕が、妙に軽く、冷たく感じる。
……ほんの少しだけ、名残惜しいと思ってしまったのは絶対に内緒だ。
「ごめん。声かけるタイミング悪かったな。怪我ないか?」
「は、はい……大丈夫です」
顔を上げた南雲の耳が、うっすら赤くなっていた。
「おっと、ここに居たのね。大きい音したけど、大丈夫?」
「すみません、ステップ踏み外してしまって……」
「怪我はないの?」
「受け止めてもらったので大丈夫です」
「それは良かったわ。気をつけてね」
それだけ言うと司書は戻って行った。
「……」
「……」
残されたのは、本棚の間の静けさだけだった。
互いに何か言いかけて、やめる。
結局、そのまま何も言わず、作業に戻った。
「……続き、やりますか」
南雲はそう言って、本を持ち上げる。
――が。
持ったまま、棚の前で止まった。
数秒。
本を入れるはずの手が、動かない。
「……南雲?」
呼ぶと、びくっと肩が揺れた。
「あ、いえ……大丈夫です」
そう言って本を戻す。
――上下が逆だった。
「……」
自分で気づいたのか、そっと直す。
そして何事もなかった顔で、次の本を取った。
(……動揺してる?)
そして、ほんの一瞬だけ。
こっちを見たが、すぐ逸らした。
耳だけが、まだ赤いままだった。
(……なんで俺まで緊張してるんだ)
◇◇◇◇◇
Side:南雲 瀬那
委員会活動を終え、自然と途中まで一緒に帰路につきました。
会話は少ないです――いえ、ほとんどありません。
(未だにドキドキします)
東條さんに抱きしめられたところが、まだほのかに温かい気がしました。
さっき触れた距離。
腕の感触。
背中越しの体温。
思い出した瞬間、鼓動がひとつ、強く跳ねます。
(……なんで?)
意味がわかりません。
別に、特別なことじゃないはずです。
転びそうになったのを、ただ支えてもらっただけ。
――それなのに。
視線が、勝手に東條さんの方へと向いてしまいそうになります。
私は慌てて前を向きました。
やがて分かれ道に差し掛かったところで、私たちは同時に足を止めます。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
「はい、さようなら。また来週ですね」
短いやり取りだけを残して、お互いに背を向けて歩き出します。
(ちょうど週末でよかったです。来週学校で会う頃には――この変な動悸も、元に戻っていますように)
そう都合よく願った直後でした。私の肺の奥を突き刺すような、酷く冷たい風が吹き抜けたのは。
遠くの街角から、
「ウーゥゥゥ……カンカンカン!」
尾を引くような、甲高く不吉なサイレンが聞こえてきました。
消防車です。
なぜか、猛烈に胸の奥がざわつきます。
理由なんてないのに、早鐘を打つ心臓に急かされるように、自然と足が速くなりました。
――空に、黒く濁った灰色の煙が見えました。
道の先に数台の消防車が停まり、隊員の方々が慌ただしく交通整理をしています。
(待って……)
喉が、ひくりと鳴りました。
(その先は――私の、)
最後の角を曲がった瞬間。
私の目に飛び込んできたのは、見慣れた古いアパートをすっぽりと包み込む、狂暴なまでの朱赤でした。
パチパチと建材が爆ぜる音。誰かの悲鳴。ひどく焦げ臭い匂い。
すべてが現実感のない、遠くの出来事のように鳴っている中で。私はただ、燃え落ちていく自分のたった一つの『居場所』を、呆然と見つめることしかできませんでした。
「あ…………」
喉の奥で、私を支えていた何かが、ボロボロと音を立てて砕け散っていきました。




