第74話 走れ!朔也!
クラス対抗リレーの一つ前のプログラム。俺たちは入場門付近に集まり、その時を待っていた。格好良くモノローグを言っているが、走るだけなんだけどな。
「朔……東條さんも出場するのですか? 左手は大丈夫ですよね?」
「あぁ、南雲も出るのか。走るだけだから大丈夫だろ。バトンは右手でしか扱えないから、受け渡しで少し手間取るかもしれないけど、まあなんとかなるだろ」
左手は包帯のままだと、緩んだら面倒なことになりそうなのでゴム手袋をしている。ニトリルの手袋は扱いやすくて助かる。
「なら、負けませんよ!」
瀬那は胸の前で両手の握り拳を作って、力強く宣言した。漫画なら「ふんす! ふんす!」と擬音がありそうな感じだ。
「お手柔らかにな。ちなみに、何番手で走るんだ?」
「七番手ですよ!」
「南雲さんも七番手なんだね! 私が相手だよ!」
「くすっ、それなら負けるわけにはいきませんね」
同じ順番で走るからか、横で聞いていた雫が反応していた。そう言えば、雫は足が速い印象があるが、瀬那がどうなのかは聞いたことがない。おしゃれな靴でストーカーから逃げていたくらいだから、それなりに速いと思うけど。
「なんか面白いことになってんな。勝負事は嫌いじゃないぜ! ……ってことで、勝った方が朔也にクレープ奢って貰うってのはどうだ!」
「……おい浩紀。それ、俺に何の得があるんだよ」
勝手に俺の財布を賭けの対象にした浩紀を睨む。だが、浩紀は悪びれる様子もなくニカッと笑い返してきた。
「毛色は違うとはいえ、美少女との放課後デート権が手に入るじゃんか」
「えー……」
俺は露骨に嫌そうな顔をした。毛色が違うと言うか、ベクトルが違うと言った方が正しい気もするが、確かに二人とも美少女なのは間違いない。俺の勝手なイメージでは、知的で清楚(笑)なタイプか、太陽みたいな元気溌剌タイプか、といったところだ。
「……東條さん。今、私の顔を見て何か失礼なこと考えましたよね?」
俺が失礼な分析を頭の中で繰り広げているのをお見通しの如く、ジト目で睨んでくる視線を、俺は目を合わせないようにしてスルーする。
「……まあ、奢るのくらいは別に良いが、その時は他のやつも一緒だからな」
「オッケー! 言質は取ったぜ!」
「どうやって勝ち負けを決めるの? リレーの結果ではダメでしょ?」
当然の疑問を雫が浩紀に尋ねた。確かに徒競走ではないので、二人の厳密な結果にはならない。これは盲点だ。
「……大丈夫、公平なジャッジをするから! 和人が!」
「なぜに俺なのさ……」
同じく近くにいた和人に丸投げをする浩紀。困った顔をする和人を気にせず、続けた。
「朔也が判定するのはだめだろ? こういうの公平にしそうだしな、お前。あと、バトン受け渡すときに見てる位置が一番近い!」
「どういう理由だよそれは……仕方ないからやるけどさ」
(やるのかよ!)
俺は心の中でツッコんでしまった。なんだかんだノリがいいな、和人。内心は面白がっているのだろうか?
よくわからないまま勝負が決まってしまったが、二人ともなんだかやる気だ。これもまた、一つの思い出かもしれない。
『――プログラム第十五番。一年生、学年別クラス対抗リレーを行います』
グラウンドに放送委員のアナウンスが響き渡り、観客席から大きな歓声が上がった。どうやら、いよいよ本番らしい。
俺たちはそれぞれのクラスの待機位置へと向けて、歩き出した。
◇
そして、ついにリレーが始まった。
トラックの内側には、各クラスの代表たちが緊張の面持ちでスタートの号砲を待っていた。
第一走者。D組のスタートを任された女子は、スタートラインで何度も深呼吸を繰り返す。遠目からも彼女の額には、うっすらと汗がにじんでいるように見えた。たかが体育祭、されど体育祭。プレッシャーに押し潰されそうになっているのかもしれない。
『位置についてー! よーい!』
スターターの声がグラウンドに響き渡り、一瞬にして静寂が落ちる。
パンッ!
乾いた破裂音と共に、九人の女子が一斉に飛び出した。
「いけえええええっ!」
各組の待機エリアから割れんばかりの歓声が上がる。第一走者の彼女は、小柄ながらもピッチの速い走りで、第一コーナーの熾烈なポジション争いに果敢に食い込んだ。トップに躍り出たのはA組、それにF組が続き、D組は好位置の三番手につける。
「お願い!」
「おうっ! 任せとけ!」
トラックを半周し、バトンは第二走者である男子へと渡った。
ここからは男子特有のダイナミックな走りが加わる。彼は持ち前の運動神経が良いからか、前を走るF組にピタリと食らいついた。風を切る音が聞こえそうなほどの力強いストライドで、トップ集団にD組をしっかりと定着させる。
そこからの中盤戦は、息もつかせぬ死闘となった。
第三走者の女子は、後続から猛烈な追い上げを見せた外国語・国際コースI組の留学生の長いリーチに圧倒され、一度は順位を落としてしまう。しかし、彼女は見事な粘りで食らいつき、第四走者の男子へとバトンを繋ぐ。
コーナーワークの巧みさを活かしてインコースを突き、続く第五走者の女子は、持ち前の持久力でさらに前のランナーを射程圏内に捉えた。
そして第六走者の浩紀は、D組の中でも俊足の方らしく、凄まじい勢いで走っていた。
「……っ!」
「頑張れー! ひろー!」
敵のクラスだが、愛莉の声援もあってか、怒涛の追い上げを見せる。前を走るF組、そして規格外の身体能力を見せつけていたI組をごぼう抜きにし、ついにトップを走るA組の背中まであと数メートルというところまで肉薄した。スタンドの熱狂は最高潮に達し、実況マイクを握る放送委員の声もすでに裏返っている。
(めっちゃ盛り上がるじゃねーか)
俺は少し入り込めない雰囲気だったのだが、この盛り上がりに心拍数が上がってきた。この白熱した状況で、転んだりはできないなと考えてしまう。
そして、勝負は後半戦へ。A組の瀬那がすでにバトンを受け取った後、D組も第七走者へと託されようとした。担うのは、水野雫。
バトンパスの指定ゾーンで待つ彼女の心臓は、激しく鳴っているに違いない。先ほど見せたからかい顔とは違い、強張っているのがわかる。
浩紀は苦悶に顔を歪めながらも、必死に前へ前へと手を伸ばしている。その手にはバトンが握られていた。
「雫、いけええっ!」
「はいっ!」
ドンッ、と背中を押されるような勢いとともに、浩紀から雫へとバトンが叩き込まれた。
完璧なバトンパス。
受け取った瞬間、雫は弾かれたように駆け出した。
(速い……!)
俺は、自分の前の走者である彼女の走りに、改めて目を見張った。
追いすがってくるI組やF組を突き放し、雫のスピードは群を抜いていた。バスケ部で鍛えた体を精一杯躍動させ、トラックを強く蹴り上げている。
ついに彼女は、トップを行くA組の瀬那と完全に横並びになった。
デッドヒート。
スタンドからの応援が、地鳴りのようにグラウンドを震わせている。A組か、D組か。実況の声も興奮で何を言っているのか聞き取れない。
最後の直線に入った瞬間、雫がわずかに前に出た。
(一番で来る……!)
俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
次は自分の番だ。彼女が頑張って繋いだバトンを、自分が受け取り、さらに加速させ、斎藤へと繋ぐ。その責任感と緊張で手汗が酷い。
俺は進行方向に身体を向け、右手を後ろに伸ばした。首だけを左後ろにひねり、迫りくる雫の姿をじっと見つめる。
彼女の顔が、大きく迫ってくる。
苦悶に歪みながらも、その瞳には一番でバトンを渡すという強い意志が宿っていた。
髪が風になびき、額の汗が飛び散るのが見える。
(あと十メートル……五メートル……!)
俺は彼女との距離感を測りながら、徐々に身体を前に送り出し始めた。加速しながら受け取る、いわゆる『テイクオーバーゾーン』を活用した高度なパスをするためだ。
俺の掌は、もうすぐ彼女の手が触れるであろう空域を捉えていた。
「東條くん、お願い――!」
彼女の声が、風に乗って聞こえた。
まさにその瞬間。俺の目の前で。本当に、あと数歩でバトンが届く、その距離で。
まるで映像がコマ送りになったかのように――雫の身体が、不自然にカクンと沈んだ。
(――え?)
俺の視界の中で、彼女の走りのリズムが完全に崩れた。
限界まで回転を上げていた彼女の脚は、自身のスピードとトラックのわずかな窪みに足をとられ、もつれてしまったのだ。
抑えきれない推進力によって、彼女の上半身が虚しく前へのめり込む。
彼女は必死に腕をバタつかせ、立て直そうとした。その表情が、驚きと絶望に染まるのを、俺はスローモーションのように見ていた。
だが、重力と慣性の法則は非情だった。
ギュッ、とシューズの底が不自然に鳴り――次の瞬間、雫の体はラバー素材のトラックに叩きつけられていた。
「……っ!」
俺は、伸ばしていた右手を虚空に彷徨わせたまま凍りついた。
俺のすぐ目の前、わずか数メートルのところで、クラスの希望を背負って走っていた彼女が倒れている。
ほぼそれと同時にバトンを受けたA組はもちろんだが、後から来たF組やI組も次々と抜き去っていく。
何とか起き上がろうとしているが、転んだ衝撃でうまく立ち上がれないようだ。土のグラウンドとは違い、硬いラバー素材では倒れた威力を逃がしきれなかったのだろう。
先ほど自分が考えていた『転んだりしたら云々』を思い出す。実際にそうなったら、恥ずかしさもあるが、それ以上に申し訳ない気持ちになる。それを今、彼女は強烈に感じているはずだ。たかが体育祭……でも、嫌な思い出になる。
(それはかわいそうだ)
俺みたいに少し冷めている駄目な奴ならともかく、ちゃんと頑張っている彼女はそうではない。そんな彼女が不幸になるのは駄目だ。だから――
――本気を出そう。
俺はすぐに雫へと駆け寄り、彼女の横に落ちていたバトンを拾う。近寄ってきた俺に気づき、見上げた彼女の顔は今にも泣きそうだった。
「……ぐす、ごめん」
「大丈夫か? 無理をしなくていい。後は任せとけ」
「……え?」
すでに順位は七位へと下がっていた。
雫が落ち込まないぐらいの順位……せめて二位までには戻らないと。
俺は前を向き、走り出す足に力を込め――飛んだ。
もちろん比喩だが、そのつもりで足に力を込めてトラックを蹴った。ドンッ、という重い踏み込みの音が響き、蹴り上げられたラバーの破片がパラパラと宙を舞う。
一瞬にしてトップスピードに乗った俺の姿に、グラウンドの空気がピタリと止まった気がした。
「――え?」
「マジかよ! 嘘だろ!」
歓声が驚きに変わるのに、そんなに時間はかからなかった。
ちゃんと測ったことはないが、今出せる全力を出せば、速度は高校生の比ではないはずだ。
自分でもキャラじゃないことはわかっているが……やると決めた以上、やるしかない。
最初の三十メートルで前を走っていた三クラス分を抜き去り、目の前にはI組、その少し先にF組だ。そのまま、七十メートル付近でI組に並ぶ。
(A組まで、五十メートルぐらいか)
無駄にクリアになっている頭でそう考えながら、I組を抜き去った。
「えっ? はやっ!」
抜き去る瞬間に何か言われた気がするが、完全にスルーする。
前を行くF組の走者は、スタンドの歓声に反応したのか、一瞬だけ後方のこちらを見て顔を強張らせた。だが、もう遅い。焦って後ろを振り返る動作が、無駄な減速を生んでいる。
そのまま三十メートルほどをかけてF組を抜き去り、ついにトップを走るA組へと照準を絞る。
その差は、およそ二十メートル。
「うおぉぉぉぉぉ!」
叫びながら前を走るA組の背中……あいつは早瀬か。同じ図書委員なのに、久しぶりに見たかもしれない。
想定していた以上にスピードに乗っており、思ったよりも距離の縮みが遅い。
「……っ!」
酸素が足りず、肺が焼け付くように痛い。足の筋肉も限界を訴え始めているが、そんなものは無視だ。歯を食いしばってトラックを蹴り、無我夢中で腕を振る。
コーナーを抜け、九番手が待つバトンパス・ゾーンへと続く最後の直線に入った。
残り五十メートル。十五メートル差。
残り三十メートル。十メートル差。
じりじりと、だが確実に早瀬の背中が大きくなっていく。俺の足音と気配に気づいた早瀬が、必死の形相でさらにギアを上げた。
だが、今の俺の方が速い。
「いけえええええ!!」
「逃げ切れ早瀬ぇっ!」
グラウンドを揺らすような両クラスの怒号の中、ついに俺と早瀬は完全に横並びになった。互いの荒い息遣いが聞こえるほどの、意地と意地のデッドヒート。
視線の先には、ゾーンの限界ラインぎりぎりでこちらに向けて腕を伸ばす、うちの九番手の斎藤とA組の走者の姿があった。
(届け……っ!)
最後の力を振り絞り、もつれそうになる足で力強く踏み込んだ。
早瀬と全く同じタイミングで腕を限界まで前へと伸ばし――。
「「はい!!」」
俺と早瀬の声が重なった瞬間、二本のバトンは、同時に九番手たちの掌へと叩き込まれた。
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