第71話 振り替え休日のデート③
今、俺の目の前には鳥なのに飛べない鳥が三羽、一生懸命走っている。そう、それはペンギンだ。ただ走るだけではなく、平均台の上を進んだり柵を飛び越えたりして、最後に小さいくす玉を開けるまでを競争するという名のイベントだ。
見る限り、ペンギンは餌につられて飼育員を追っているようだが、そんなのは関係ない。ただただ、可愛いから正義なのだろう。
それは横にいる瀬那を見れば一目瞭然だ。
「はぁ~♪」
ペンギンがよちよち歩き、たまに転んだり柵を飛び越える姿を見て、瀬那は目をキラキラさせながら食い入るように見ていた。ペンギンの一挙手一投足(ペンギンに対して使っていい言葉なのかわからないが)、そのすべてに「可愛い」と言葉を漏らしている。完全に心を奪われているようだ。……もう、ここまでくると、どっちが可愛いのかわからない。ペンギンに夢中になって、普段の大人びた態度を忘れてはしゃぐ無防備な横顔。これを記録に残さないのは、保護者(?)として損をしている気がする。
とりあえず、写真を撮っておくか。俺はスマホを取り出し、ペンギンではなく隣の少女にレンズを向けた。
――カシャッ。
「え!? 今、私を撮りましたか?」
「ああ、撮ったぞ」
「別に良いですけど、撮る時は声をかけてからにしてくださいよ……」
少し頬を膨らませて抗議してくるが、その視線はすでにペンギンたちに戻りつつある。
「まあ、気にすんな。ほれ、ペンギンたちが良い感じだぞ」
「もぅ……」
不満はあるようだが、それよりもペンギンみたいだ。最後のコーナーを曲がった後、小さいステージの上にあるくす玉に近づく。それを見ていた飼育員の一人が、くす玉が割れないようにロックしていたであろうワイヤーを外していた。
「あっ」
――くす玉が割れた。
多分、これを見ていたほとんどの観客がこう思ったはずだ。「飼育員のお姉さん、ミスったな」と。飼育員のお姉さんはワイヤーの外し方を失敗したのか、ペンギンが触れる前にくす玉がそのまま割れてしまったのだ。ペンギンの力で簡単に割れるよう細工がされているのは、容易に想像できる。今回はそれが仇となったようだ。
しかし、会場はそれを見て大爆笑が起こるだけで、誰も責めていない。実況していた飼育員も「今回の一等は、飼育員のお姉さんでしたー!」と締めくくって、さらに爆笑が起きた。
ふと横を見ると、瀬那も「クスクス」と笑っていた。その姿もまた絵になっていたので、もう一枚写真を撮るのは必然だった。
◇
他の水槽を少し見たら、もう少しでイルカショーの時間だ。平日とは言えそれなりに人は多いので、念のため早めに席を確保した。前の方に行くとイルカが水をかけてくるらしいため、少し後ろの方に座る。暖かくなったとはいえ、びしょびしょになるのは避けたい。……あと、多分海水でべたべたするはずだ。
「楽しみです。軽く調べたのですが、関東でも一、二を争うぐらいのイルカショーらしいですよ」
「そうらしいな。迫力だけじゃなくて音と光の演出もすごいらしい」
俺の言葉に、瀬那はぱちりと瞬きをして、嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「……もしかして、私のために調べてここを選んでくれたんですか?」
「さてな」
図星を突かれてなんとなく恥ずかしくなり、誤魔化しきれていない言葉を返す。それを見た瀬那は、微笑ましいものでも見るように目を細めた。
「……なんだよ」
「いえ、特に何もありませんよ。うふふ」
なんとなく、本当になんとなくだが……負けた気がする。何に負けたのかって話だけどな。
少しすると、飼育員がショーについての注意事項をアナウンスした。そろそろ始まるみたいだ。印象的だったのは、「~列目までの席は、大量の水が飛んでくるので、カッパを着ていた方が良い」という内容だ。……そこまで濡れるのか。少し後ろに下がって正解だった。
ほどなくしてショーが始まる。音楽が流れ始めたと思ったら、天井から輪になった状態の水が滝のように流れ落ちてきて、そこに七色のライトが当たる。すると、二方向からイルカがジャンプしながら、大きなプールを回り始めた。
ライトの演出、音のタイミング、そしてイルカが速い速度でジャンプしながら泳ぐ――最初から五感を刺激してくる。
そして、一度深くまで潜ったイルカが、すごい勢いで上がったかと思うと、五~六メートルぐらいの高いジャンプをした。
バシャーン!
凄い勢いでプールに着水するイルカ。勢いは凄いが、入り方が良いのか水しぶきはあまりなかった。何だこんなものか……と油断していると、水面に上がってきたイルカが尾びれを勢いよくフリフリして、水を観客へと飛ばし始めた。
バシャ! バシャ! バシャ! バシャ! バシャ! バシャ! バシャ! ……
何度も何度も繰り返し、一番前の席にいた観客に容赦なく水をかけていた。
これはカッパがあってもだめだろうな……。慌てて飼育員が止めていたので、イルカのテンションが高くなってしまったのかもしれない。
「あぁ……」
それを見ていた俺たちは、同じようなかわいそうな声を出していた。今日は暑いぐらいの気温でよかったなと、心の中で手を合わせた。
「後ろで良かったな……」
「本当に。あれは困ったことになりそうですね」
その後もイルカのショーは続く。ペアで飛んだり、ドルフィントレーナーと一緒に泳いだりと、軽快なBGMとともにショーが続いていく。
合間合間に、観客に届くように水しぶきを出す動きをするのが印象的だった。
横の瀬那を見ると、ペンギンの時とはまた違った顔をしていた。
ザパーン! と大きな水しぶきを上げてイルカが宙を舞うたび、瀬那の視線がぐんと上を向く。信じられない高さのジャンプに小さく口を開けて驚き、綺麗に着水すると、パァッと顔を輝かせて「すごい! すごい!」と声を上げ、夢中で拍手を送っていた。本当に、今日は見ているこっちが飽きないくらい、表情がコロコロと変わる。
そして、終盤。音と光の演出に合わせて、水面が幻想的なブルーへと染まる。イルカの動きを追って忙しなく動いていた瀬那の顔が、ふと静かに前を見据えた。青い光に照らされたその横顔は、まばたきを忘れたようにショーに見入っていて、俺はイルカではなく、ついその綺麗な横顔の方を眺めてしまった。
(やっぱりこいつは、どのタイミングでも絵になるんだな)
俺は瀬那に気づかれないように、そっとスマホを構えて写真を撮るのだった。
――カシャッ。
静かなバラードが流れる幻想的な空間に、無慈悲な電子音が響き渡る。
隣からスッと無言の圧が掛かったかと思うと、俺の腿が『ペチッ』と軽く叩かれた。……どうやら完全に気づかれてしまったようだ。
◇
目の前には、青いトンネルが延びている。
行き着いた先は、頭上に円弧を描くガラスの天井が続く海中トンネルだ。その向こう側はもう、俺たちの生きる世界とは別の深淵なる海の世界だった。俺たちはイルカショーが終わったあと、最後にここへと足を運んだ。
天窓から差し込む自然光は水面を揺らし、ガラスを透過して、足元に複雑で美しい光の波紋を映し出している。それもまた綺麗だと見惚れているその時――頭上を巨大な影が横切った。光を背負って現れたその姿は、大きなマンタだ。
その圧倒的なスケール感。巨大な翼を広げ、悠々と、そして優雅に泳ぐ姿は、まさにこの青い王国の王と言っても過言ではない。マンタの腹部は光を浴びて白く、そして神秘的に輝いていた。
周囲には、小魚たちが光の筋を縫うように泳いでいる。だが、その音は聞こえない。ここにあるのは静寂と、水の響きだけ。自分が今、海の中にいるのか、それとも巨大な生き物の腹の中にいるのか、その境界線さえ曖昧になっていく。
「……圧巻ですね。綺麗です」
「そうだな。ダイビングするとこんな景色が見られるのかもな。……いつかやってみたい」
俺の呟きに、瀬那はゆったりと泳ぐ魚たちから視線を外し、ふわりと微笑んでこちらを見上げた。
「そうですね……。その時は私も誘ってくださいね」
「あぁ……約束だ」
俺たちは青いトンネルをゆっくり歩くのだった。ほんの二、三十メートルのトンネルだけど、時間をかけてゆっくりと。繋いだ手に伝わる温かさを感じながら。




