第65話 義妹の涙
目の前で泣く詩織を見て、俺はどうしたらいいかわからなかった。
考えがまとまらない。「嘘をついたことで怒る」わけでもなく、「軽蔑される」わけでもなく。ただ、ただ、泣いていた。
膝の上で固く握られた拳が、ぶるぶると震えているのがわかる。無理に我慢させてしまっている。
「……っ、どうして、嘘をつくのですか……。大怪我したのなら、言って欲しかった……。瀬那さんの……っ、言い方だと……軽い怪我じゃない。私たち、『家族』なのでしょ? ……秘密にされたら……イヤ」
絞りだすような声で、自分の気持ちを吐露する詩織。俺が知る、年齢よりも大人びた詩織らしくなく、ただ、迷子になった子供のように「イヤ」と縋るように訴えた。
……そうやって縋らせているのは、他でもない俺がそうさせたのだろう。
横に座っている麻里ちゃんも驚いているほどだ。たぶん、幼馴染の前でも普段は見せない表情なのだ。どうしてそこまでの反応をするのか、根本的な理由は俺にはわからないが、このままじゃいけないことだけはわかる。
「……」
どう言葉をかければ正解なのかはわからない。分からないが、この涙を真摯に受け止めなくてはならない。
俺は椅子から立ち上がり、詩織の近くに行き、床に膝をついて彼女と視線を合わせた。
「……ごめんな、詩織。別に家族だと思っていないから話さなかったわけじゃないよ。もちろん母さんに対してのように、関わりたくないから隠したわけでもない。ただ単に、お前たちを無駄に心配させたくなかったんだ。これだけは本当だ」
「……っ、じゃあ、なにがあったの?」
なんて言ったら良いのかわからない。ありのまま『手のひらがナイフで串刺しになった』とは言えない。そんなことを言っては、この子をショックでさらに追い込みかねない。
俺は必死に言葉を選び、オブラートに包んで伝えることにした。
「あー、何て言うか……さっき瀬那が言った通り、ちょっとしたことがあってさ。庇った時にな……ちょーっとばっかり、ほんの軽くナイフで刺されただけなんだ。大げさに包帯を巻いているだけで――」
「「…………」」
ふと、場が静まり返った。
『ナイフに刺された』という物騒極まりないワードを、まるで『転んで擦りむいた』ぐらいのテンションで放り込んでしまった俺の言葉に、二人はぽかんと口を開けてフリーズしている。
「……へっ?」
「えぇ!?」
数秒遅れて、詩織よりも隣の麻里ちゃんの方が派手に驚き、悲鳴のような声を上げた。
その光景に思わず少し笑いそうになったが、――背後から、氷のように冷たく、ひどく深いため息が聞こえた。それと同時に、背筋が寒くなるような冷たい視線を感じる。……どうやら瀬那が怒っているようだ。
「はぁ……。朔也くんは自分の怪我を軽く言ったり、おどけて場を有耶無耶にしようとするのは本当に悪いところです。……詩織さん、あちらで女の子同士、一対一でお話ししましょう」
「え?」
「……私は、詩織さんが考えていることがわかると思います。私も近いところがありますからね。そして、朔也くんはそれがちっともわかっていない、ダメダメな人間だということも」
「どういう意味だよそれは」
「朔也くんは少し黙っていてください」
「はい、すみません」
瀬那が詩織のことをわかるって言うのはともかく、俺のこと散々な評価だな……。この状態なら仕方ないかもしれないが……。
「では、こちらに行きましょう。朔也くん、お部屋を借りますよ?」
「あぁ……自由に使ってくれ」
俺の方に顔を向けて了承を取る瀬那の笑顔には、『断る』という選択肢は一切なかった。『有無を言わせない』とはこのことなのだろう。
瀬那は詩織を連れて、俺の部屋に入って行った。ここで隣の瀬那の部屋に入らなかったのは、入ったら最後、同居していることがバレるからだろう。隠しておきたいこともそうだが、詩織が情報過多でさらに混乱するのを考慮したのだと思う。
「……私、置いていかれましたね」
ソファに残された、座ったままの麻里ちゃんがぽつりと言った。
「そうだな。俺が不甲斐ないばかりに申し訳ない」
「正直に言うと……そうだと思います」
「うぐっ……」
実際その通りなので、ぐうの音も出ない。
自分で言うのはともかく、麻里ちゃんから真っ直ぐな目で言われるとは……。瀬那もたぶん同じ意見だろうな。
麻里ちゃんは少し考えるような仕草をした後、再び口を開いた。
「でも、詩織ちゃんのあんな姿、小さい頃ぶりかもです。驚きました。いつもは冷静と言うか、大人びた雰囲気なのに……やっぱり無理していたのかも」
「麻里ちゃんと一緒でもそうなのか?」
「うーん、学校での姿はそんな感じですが、私と二人っきりの時は少し緩いですね。後はお兄さんと三人の時もそうだったかもです。……だから、やっぱりそうなのかも……」
「どういうこと?」
「……私から言う事じゃないです。お兄さんはちゃんと自分で考えてください」
「はい、わかりました……」
年下からも叱咤を受けてしまった。
それにしても何を話しているのか、気になってしまう。俺は自室の扉を見つめながら、良い方向に行くことを願った。完全に、瀬那頼みだけどな……。
「それにしても……本当に瀬那さんと付き合っていないのですよね?」
「うん? あぁ付き合っていないが……それが何か?」
「いえ、瀬那さんのムーブが何と言うか……奥さんと言うか、何と言うか……」
「……」
聞かなかったことにしよう。
◇◇◇◇◇
Side : 東條 詩織
(やってしまった……)
今、私の頭の中はこれで埋め尽くされている。少し時間が経って冷静な部分が戻ってきて、一番に思ったのはこれだ。まさか、この歳になって人前であんな子供みたいに泣くとは、思いもしなかった。
でも、自分でもどうしてあんなに感情が溢れたのかわからないくらい、理屈じゃなく涙が出てしまったのだ。
瀬那さんに連れられて義兄さんの部屋だという場所に案内され、今は床に座っている。瀬那さんは「これだとお尻が痛くなりますね。少しお待ちください」と言った後、私を置いて部屋を出て行った。
「……」
火が出るほど恥ずかしいとは、このことだと思う。私はこの居たたまれない感情を誤魔化すように、ふいっと顔を上げて、部屋の中を見渡した。
よく考えたら、同世代の異性の部屋に入ったのは初めてかもしれない。小さいころ、晃司兄さんの部屋に入ったことはあると思うが、『同世代』と言うと語弊があるし、そもそも肉親だ。……義兄さんが実家にいた時は、ものが少なく、なんだか『義兄さんの部屋』って感じがしなかったから、意識しなかったのだと思う。
でもここは、生活臭と言っていいのかわからないが、『ちゃんとここで誰かが過ごしている部屋』の気配がして、なんだか少しドキドキしている。義兄とは言え、家族の部屋にそう感じるのはおかしいのかな。
誤魔化すようにぐるりと視線を巡らせると、綺麗に整えられたベッドの上に目が止まった。
(……義兄さん、ベッドに枕を二つ置くタイプなんだ)
男の一人暮らしにしては随分と几帳面というか、ホテルみたいな置き方をするんだな。そんなどうでも良いことを考えていると、コンコンと控えめにドアをノックする音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。瀬那さんがクッションを二つ持ってきたようだ。その一つを私に渡してくる。
「こちらをお使いください」
「ありがとうございます」
瀬那さんは私の正面にクッションを敷き、そこに座って姿勢を正した。その凛とした雰囲気に影響されて、私も慌てて姿勢を正す。
瀬那さんは頬に手を当てて、少し首を傾げた後、静かに口を開いた。
「朔也くんは、自分を蔑ろにするところがあると思います。本当にそこは直してほしいところです。ご実家にいる時も、そうではなかったですか?」
「……そうかもしれません。まだ学校があった私に負担をかけないよう、家事全般をしてくれました。自分も進学の準備で忙しかっただろうに、すべて買って出てくれていました」
「やっぱりそうなのですね。そういう所は朔也くんの良いところなのですが……。ちなみに、硬い言葉を使わなくて大丈夫ですよ。私は癖なので、お気になさらないでください」
「わかりました。でも、すぐ変えるのは難しいかも。……瀬那さんは、義兄さんと仲が良いのですか?」
さっきも聞いたが、どうしてももう一度聞きたかったことだ。義兄さんは見た目は怖いが、ちゃんと話すと常識的な人だし、人のことを良く見ている。家族に対しては危ういところはあっても……。だから、どうしても聞きたかった。
「仲ですか……そうですね、仲は良いと思っています。朔也くんがどう考えているかはわかりませんが、自惚れでなければ、学校の中の女子では一番仲が良いと思います」
――ズキッ。
少し、胸の奥が痛んだ。普通なら兄に仲の良い女子がいるのは喜ばしいことのはずなのに……血の繋がらない義兄だと、違う感情が湧くのだろうか。
「ですが、ただの『仲が良い同級生』というだけではありません。それ以上に、私は朔也くんに深く感謝しています。……彼がいなければ、私は今頃、生きていなかったですから」
「……えっ?」
あまりにも不穏な言葉に、私は息を呑んだ。
「この春から二度ほど命の危険を感じる出来事がありましたが、どちらも朔也くんに助けてもらい難を逃れています。……その縁で仲良くなったとも言えますけどね」
静かに苦笑いをする瀬那さんを見て、私はますます混乱した。
『まだ一学期も終わっていないのに、二度も身の危険を感じる』ってどういうことなの? 普通の高校生活を送っていて、身の危険を感じることなんて、ドラマやニュースの中くらいでしかないはずだ。
「その事件の中の一つが……朔也くんの左手に、あの大怪我をさせてしまった原因なのです。ちゃんとお話ししますので、疑問があれば言ってくださいね」
そして瀬那さんは、彼女の身に起きた事件のことを丁寧に私に話してくれた。
それは予想以上に、普通の高校生が体験するようなことではなく、私はただ絶句するしかなかった。




