第6話 心残りと後ろめたさ
GW最後の土曜日。
俺は最寄り駅から電車で一時間弱にある実家へ向かっていた。 一人暮らしをしなくても、ギリギリ通えない距離ではない。ただ――俺は、あそこを早く出たかった。
……いや、母さんから離れたかっただけか。
一人暮らしの条件として、月に一度は実家で夕食を取る約束をした。
正直、守るつもりはなかったが、心残りが一つあり、後ろめたさもあって、今日はこうして足を向けている。
家の前に立ち、一呼吸する。少し気合を入れて扉を開け、玄関へ入った。中は6LDK。都心から離れてはいるが、広めの二階建ての戸建てだ。
(過ごしたのは一ヶ月弱だけなのに、妙に懐かしく感じるものだな)
リビングに行くと、綺麗な黒髪を肩まで伸ばした少女が机に向かっていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、義兄さん」
顔を上げた少女は、少しだけ表情を緩める。義妹の詩織。一つ年下の中学校三年生だ。今年は受験だが、志望校はまだ聞いていない。
「リビングで勉強か?」
「うん、義兄さんが帰ってくるから、せっかくだし教えてもらおうと思って」
「了解。手を洗ってくるから、ちょっと待ってて」
詩織はまだ、俺に対してぎこちない。兄妹になったのだからと、互いにタメ口で話すことにしたものの――どこか遠慮が残っている。
(無理もない。会ってまだ三ヶ月も経っていないんだ)
歳が近いとは言え、俺はこんな見た目だ。すぐに打ち解けられるとは思えない。
……俺にとっての心残りは――この子だ。
◇◇◇◇◇
俺の母は、いわゆる“毒親”と呼ぶほどではない。ただ、自分の考えが絶対に正しいと信じて疑わない人だった。どれだけ言葉を尽くしても、聞き入れてはくれない。それは俺だけではなく、父や四つ上の姉に対しても同じだった。
やがて父は耐えきれなくなり、俺が中学一年の頃、浮気の末に家を出ていった。姉も大学に進学してからは、家に寄りつかなくなった。
中学三年の二月半ば。受験を終えた俺に、母は再婚の話をした。再婚は好きにすればいい。正直、興味はない。むしろ母の相手をする人が増えるなら助かる、と思ったくらいだ。苗字が変わるのも、この時期なら問題はなかった。
唯一の懸念は、向こうにも子供がいること。俺には、六つ上の義兄と一つ下の義妹ができるらしい。
一週間も経たないうちに、顔合わせの場が設けられた。
初めて会った詩織は落ち着いて見えたが、“いい子でいなければ”と必死に取り繕っているのが伝わってきた。
ついでに言えば、初対面の場で実姉と義兄が驚いたような表情をしていたのを、俺は見逃さなかった。疑問には思ったが、特に追及はしない。
……これについては、後になって理由を知ることになる。
全員の自己紹介が終わると、食事を取りながら世間話が始まった。
再婚相手の名は『誠司』と言うらしい。二人はどうやら、仕事の取引先として知り合ったらしい。そして、話している最中も、相変わらず母は「自分が正しい」という姿勢を崩さない。
……この人は、母のどこが良かったのだろうか。
特に反対意見は、誰からも出なかった。両親は、このまま何事もなく終わると思っていたのだろう。
――問題は、俺の発言だった。
「再婚にはもちろん反対しません。でも入籍は早めにしてほしいです。俺の苗字、変わりますよね。どうせなら高校入学と同時に変更したいです」
「朔也くんは、苗字が変わることは気にしていないのかい?」
「気にしてません。聞いているかもしれませんが、あの件があったので、中学の連中と今後会うことはないと思います」
「……そうか」
少し申し訳なさそうな顔をする、誠司さん。俺にこのことを言わせてしまったを気にしているのかもしれない。……どうでも良いことなのに。
「……それと、もう一つ言っておきたいことがあります。高校入学と同時に、俺は一人暮らしをします」
「はぁ!?」
全員の視線が一斉に俺へ向く。母はすぐに怒りの表情へ変わった。
「何言ってるのこの子は! ダメに決まってるでしょ!」
「なぜ?」
「高校生が一人暮らしなんてできるわけないでしょ!」
「できない根拠が分からない。今だって家事のほとんどは俺がやってる。勉強しながらね。料理も洗濯も。掃除は完璧じゃないけど、最低限はできてる」
忙しい母の代わりに、家事全般は俺がやっている。
……掃除はあまりやらないけど。
「住むところはどうするの!? 私たちはお金を出さないわよ!」
まだ、誠司さんの意思を確認していないのに。相変わらず、自分の主張が正しい前提で話を進める。
……まあ、この件に関しては同意見かもしれないが。
「朔也くんはまだ子供だからわからないかもだけど、部屋を借りる時は保証人やお金が必要なんだよ。それに未成年が一人で借りるのは難しいと思うよ」
「そこは問題ありません。住む場所はもう用意してあります。学校から徒歩十分ほどのところです。費用も、すでに支払い済みです」
「え……?」
驚いている母と誠司さんを無視して、俺は続けて言った。
「普通の賃貸なら、保証人か保証会社が必要です。未成年だと、まず貸してもらえません」
「そうでしょ? 母子家庭だからって、免除されないでしょ!」
相変わらず母は、自分の思い通りにならないと声を荒げる。周りに迷惑だし、感情で動くのは本当にやめてほしい。
「さっきも言ったけど、それは『賃貸』ならの話だよね。『購入』なら問題ないよ。さすがに未成年だからローンは通らなくて、一括払いになったけど」
「は……?」
完全に、空気が止まった。
ヒステリックに響いていた母の怒声がピタリと途絶え、不自然なほどの静寂がリビングに落ちる。誠司さんの持つ箸が、カチリと食器に当たって小さな音を立てた。
横に座る詩織に至っては、まるで見知らぬ宇宙人でも見るような目で俺を凝視している。
「……朔也くん。その大金は、いったいどこから?」
「それは――」
その後の時間は、家族の顔合わせというより、ほとんど警察の尋問だった。何度も何度も同じことを聞かれ、スマホで不動産屋とのやり取りや権利書の画像を見せて、ようやく俺が本当にマンションの一室を一括購入したのだと理解させた。
「受験の年に、実の兄でもない男が同じ家にいたら――お互い気を使って、集中できないでしょ」
俺が詩織の方を見ながら放ったこの一言で、ようやく親たちの反対する空気が変わった。そしてトドメに、中一の「あの時」の話を出した瞬間、母は完全に黙り込んだ。
――あれだけは、いくら自分の正しさを盲信する母でも反論できない。
言い返そうと開いた母の口が、不自然な形に歪んだまま止まった。
……それは、「自分が常に正しい」と信じる彼女にとって、唯一正当性を主張できない『親としての決定的な汚点』なのだろう。
「……いいわよ。好きにすれば。どうせ、昔から私の言うことなんて聞かないんでしょ」
母は責任を放棄するように吐き捨てると、そのまま押し黙った。論破して自由を手に入れたはずなのに、勝利の味は驚くほど無味乾燥だった。
◇◇◇◇◇
「……さん、義兄さん?」
「あっ……ごめん、考え事してた」
「もうっ!」
詩織の声で、現在に引き戻される。
「……ふぅ、ありがとうございました。義兄さんのおかげで、わからないところが解決しました」
「そりゃ良かった。もし何かあれば、電話でもいいから連絡してくれ。安心して、まだ受験範囲は頭から抜けてないからさ」
「はい、その時はお願いしますね」
相変わらず語尾が安定していないな。……それはそれで、少し面白いけど。
時計を見ると、そろそろ夕飯の時間だ。両親は買い物に出かけているらしく、まだ帰る連絡はない。
……仕方ない、俺が作るか。冷蔵庫の中を確認してから家を出ることにする。
「スーパーに行ってくるよ」
「夕ご飯の支度ですか? 私も一緒に行きます」
「オッケー」
断る理由もないので、一緒に家を出た。
顔合わせのあと、再婚より先にこの家へ引っ越してきた。
三月末に一人暮らしを始めるまでの短い間だったが、その間に家事を回していたのは主に詩織と俺だ。スーパーにも何度も来ている。もう勝手はわかっている。
「一人暮らしはどうですか? 慣れました?」
「だいぶ慣れたと思う。正直、前からほとんど一人で家事してたし、あまり変わらないな」
「それなら良かったです。私を理由にして始めた一人暮らし……嫌になってたら怒ってました」
「えぇ……」
「冗談です♪」
……訂正。
冗談を言えるくらいには、俺に慣れてきたらしい。無理している様子もないし、一安心だ。
今の実家では、ほぼ両親と詩織しかいない。義兄も姉も、あまり帰ってこないらしい。義兄は大学進学を機に実家を出て、一人暮らしをしている。それに加え、単位にも余裕があるとかで、旅行やバイトをしているらしい。就職活動がどうなっているかは知らない。
姉の方はよくわからない。たまに帰ることはあるが、寝に来るだけでほとんど顔を合わせないそうだ。
だから家にいるのは実質三人。しかも両親の帰りは遅く、家のことは詩織が担っている。
……再婚で一番負担が増えたのは、たぶん詩織だ。本来なら高校生の俺もそこに加わるべきだったのに、家を出た。
――それが心残りで、詩織への後ろめたさでもある。
「何度も言うけど、もし家で我慢できなくなったり、息が詰まったらすぐに連絡してよ」
「うん、ありがとう。今のところ大丈夫だから」
そんな他愛のない話をしていると、前方から俺と同年代の三人組が歩いてきた。なぜか、すれ違う前からこちらをジロジロと見ている。
詩織の中学の知り合いか――そう思った瞬間。
「お、鳳……!?」
……最悪だ。俺の中学の知り合いだった。
その旧姓を呼ばれた瞬間、胃の奥がドロリとせり上がるような、強烈な吐き気と不快感に襲われた。
俺は無意識に左耳のピアスを強く握りしめ、耳たぶに走る鋭い痛覚で、黒く染まりそうになる思考を強引に引き戻す。
そうだ、もうこいつらはどうでもいい。今の俺には関係ない。
「おい鳳! 俺たち――!」
「義兄さん……?」
「……気にしなくていい」
これ以上、詩織をこんな連中に巻き込みたくない。俺はそのまま詩織の手を強く引き、三人組の横を足早に通り過ぎた。
絶対に振り返らない。後ろで何かヘラヘラと言い訳のようなものを叫んでいるようだったが、すべて無視した。
ただ歩く。ここから離れる。
今はそれだけでいい。
「……義兄さん」
少し離れたところで、詩織が俺の袖を引いて小さく呼ぶ。怯えたような、不安そうな声だった。
「……昔の、知り合い?」
「まぁ、そんなところだ」
それ以上は聞いてこない。詩織は本当に、空気を読むのが上手い子だ。 ありがたさと同時に、気を使わせてしまった申し訳なさが胸に重く残る。
スーパーの自動ドアが開いた。
店内の冷房の空気が、熱を持った頭を急速に冷やしていく。
……危なかった。もう少しで、余計な過去を思い出すところだった。
自動ドアが閉まり、外の忌まわしい気配が完全に途切れる。
視界に入る陳列棚の日常的な明るさが、今の俺にはただ、ひどく場違いに思えた。




