SS 南雲 瀬那:初めての添い寝
― 第20話 ~ 第22話 ―
私は「はっ」と息を飲みました。視線の先に『あの男』を見たからです。見た瞬間、体が強張ったのがわかりました。
そんな私を東條さんはすぐに察知してくれて、近づいてくる『あの男』から私を隠してくれました。その背中がとても頼もしくて、安心しました。
それに、
「僕の南雲ちゃん」
と、『あの男』のおぞましい言葉に今にも崩れそうな私を、たった一言で勇気づけてくれました。
『大丈夫、俺がいる』
この言葉があったから、私は『あの男』に言い返して、撃退できたのだと思います。
その後、でまかせに言った「東條さんが私の彼氏です」に対しても、察しが良すぎる東條さんは、話を合わせてくれました。彼氏ではなく、拾ってくれた恩人で友人でしかないのですけどね……。
「ほれ、帰ろうか」
彼が差し出した手を私は見て、考えました。他人と手をつなぐのは何年ぶりでしょうか。ひいおばあちゃんが亡くなる前? ひいおじいちゃんが亡くなる前? ……思い出せません。お二人と散歩をしたのさえ、結構前の話です。それに、私が中学に上がったころには、一緒に散歩をしても手を繋ぐことはなくなっていました。……今思えば、もっと繋いでおけば良かったと後悔しています。
「……嫌だったか?」
彼の少し残念そうな声と顔を見たら、この手を逃したら後悔すると感じてしまい、照れを隠しながらそっと手を繋ぎました。
彼の家があるマンションまで、つないだ大きな彼の手は、とても温かく安心するものでした。守られている実感がある手でした。
それが名残惜しかったので、マンション入り口で手が離れた時、行き場の無い私の手は自然と彼の制服の裾を摘まんでしまったのだと思います。
◇
安心した気持ちで家に帰ってこれたのは、彼が隣にいてくれたからですね。
先にお風呂をいただき、いつも通りの流れで洗っている時、ふと違和感に気づきます。
その時手に取ったのは、化粧落としで使うクレンジングオイル。
(これって、女性が使うものですよね……。今まで気にしていませんでしたが、実は恋人さんがいる?)
心の中がざわざわします。気にしては駄目です。私はただの同級生で、居候させてもらっている身です。もしいたとしても何も言えません。
疑問は残るも、とりあえず頭を洗い始めたとき、問題が起きました。
(もし彼女さんがいるなら、気を遣わせてしまって申し訳ないですね……)
そんなことを考えながら、頭を洗うために目を閉じた時。
――ぴちょん。
背中の方から、水が落ちる音が聞こえました。
それと同時に、何かに見られているような視線……。
(!!)
ばっと振り向くも、もちろん誰もいません。家の中ですから、居たとしても東條さんだけですし、彼は覗くようなそんなことはしません。
再び目を閉じると、居ないはずの『あの男』の視線を感じてしまい、お風呂の中を見渡しました。
その後の私は、目を閉じて頭を洗うのがすっかり怖くなってしまい……さしずめ、ホラー番組を見た後の子供みたいに、ビクビクと無理に目を開けたままシャンプーをするのでした。
お風呂を出た後もその恐怖は残ったままで、無理やり表情を作って東條さんに話しかけましたが、彼の顔を見て安堵するもつかの間、すぐに恐怖が湧いて出てきてしまいます。お風呂上がりのスキンケアを見られるのは恥ずかしいですが、恐怖が恥ずかしさを上回り、部屋のドアを閉めることはできませんでした。
私はその恐怖に勝てず、彼との楽しい食事の時間に影を落とすことをわかっていながらも、ストーカー被害について相談しました。
しかし、彼は嫌な顔一つせず、ちゃんと親身に聞いてくれて。それに、面倒なことに加え危険の可能性があるのにも関わらず、迎えまで買って出てくれました。
本当にありがたいことです。
クレンジングオイルの誤解も無事に解け、彼に本当の恋人がいないことを良いことに、私は少々強引に『偽の恋人』を演じてもらうようにお願いしました。
べ、別に、彼に彼女がいないと知ってホッとしたから、私がちょうどよくその枠に収まろうと下心を抱いたわけではないですよ。本当です。
「……朔也くん」
初めて彼の名前で呼ぶと、ドクンと心臓の鼓動が激しく跳ねるのを感じます。
私が記憶している限り、同級生の男子を下の名前で呼んだのはこれが初めてでした。恥ずかしさと嬉しさ、そしてほんの少しの優越感……色々な感情がごちゃごちゃに混ざって、胸が苦しいくらいです。
本来は別に、名前で呼んだとしても大したことではないはずなのに……なぜでしょうね。
不意に、彼が「瀬那」と私の名前を呼び返してくれました。
顔色を窺う両親のように高圧的でもなければ、『あの男』のような気味の悪い下心を含んだ甘ったるい声でもない。ただ純粋に、少し照れくさそうに、でも優しく私を呼んでくれました。
つられて私まで顔が熱く気恥ずかしくなってしまうけれど――ああ、そうだ。ただ自分の名前を呼ばれることって、本来はこんなにも温かくて嬉しいことだったんだ。
◇
私はなんて大胆なことをしたのだろう。
すっかり安心して先に寝てしまった彼にそっと抱きつきながら、同じ布団の中に入っている自分自身に驚いていました。
どうしてこんな行動に出てしまったのか。
――事の発端は、ほんの少し前。お借りしている自分の部屋でお布団に入り、電気をリモコンで消した瞬間のことでした。
真っ暗になった途端、急にあの恐怖が蘇ってきたのです。
部屋に入る前に彼の前で名前を呼ばれた時の心地よい動悸とは違う、心臓を鷲掴みにされるような嫌な動悸。暗闇が異常に私の恐怖を強くする。痛いほどにそれを実感し、布団を被っても震えが止まらなくなってしまった。
今の自分の恰好で、年頃の男性の部屋に行く羞恥とリスク……。それは頭では分かっていましたが、この恐怖にあらがう事は到底できなかった。さっきまでの恐怖と同種のこの震えを完全に止めることができる方法は、ただ一つ。
――絶対的な安心感である、彼の横にいることしか思いつきませんでした。
夜中に、ネグリジェ姿だ。同居してから一度もそういった行動をしていない彼だとしても、男の人である以上、魔が差す可能性は否定できない。
しかし、万が一朔也くんに襲われるかもしれないリスクよりも、暗闇の中で『あの男』の幻影に怯える恐怖の方が、何万倍も嫌でした。
意を決して扉を叩き訪れた私をよそに、彼は私の怯えた心中をすぐに察し、怒ることもなく一緒に寝ることをすんなりと了承してくれました。その彼は私が壁側に寝ることを許し、一切邪なことをせず、優しく自分のベッドへ迎え入れてくれたのだ。
(ああ、良かった……。これでやっと、安心して眠ることができます)
そして現在。
暗闇の中、彼の大きく規則正しい鼓動と温もりを感じながら、私はもう一度、腕の中の彼にそっと感謝を囁きます。
「……ありがとうございます。朔也くん。おやすみなさい」
私は彼にもたれかかりながら、今日一番の深い眠りへと落ちていくのでした。
― 南雲 瀬那:初めての添い寝 完 ―
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