第51話 ごめん
Side : 南雲 瀬那
「――ごめん」
静かな部屋に響いた朔也くんのその一言を聞いた瞬間、私は足元が崩れ落ち、真っ暗な崖の底へと真っ逆さまに落ちていくような絶望を味わいました。
ああ……朔也くんでも、私を忌み嫌ったあの両親と同じように、こんな私を受け入れてはくれないのですね。
でも、仕方ないのです。感情の昂ぶりだけで瞳の色が血のように赤く変わるなんて、普通の人間の規格からは外れています。これまでどんなに文献を調べても、世界に同じ現象の人はいませんでした。
この最高に幸せで、楽しくて、温かかった同居生活も、今日で全てお終いです。
せめて……私を庇ってナイフで刺された朔也くんの左手が治るまでは、お世話係としてここにいたい。
限界まで見開いた目から、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちるのがわかります。
ここで泣いて縋り付いたら、朔也くんにこれ以上迷惑がかかるのはわかっているのに……。
出て行きたくない。……ここから、出て行きたくない。私を受け入れてくれた場所。温かくて、安らげる場所。そして、いつも私を正面から受け止めてくれた朔也。
もう、明日からここに居られないなんて……っ。
「……ぐす……っ、ひぐっ……」
必死に声を殺して泣きじゃくる私の濡れた頬に。
不意に、朔也くんの大きくて温かい右手が、そっと優しく触れてきました。
こんな気味の悪いバケモノの肌に直接触れる事なんて、嫌ではないのでしょうか……?
「……お前、なんで急にこのタイミングで泣き出したのか、俺にはさっぱりわからないのだけど」
「ッ……だって……さ、朔也くんに……き……嫌われた、からっ……」
「はぁ? お前のこと、嫌いなんて一言も言った覚えないけど」
「……でもさっき、ごめんって……」
「ああ、そういう事ね。俺の言葉足らずだったわ。ごめん、言い方が悪かった」
涙でぼやけた視界の先。目の前の朔也くんは、ひどく申し訳なさそうに、困ったような苦笑いをしていました。口元に手を当てて、どう説明するか頭を悩ませているようです。
『言い方が悪かった』……私は、これ以上のどんな拒絶と罵倒の言葉が続くのかと、身を強張らせて覚悟しました。
「さっきの『ごめん』ってのは、瀬那がすべてを失うような悲壮な覚悟で、深刻そうに話してくれたことに対して、俺が『なんだ、思ったより大したことじゃないな』って内心ホッとしてしまってな。一人で怯えさせてた瀬那に悪いと思ったからの、謝罪だ」
「……っ……え? どういう、ことですか?」
「いやだから、そのまんまだよ。お前の親族からすれば、その絵本だか伝承だかのせいで、忌み子なのかもしれないけどさ。俺にとっては『感情で瞳の色が赤く変わる特異体質だっただけ』なんだ。だから、『へぇ、で、それがどうした?』って感じでさ」
「……」
「というか、その程度のことで、俺が瀬那を嫌いになって家から追い出すわけがないだろ? なのに一人で勝手に絶望してるから、逆に拍子抜けしちゃって……」
「……えぇっ?」
全くの予想外な、あまりに朔也くんらしい拍子抜けした言葉に、悲しみよりも驚きが勝ってしまい、私の涙はピタッと止まりました。
「でも、瀬那はそれが一番の原因で家族とも不仲になったんだろ? 瀬那からしたら、一大決心で俺に話してくれた、一生を左右する最大の秘密だったのにな。でもさ、俺からすると、『へぇ、興奮すると色が変わるなんて、そういうマンガみたいな体質の人もいるんだな』ぐらいの認識なんだよ」
「……」
「だから、ここまで一人で重く抱え込ませてたのがすごく申し訳なくて、つい口から出た最初の言葉が『ごめん』だった。……勘違いさせて、本当に悪かったな」
「ひ、ひどい……」
「酷いよなー。配慮が足りなさすぎる。それは俺も全面的に同意だわ」
私がすべてを失う覚悟で、震えながら打ち明けたのに。
この人は、あんなに悩んでいた私の最大のコンプレックスを、「マンガみたいな特異体質」という軽すぎる一言で終わらせました……本当に、デリカシーがなくて酷い人です。
酷いけど……心の底から、全身の力が抜けるほど安心しました。
『嫌われたわけではない』。気味悪がられていない。その事実だけで、私は……私は、自分がこの世に生まれてきたこと全てを、許されたような気持ちになります。
「ひどいです。ひどい、ひどい……っ」
「ああ、酷い奴だな俺は」
感極まって、私は朔也くんの胸に勢いよく飛び込みます。「ぐっ……」と、少し痛そうなうめき声が聞こえましたが、知りません。私の気持ちをここまで弄んだ酷い朔也くんの痛みなんて、今は気にしてあげません。
私は朔也くんの背中に両手を回し、『ぎゅーっ』と力一杯抱きしめながら、座っていても、身長差のせいでちょうど目の前にある彼の胸元に、頭をぐりぐりと押し付けてやります。朔也くんのシャツに私の涙と鼻水で皺が付いてしまっても知りません。どうせ私が後で綺麗にアイロンをかけるだけですから。
「ひどい……ひどい……ありがとうございますっ、朔也くん……っ」
「泣きながらお礼を言われるようなことは、何もしていないよ」
今もなお顔を擦り付けて泣きじゃくる私の背中を、朔也くんの右手が優しくポンポンと撫でてくれます。
壊れ物を慈しむように、優しく、優しく。
ああ、やっぱり朔也は、最高に居心地がいいです。
もう一生、この温もりから離れてやるものですか。
◇
数分の時間。いえ、私にとっては永遠にも思えるような時間。
私は朔也くんの胸に、ぐりぐり頭を擦り付けたり、軽く頭突きをしたりして感情を爆発させていました。
ようやく少し落ち着いてきたので、ただ単に彼に抱き着く力を強めます。
「あ、そうだ。さっきは一瞬だったし、せっかくだからちゃんと見せてよ、その赤い瞳」
「……いまは思い切り泣いて目が腫れているので、絶対に嫌です」
「えぇ……ほら、いいからこっち向いて」
うぅ……。せっかく胸の中が居心地がよかったのに、肩を掴まれて無理やり剥がされました。
朔也くんが屈み込み、私の瞳を至近距離でのぞき込んできます。か、顔が近い……。
「確かに少し赤く腫れているね。後で氷で冷やした方が良いかもな。……それにしても、不思議で綺麗な色の瞳だな。金色だったほうもそうだったけど、ルビーみたいに透き通っていて、本当に綺麗だ。キラキラしている」
「――っ!!」
ほ、本当に、この人は! いつもは捻くれていて、そんな甘いことなんて絶対に言わない性格をしているのに!
こういう肝心な時に限って、私のコンプレックスを真っ直ぐに見て、そうやって自然に褒めるのですから! ……本当に、無自覚なタラシで卑怯です!
だから、精一杯の抗議を込めて睨んでやります。……決して、嬉しくて顔が真っ赤に熱くなっている照れ隠しではありません。
「……(じーっ)」
「なんだよ、そのジト目は。何かご不満で?」
「……朔也くんって、本当にそういう所ありますよね。たぶん無自覚にやっているとは思いますが……他の女の子の前では、絶対にやらないでくださいね!」
「……何が?」
「もう、知りません!」
プイッと顔を背けて、いかにも「私は拗ねています」という態度を全身で表現してやります。
これも決して、動悸が激しくなっているのを誤魔化すための照れ隠しではありませんからね!
だから、こんなに私の心を振り回す酷いことをする朔也くんには……今夜は絶対に、くっついて離れてやるものですか。
◇
今夜も私は、当然のように朔也くんのベッドに潜り込んでいます。いつもの定位置です。ここだけは、他の誰にも絶対に譲りません。
今、私は久しぶりにカラーコンタクトレンズを外し、素のままの金色の瞳でベッドにいます。
朔也くんのベッドに潜り込むようになってから、夜は本当に大変でした。失明のリスクがあるから本当はいけないのですが、彼にバレないようコンタクトをしたまま寝落ちするか、朔也くんが完全に寝静まってからこっそり洗面所で外すか、「電気が消えてるから暗闇なら気づかないだろう」と外してから布団に入るかのどれかでした。
でも、これからはもう、何も気にせず外せます。
……正直、目が乾燥してひどく辛かったので、本当に助かりました。こんなことなら、もっと早く、話せば良かったですね。朔也くんの性格を考えたら、あの拍子抜けした反応も容易に予想できたかもしれません。
「もうスタンバイはオッケーか?」
「はい、大丈夫です。いつでも入ってきなさい」
「……なんでお前、俺のベッドなのにちょっと上から目線なの?」
「ふふっ♪」
何か納得いかない顔をしながら、パチンと部屋の電気を消してベッドに入ってくる朔也くん。
彼は包帯ぐるぐる巻きの左手でも痛くないように、体をモゾモゾさせながらいい感じのポジションを探しているようです。ものの数秒で落ち着いたらしく、「ふぅー」と小さく一呼吸しました。
それを見た私は、もう十分だと思い、思いっきり彼の無事な右腕に抱きつきました。軽く抱き着く「ぎゅー」ではなく、腕全体をホールドする「ガシッ」です。
「うぉっ!? どうした急に」
「いいんじゃないですか、別に。減るものでもないでしょ。それとも……私がこうやって抱きつくのは、いやだ……と?」
暗闇の中、至近距離で上目遣いをして問いかけます。朔也くんは、私のこの顔に弱いのです。
「……それをされると、俺が絶対に断れないってわかっててやってるよね」
「ふふっ♪」
「……まあ、瀬那が楽しそうだからいいけどさー。その……当たってるの、気づいてる?」
「こういう時は、『あててんのよ』って言うらしいですよ」
「ぶっ!? お前、そのマニアックなネタなんで知ってるんだよ!?」
「愛莉さんが、男子はこういうのが好きだからって教えてくれました」
「あんにゃろう……余計な知識を吹き込みやがって……」
頭を抱える朔也くんのいい反応が見られて、私は大満足です。
胸が当たっていることに関しては今更ですし、他の方の視線に晒されたり触れられたりするのは気持ち悪くて絶対に嫌ですが、朔也くんなら全く構いません。
「それにしても、暗闇でも不思議で綺麗な瞳の色だな。そういや、たまに輝いて見えたこともあったけど、光の当たり具合だと思っていたわ」
「……実は、バレていたのですね」
「いやいや、流石に色が違うとは思っていなかった。反射の関係かなって。……うん、やっぱり本当に綺麗だ。いつも……と言っていいかわからんが、コンタクトしている時の瞳も似合ってるけど、俺は何も隠してない、こっちの素の瞳の方が好きだな」
「っ……!! ……うぅ……っ」
……やっぱり、この人はたまに心臓に悪すぎます。
私は彼の右腕に深く顔を埋め、顔が熱く赤くなっているのを隠します。電気は消えているので、ここまで密着して隠してしまえば、私の顔なんて見えないはずです。
腕の中で少しだけ動悸が落ち着いてきたと思って、またそっと顔を上げると――。
暗闇の中で、私を見下ろす朔也くんとバッチリ目が合ってしまいました。
「――っ!!」
瞬間、自分の心臓が大きく跳ねて、目の奥がカッと熱を帯び、瞳が朱く染まっていくのを感じます。
一族から「バケモノの証」として忌み嫌われていたその色の変化を見て、彼は気味悪がるどころか、愛おしいものを見るように面白そうに笑いました。
「おっ、また色が変わった。本当に感情と連動して色が変わるんだな。……今度は、何に興奮したんだ?」
「……っ! 朔也くんが、無自覚に変なことばかり言うからです!」
私は照れ隠しで朱色の瞳で精一杯睨みつつ、真っ赤な顔を見られないようにさらに強く彼の腕に抱きついて目を閉じます。
朔也くんも「はいはい、悪かったよ」と優しくそれを受け入れてくれたようで、やがて規則正しい寝息を立てて、そのまま眠り始めました。
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