第40話 狂気のナイフ
「瀬那ァッ!!」
路地裏に飛び込んだ俺の目に映ったのは、ストーカーが、瀬那へ向けてナイフを振り下ろそうとしている瞬間だった。
自分でも信じられないほどの速さでアスファルトを蹴り、瀬那の細い身体を強引に引き寄せる。男を睨むが、奴の目は焦点が合っていない。薬でもやっているのかと思うぐらいだ。
ズブッ、と。俺の皮を破り、肉を切り裂いて、冷たい刃が進んでいくひどく嫌な感覚が伝わってきた。……久しぶりにこの痛みを味わったなと、無駄に冷静なことを考えている自分に呆れる。
だが、瀬那の柔らかな身体にこの刃が届かなくて良かったと、心の底から切に思った。
脳を焼くような痛みを奥歯を噛んで耐え、右腕で抱きとめた瀬那に語りかける。
「……っ、無事か……瀬那……ッ」
「さく、や……くん……?」
腕の中の彼女は――泣いていた。
いつもの無理をした笑顔でもなく、優等生という凛とした仮面でもなく、年相応の少女として震えながら泣いていた。
当たり前だ。こんな異常な狂気に当てられて、泣かないはずがない。
その瞬間、俺の頭の奥で、黒く濁った声が響いた。
――こんな理不尽なことをする奴は……◾️◾️だ!
ドス黒い怒りで何かのスイッチが入りそうになるが、傷口の痛みで辛うじて我に返る。俺は今もなお、突き立てたナイフを押し込もうとしてくる男を氷のように冷たい目で睨みつけ――躊躇なく、その鳩尾を蹴り飛ばした。
「ぐべぇッ!?」
カエルが潰れたような醜い声が響く。蹴りの衝撃でナイフから手を離した男は、五、六メートルほど後ろへ吹き飛び、腹を抱えてうずくまった。
「ゔっ、あ、がっ……」
男が悶絶している隙に、抱えていた瀬那をそっと放す。血で汚れていない右手で「あっ……」と呟く瀬那の頭を一度だけ撫でて安心させると、俺は再び男へと歩み寄った。
胃液を吐きそうに頭を垂れている男の顎――その完璧な位置に向けて、全体重を乗せた掌底を叩き込む。
「がっは……っ」
脳を揺らされた男が、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。ピクピクと痙攣しているが、死んではいない。しばらくは起き上がってこないだろう。
男の制圧を確認した俺は、傷口から流れる血を隠すようにして、瀬那の元へ戻った。
服がよれて汚れ、膝を擦りむいてはいるが、致命傷はないようだ。
俺は痛みを顔に出さないように、できる限りいつものように優しく笑いながら尋ねた。
「大丈夫か? 瀬那。膝以外に怪我はない?」
「なっ……ありが……朔也くんっ!!」
泣きじゃくる瀬那が、俺の胸に飛び込んできた。
血がついていない右半身で彼女を受け止め、その華奢な背中を撫でる。壊れてしまわないように、優しく、優しく。
(この調子なら、心身ともに何とか大丈夫そうだな)
さっきまで強張っていた彼女の全身から、少しずつ力が抜けていくのがわかる。安堵すると同時に、この子に一人で怖い思いをさせてしまったことを猛烈に後悔した。
――でも『最悪』だけは免れたはずだ。
「ぐす……うぅ……怖かった……」
俺の胸に顔を埋め、静かに泣く瀬那。彼女の震えが落ち着くまで、俺は無事な方の手で背中を撫で続けた。
傷口がズキズキと熱を持って痛み出し、血が滴り落ちているのがわかるが、今はどうでもいい。今はただ、瀬那の心が落ち着くことの方が、ずっと大切だ。
◇
ひとしきり泣いて落ち着いたのか、それとも自分がもう安全だと頭で理解できたのか。瀬那は溢れる涙をご丁寧に俺のシャツでぐいっと拭き取ってから、ゆっくりと顔を上げた。
「あ、ありがとうございます。……本当に助かりま……っ!?」
安堵の息を吐きかけた瀬那が、ハッと何かに気づいたように血相を変えて周囲を見回した。
「ナイフ……朔也くん! さっきのストーカーが持っていたナイフはどうなりましたか!?」
「ナイフ? ……あぁ、それならこれだけど」
俺は自分の左手を顔の高さまで上げ、瀬那に見えるようにヒラヒラと振ってみせた。
――手のひらの中心から刃が突き刺さり、そのまま手の甲を無残に貫通して生えている、あのナイフを。
「……えっ!?」
瀬那の表情が、文字通り完全に凍りついた。
「さ、刺さっ……さささ、刺さって……!?」
「ああ、ばっちり刺さっているな。ここまで見事に貫通していると、逆にびっくりするよな」
「な、ななな……何でそんなに冷静なんですか!? 血が……血が出ています!!」
俺の左手を指差して、瀬那の悲痛な叫び声が暗い路地裏に響き渡った。
さっきまで恐怖で泣きじゃくっていたかと思えば、今度は大パニックを起こしている。……感情の起伏が激しくて、瀬那も色々と大変だな。
「……なに、ちょっと哀れな目をして『この子、可哀想』って顔してるんですか! い、痛くないのですか!?」
「痛いよ。当たり前だろ」
「えぇ……。とにかく! 救急車!? 警察!? 早く呼びましょう! その前に止血です、ハンカチ!」
「落ち着け。とりあえず、まずは警察に――」
「あっ! さくやんおった! ……うわっ! 誰か倒れとる思たら、こいつ例のナイフ男やんか!」
「朔! 無事か、見つかったのか!?」
瀬那の声を聞きつけたのか、真壁さん、城ヶ崎さん、冴さんの三人が足音を荒立てて路地裏に飛び込んできた。
あの後、一緒に周辺を探してくれていたのだが、無事に合流できたようで良かった。それに、事後処理を頼むには完璧なタイミングだ。
「真壁さん。念のため、そいつ捕縛しておいてもらえますか? あと、どなたか警察に連絡を。救急車も……怪我人が俺とその男の二人なんで、二台ですかね」
「お、おう。わかっ……て、おいお前! 手にガッツリとナイフ刺さってるぞ!?」
「ええ、見ての通り刺さってますね」
「何でそんなに冷静なんだよお前は……ッ!」
「……っ! そのお気持ち、痛いほどよくわかります……っ!」
真壁さんのもっともなツッコミに、瀬那が「ですよね!?」と言わんばかりに激しく同意している。
「朔也くんのお知り合いですか……?」
「前に少し話しただろ、行きつけのセレクトショップのこと。そこのスタッフさんたちだよ。口は悪いけど信用できる大人だから安心して。……瀬那があの男とトラブっているのを、遠くで見ていたらしく、俺が駅に着いた時にたまたま会ってな。一緒に探してくれたんだ」
「そうだったのですね。ありがとうございます」
手の甲からナイフを生やしたまま平然と紹介を挟む俺に、三人は心底呆れたような顔を向けながらも、大人として迅速に行動してくれた。
ガタイの良い城ヶ崎さんが、気を失っている男をプロの手つきで拘束する。真壁さんはすでにスマホを耳に当て、警察へ的確に状況を伝えてくれている。
そして冴さんは、「女の子が先だよ」と優しく瀬那の膝の傷の手当てを始めてくれた。どうやら携帯用の救急セットを常に持ち歩いているらしい。……あの派手な見かけによらず、だ。
「よーし、とりあえずこれで大丈夫やな」
「ありがとうございます」
「ええってええって。女の子なんやし、傷残ったら嫌やろ? ……さて、さくやんはどないしよっか。さくやんが冷静やから気にしてへんかったけど、改めて見たら、めっちゃ刺さっとるやん!」
「……正直、早くナイフを引き抜きたい」
「だ、駄目ですよ! 止血するものもないのですから!」
確かに映画の知識だが、刃物は刺さったままの方が良いっていうよな。下手に抜いたら血が噴き出して、大量出血で死ぬかもしれない。……でもなぁ、血が固まったら抜くのがもっと大変そうなんだよな。それに痛いだろうなぁ。
「だって刺したままだとさ、動かす度に痛いんだよ。とりあえず死ぬような怪我でもないし。あっ……。アドレナリンが切れてきたかも。だんだんと痛みが強くなってきた」
「だから! 何で! そんなに冷静なんですか! うぅ……」
「よしよし、瀬那ちゃんやったっけ? これはさくやんがおかしいだけやから、心配せんでええよ」
瀬那の頭を冴さんが撫でている。何か俺が頭のおかしいやつみたいに言われている……解せぬ。
そんな話をしていると、「ファン、ファン、ファン……!」とパトカーのサイレンの音が近づいてきた。
それを聞いた真壁さんが、スマホを耳に当てながら驚いていた。
「えっ!? まだ、状況を説明してる最中なんだが……早くないですか?」
多分、電話相手の警察官に語りかけているのだろう。
だけどこのパトカーはたぶん……。
すぐ近くでパトカーが止まったのが見える。「ガチャ」と音を立てて、中から見知った相手と、警察官らしき女性が出てきた。
「間に合ったみたいだね、朔也くん。南雲さんも大丈夫かい?」
須藤先生だ。職業柄なのか警察に知り合いがいるらしく、先に合流して現場への道案内をしてくれていたのだろう。
先生と一緒に降りてきた女性は、他のパトカーから降りてきた数人の警官に指示を出し、気を失っている男を城ヶ崎さんから引き取っていた。
「えっ? 須藤先生!? ……いつの間に連絡したのですか?」
「こっちに電車で移動している時に、先に連絡しておいたんだ。先生の事務所の方が近かったから、応援をお願いしてね」
「……相変わらず、手際がいいですね。それにしてもよく正確な場所がわかりましたね」
「瀬那と同じく、GPSを先生とも連動しておいたんだ。その後、電話をつなぎっぱなしにしていたからね。状況も把握してもらえていたんだと思う」
そもそも俺が、逃げている瀬那の居場所を特定できたのは、スマホの機能を使ってGPSを瀬那と俺で共有していたからだ。お昼、SOSの設定をしている時に、瀬那が提案してくれていた。
『それなら、GPSも登録しますか? お互いの位置がわかるようにです。その方が何かあった時に、探しやすいじゃないですか』
『確かにそうだけど。……嫌じゃないのか? 常に監視されているみたいだろ』
『そうですか? 特に変なところに行くわけでもないですし。そもそも、家も学校も放課後も、ほとんど朔也くんと同じ場所にいますから、別に気にしないですね』
そんなやり取りがあり、登録を済ませておいたのだ。ただ、リアルタイムで更新されるわけではないので、どうしてもラグと位置の誤差が出る。そのためすぐには合流できなかった。
「ピーーポーー、ピーーポーー」と、今度は遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。やっと、この邪魔なナイフを抜ける……と安堵していると、先ほどの警察官らしき女性がこちらにやってきた。
「須藤先生、この子たちが道中に話していた、被害者でよろしいですよね?」
「はい、そうです。こちらの女性がストーカー被害にあった、南雲さん。こちらの刺されたのが……彼氏の東條くんです」
いきなり何を言い出すんだ、この人は……。
「おい! 朔! 彼女できたんなら言えよ!」
「真壁さん、申し訳ないけど、今は黙ってて……。須藤先生――」
「はい、そうです。彼氏の東條朔也くんです」
ドヤ顔で言い切る瀬那だった。さっきまで泣いていた顔に比べて、そっちの方が断然良いけどさ……。「何か問題でも?」という顔でこちらを見ているし……。
「……もういいや、それで」
左手が痛いし、考えるのも訂正して回るのも面倒なので、もうそれでいこう。少なくとも偽とはいえ、恋人って設定だしな。
俺は警察官と思われる女性の方に向き直り、話を促した。
「何か含みがありますが……。とりあえず、関係性は置いておいて、これからのことを話しますね。まず、私は警視の槙野と言います。須藤先生とは以前、とある事件の時に知り合ってね、今日も直接連絡をくれたのよ。……それでこれからだけど、まずは東條くんを今来る救急車で病院に運びます。それから、二人の保護者に電話する必要がありますね」
「あー……」
困った。俺はあの最悪な食事会を途中で蹴り飛ばしてきた身だ。その足で傷害事件の当事者になったと知れれば、何を言われるか分かったものではない。できれば絶対に呼びたくない……。
瀬那もそうだ。この件で親を呼べるぐらいなら、火事の時にも呼べたはずだ。さてどうしようか……。
「さすがに、呼ばないわけにはいかないですよね……」
「え? 何か呼べない理由があるってこと?」
「えっと……」
「槙野警視。この両名への事情聴取ですが、私が代理人として同席させていただきたい。……彼らには少々、特段の事情がありましてね。朔也くんとは既に正式な委任契約を交わしております」
瀬那が言い淀んでいると、すかさず須藤先生が割って入ってくれた。
ただ、問題はある。本来、未成年の俺たちが保護者の同意もなしに、弁護士を雇うことはできない。
俺に関してだけ言うなら、三年前の事件の時に親に同意書を出させ、引き続き雇っていることにしている。……ぶっちゃけ黒寄りのグレーゾーンだ。
一番の問題は瀬那だ。どうしようもない。
「……わかりました。須藤先生がそうおっしゃるのですから、複雑な事情があるのだと理解できます。本当は駄目なのですがね……。まずは傷害事件として、話を進めてみましょう。そのあと、ストーカー被害としてどうするか相談しましょう」
思ったより話が分かる方で助かった。時間の猶予はある。何とか瀬那の親と連絡を取らないように考えないと……。
「こちらに刃物に刺された方がいると伺いました! どちらにいますか!?」
ストレッチャーを押した救急隊員たちが、慌ただしく路地裏に駆け込んできた。
俺は彼らに居場所を知らせるため、「ここにいまーす」と気の抜けた声で返事をしながら、左手をスッと高く掲げた。
――手の甲から、血まみれのナイフを生やしたまま。
「うおっ!? ちょっ、君、刺さった手の方を上げないで!!」
「はやく下ろせアホ! 見てるこっちが痛いわ!」
救急隊員が悲鳴を上げ、真壁さんが反射的にツッコミを入れる。
横を見ると、瀬那は頭を抱えてフルフルと震え、須藤先生や槙野警視、冴さんたち大人組も、心底呆れたような顔をしていた。
怪我人なのに、何故こんな白い目で見られなければならないのだろうか。……解せぬ。




