第39話 私は、朔也くんのものですから
Side:南雲 瀬那
しばらく走っていると、ストーカー男が見えなくなっていることがわかりました。
息も切れ切れなので、ひとまず物陰に隠れて休みます。
(もう、追ってこないでしょうか。暗くてよく見えません。……失敗しました。何で大通りに逃げないで、こんな路地裏に逃げ込んでしまったのでしょうか。朔也くんならもっと冷静な判断ができたのでしょうね)
自分の不甲斐なさを反省します。息を整えながら、スマホで助けを呼ぼうと取り出すと、朔也くんから着信とメッセージの通知がありました。
画面の『朔也』の文字を見ただけで、少しだけ安心したのを感じます。
メッセージには……
『すぐ向かうから、安全なところへ逃げて』
と書かれており、彼が向かってきてくれているのがわかって安堵します。
震える手で電話をかけ直そうとタップをしますが、指が上手く操作できずにカタカタと画面を叩く音を立てているばかりです。
「ふぅー……」
と、深く一呼吸をし、一度冷静になろうとしたとき――
ガタッ!
すぐ近くで物が落ちる音が聞こえました。
バッとそちらの方を向くと、暗がりの中に、ナイフを持ったストーカー男が立っていました。
「はぁはぁ……。見つけたよ、南雲ちゃん。そんなに逃げなくてもいいじゃないか。君は悪い男に洗脳されているんだよ。それを僕が解かないと」
「こ、来ないでください!」
私は無理にでも立ち上がります。もう限界ではないかと思うぐらい胸が苦しい……。でもここで諦めるわけにはいきません! 気持ちを入れ直し、もう一度走り出すしかありません。
少しでも時間を稼げるように、その場にあったゴミ箱を男の足元へ蹴り倒して飛び出しました。
荒い息遣いと、アスファルトを蹴るブーツの音だけが暗い路地裏に響き渡ります。
「ハァッ……ハァッ……!」
振り返る余裕などない私は、ただがむしゃらに走るしかありません。走りながら、顔を覆う亜麻色の髪を鬱陶しく拭います。長く走ったことで、ブラウスもぐしゃぐしゃになってしまっています。
駅の喧騒から完全に外れたこの細い裏道には、助けを呼べるような人影は皆無でした。
「待ってよぉ……。なんで逃げるのさぁ……。南雲ちゃんは僕が守るからさ、逃げないでよ」
背後から迫る、ねっとりとした男の声……。その距離が確実に縮まっていることに、絶望感で胸が締め付けられます。
曲がり角を抜けようとしたその時、私は足元の段差につまずき、無様に地面へと転がり込んでしまいました。
「っ……!」
擦りむいた膝の痛みよりも先に、背筋を凍らせるような恐怖が全身を支配します。ゆっくりと近づいてきた男の足音が、私の目の前でピタリと止まりました。
街灯のわずかな明かりが、男の右手で握られた刃渡りの長いナイフを鈍く光らせています。
「……捕まえた」
歪んだ笑みを浮かべるストーカーを前に、私は声すら出すことができず、ただガタガタと震える自分の身体を抱きしめることしかできませんでした。
「なんで逃げるのさ。そうそう、君の住んでたところで火事があったでしょ? 今はどこに住んでいるのさ?」
少しでも呼吸を落ち着かせるために、ストーカー男に話しかけて時間を稼ぐしかありません。
それに、今の言葉には気になる事がありました。
「な、なんで火事のことを知っているのですか? 私が住んでいたアパートを知っていたってことですか?」
「当たり前じゃないか。だって、僕が火をつけたんだから」
「えっ?」
この男は、今、「火をつけた」と言いましたか。それって、放火をしたということ……。
「南雲ちゃんだって僕と住みたいはずだよね。でも、アパートで暮らしているから出ていく口実が必要だったでしょ? だから火をつけたんだよ。君がそこに住む理由をなくすためにね」
「な、なにを言っているんですか……?」
「安心してよ。ちゃんと君がいない時間を狙って火をつけたからね。火元も君の部屋と真逆だったでしょ?」
「……」
「行く場所がないなら、うちに来られるでしょ?」
何を言っているのかわかりません。いえ、私の脳が理解することを拒絶しています。
でも確かなのは、あの日、私に手を差し伸べてくれた彼の言葉と、同じことを言っているということです……。
でも、全然違います! ……この人の言っていることは、ただ狂っているだけです!
「……黙ってください」
「へ?」
私は痛む足を押さえながら、精一杯力をいれて立ち上がりました。
目に力が入るのがわかります。
「黙ってください、と言っています! あの時……私が絶望していた時、彼は……朔也くんは私に手を差し伸べてくれました。今のあなたと同じ言葉で! でも、彼は自分本位ではなく、私のことを気遣って、同居がどういう意味を持つかを真剣に考え、躊躇いながらも私を助けるために言ってくれたのです! 今のあなたの……自分の欲望のためだけに他人に迷惑をかける狂った言い分とは、全く違うのです! だから、黙ってください! これ以上、彼の温かい言葉を汚さないでください! 私を救ってくれた彼を、これ以上貶めるな!」
震える体を鼓舞して、「キッ」とストーカー男を睨みつけます。もう走る力は残っていません。でも、最後まで私はこの男に屈しません。これ以上、怖がってたまるものですか。
「な、なにを……言っているんだ、南雲ちゃん。それだと、君があの不良の男の家に住んでいるってことになるじゃないか」
「ええ、そうです。あれからずっと、私は彼の家で暮らしています。彼は、あなたのような卑劣な人間よりもずっと、ずっと素敵な人です」
「それじゃあ……君は、あの男のものに……」
男の濁った瞳が、卑猥な妄想に歪みます。何を考えているのかは手に取るようにわかりますが……本当に下劣ですね。でも、それならそれで良いです。
「当たり前じゃないですか。私は、朔也くんのものですから」
「う、うわぁー! 嘘だぁぁ! 南雲ちゃんは誰の色にも染まらない!清純じゃなきゃいけないんだ! こんなことはあってはだめだ!」
男は膝をつき、俯いています。
しばらく沈黙が続きましたが、そろそろ逃げてもいいでしょうか。
そう思っていると、「そうか……そうだよな」とブツブツ言いながら、ストーカー男は立ち上がり、こちらを見ました。
その目は、さきほどよりも狂って、ぐるぐると濁っています。焦点が合わないというのはこういう事を言うのでしょう。
「わかったよ、わかったよ南雲ちゃん」
「……わかってくれましたか。それでは、私はこれで帰りま――」
「君の血が不良に穢されたのなら、その穢れごと、僕が取り出してあげればいいんだよ」
「――は?」
今日、何度目でしょうか。この人が何を言っているのか全くわかりません。
いや、理解したくありません。
「安心してよ。僕のナイフで、君の穢れた血を全部取り除いて、綺麗にしてあげるからさぁ――!」
狂気に歪んだ笑顔のまま、男はナイフの切っ先を私へと向け、獣のように飛びかかってきました。
避けられない。逃げられない。
あぁ……私、ここで死んでしまうんですね。
ごめんなさい、朔也くん。せっかくあなたが繋ぎ止めてくれた命だったのに。
私は静かに目を閉じ、迫り来る痛みを覚悟しました。
「瀬那ァッ!!」
――ズブッ、と。
何か、分厚い肉を無理やり裂くような、ひどく嫌な鈍い音が耳を打ちました。
しかし、私に痛みは訪れませんでした。
代わりに私の身体を包み込んだのは、冷たいアスファルトではなく、勢いよく飛び込んできた温かくて力強い腕の感触と――鉄の錆びたような、血の匂い。
「……っ、無事か……瀬那……ッ」
「さく、や……くん……?」
痛みを堪えるような、かすれた吐息。
――あぁ。今この絶望の世界で、私が一番聞きたかった声が、頭上から苦しげに降ってきました。
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