第203話 わかっていても……
テーブルの下で、瀬那が俺の膝に手を置き、軽くつねっている。
痛くはない。痛くはないのだが……指先に込められた力から、言いたいことは十分に伝わってきた。
「……瀬那」
「はい。どうかしましたか?」
振り向くと、瀬那はにこりと笑った。
口元は確かに笑っている。……そこだけを見れば。
「いや、その……注文するぞ」
「はい。お願いします」
注文用の端末を操作している間に、膝をつねっていた指が離れた。
代わりに、俺の左腕にそっと手が添えられる。『朔也くんは私のもの』と訴えているようだ。
……この状況を気にするなという方が無理なのは、わかっている。
俺だって、逆の立場なら同じだと思う。
注文を終えると、浩紀と斎藤が飲み物を取りに席を立った。俺も続こうとしたところで、右の袖が軽く引かれる。
「あ、あの、東條くん。私も一緒に行っていい?」
「もちろん。ドリンクバーだし、好きなタイミングで行っていいだろ」
「そうじゃなくて……一緒に、選びたいなって」
言いながら、鷹司が袖をつまんだまま立ち上がる。
その声は小さいが、テーブルにいる全員には聞こえただろう。雫が手元の端末から顔を上げ、俺と瀬那を交互に見た。
「……瀬那も、行く?」
雫の控えめな声に、瀬那はゆっくりと頷いた。
「はい。私も飲み物を取りに行こうと思っていたので」
そう言って立ち上がった瀬那は、俺の袖をつまむ鷹司の手に一度視線を落とした。
鷹司の指が、ぴくりと動く。
俺は椅子を戻すために体を軽くひねり、その動きに合わせて袖をそっと引き抜いた。
鷹司は何か言いかけたが、すぐに手を下ろす。
「ほら、行こうぜ。混む前に取っておこう」
「う、うん」
ドリンクバーでは、鷹司が俺のすぐ隣に立った。
並んだボタンを見ているようで、視線は何度か俺の手元に向いている。
「東條くんって、こういう時は何を飲むの?」
「今日は烏龍茶かな」
「じゃあ、私もそれにしようかな……」
鷹司がカップを取ろうと手を伸ばす。その肩が、俺の腕に触れた。
避けるほどのことではない。……普通なら。
隣から、氷がカップに落ちる音がした。
振り向くと、瀬那が自分の飲み物を用意している。表情は穏やかなのに、俺と目が合うと、その笑顔がほんの少し深くなった。
……なんでだろうな。今、氷の音がやけに大きく聞こえたぞ。
「朔也くん。そちらを取っていただけますか?」
「ああ、これか?」
「はい。ありがとうございます」
俺がストローを渡すと、瀬那の指先が手に触れた。
そのまま一瞬だけ、俺の指を握ってから離れる。
鷹司はそれを見て、カップに視線を戻した。
飲み物のボタンに添えた指が止まっていたので、邪魔になっているのかと思い半歩横にずれる。
「鷹司、ゆっくり選んでいいぞ」
「……ありがとう」
席に戻ると、愛莉が席から身を乗り出した。
「瀬那、クラブサンドってポテトも付いてくるんだよね?」
「はい。写真では付いていましたね」
「いいなー。私のと少し交換しない?」
「ふふ、構いませんよ」
そのやり取りで、ようやく瀬那の頬が自然に緩んだ。
愛莉はそれを確認したように体を戻し、俺にちらっと視線を送ってくる。
口の動きだけで『貸し一つね』と伝えてくる。
……助かる。ものすごく助かる。
料理が運ばれてくると、今度は鷹司が自分の皿と俺の皿を見比べた。
「アジフライ、おいしそうだね」
「そうだな。思ったより大きいし」
「あの……一口、もらってもいい?」
箸を取ろうとしていた俺の手が止まる。
向かいでは、斎藤もフォークを持ったまま動かなくなっていた。
鷹司は俺の方へ身を寄せた。
肩が触れる直前で止まったものの、その距離に瀬那が気づかないはずもない。
「ハンバーグと、少し交換できたらって……」
「ああ、それならいいぞ。小皿に分けるか」
テーブルの端に重ねられた小皿を取り、アジフライを一口分、箸で切り分けて載せる。
さくっ、と衣の割れる軽い音がした。
鷹司の前に置くと、彼女は小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
「朔也くん。私もいただいていいですか?」
「もちろん。瀬那も一口でいいか?」
「はい。朔也くんのおすすめなので、気になっていました」
おすすめなんてした覚えはないけど、今はそういうことにしておこう。
もう一枚の小皿に取り分けていると、浩紀が自分の皿を指さした。
「なら、オレの唐揚げも交換しようぜ? アジフライ、ちょっと気になるわ」
「……お前まで来るのか」
「いや、普通にうまそうじゃん」
その声をきっかけに、愛莉が自分の料理も勧め始めた。
気づけばテーブルのあちこちで小皿が行き来している。俺のアジフライもだいぶ減ったが、代わりにおかずが増えた。
浩紀は受け取ったアジフライを、何食わぬ顔で口に運んでいる。
本当に食べたかっただけかもしれないが、今はその遠慮のなさに救われた。
……これはこれで、落ち着いて食べられるからありがたいな。
鷹司は取り分けたアジフライを口に運び、小さく「おいしい」と呟いた。
ただ、皿に落とした視線は、そのまましばらく上がらなかった。
食事が進み、雫と斎藤が部活の話をしていると、右からまた声がかかる。
「東條くん。三学期って、放課後も忙しい?」
「日によるけど、どうした?」
「数学で、わからないところがあって……。よかったら、教えてもらえないかなって」
鷹司がこちらを見上げる。
さっきまでよりも話しやすそうなのは、勉強の話だからだろうか。
「問題を見ないと、教えられるかわからないぞ?」
「でも、東條くん、数学は得意だよね? 特進でも、そういう話になっていて……」
そこで鷹司の声が途切れた。
テーブルの上で、彼女の指が反対の手の袖口をぎゅっと握る。
俺と過ごす時間を増やしたい、という話なのだろう。
ただ、特進の連中は、普段は総合を見下しているくせに、成績だけは頼りにしてくるらしい。ランキングでは俺の方が上だから、理由にはなるのだろうけどさ。
「それなら、みんなで勉強する時に来ればいいんじゃないか?」
俺の言葉に、和人が顔を上げた。
「そうだね。俺もわからないところがあったら教えてほしいし」
「ワタシも。日本語の問題は、まだ難しいものがあるから」
エレノアも頷き、鷹司に笑いかける。
鷹司は二人を見てから、俺に視線を戻した。
「……みんなで?」
「ああ。その方が、俺がわからなくても誰か答えられるかもしれないだろ」
「そう、だね……」
鷹司は頷いたが、袖口を握る手は離れなかった。
その様子を見て、瀬那がカップを置く。
「私も参加します。私でよければ、お手伝いしますよ」
「……うん。ありがとう、南雲さん」
瀬那の声は丁寧だった。
けれど、鷹司に向けた笑顔は、愛莉と話していた時ほど柔らかくない。
鷹司がカップを手に取ったところで、俺はテーブルの下にある瀬那の手に触れた。
指先が少し冷たい。その手を軽く握ると、瀬那がこちらを向く。
「……怒っているか?」
周りの会話に紛れるぐらいの声で訊くと、瀬那は一度だけ鷹司を見てから、俺に顔を寄せた。
「……わかっています」
「……ああ」
「でも、平気かと言われたら、平気ではありません」
正直な返答だった。
テーブルの上では普通に食事を続けているのに、握った手にぎゅっと力が入る。
「……俺が瀬那と離れるわけないだろ」
そう伝えると、瀬那は目を伏せた。
それから、俺の手を握り直す。
「わかっています。……ですから、少しだけこうしていてください」
「ああ」
左手を握ったまま、右手で箸を取り直す。
瀬那も何事もなかったように食事へ戻った。
ただ、俺がわずかに手を動かすと、握った指が、離すまいとするように、そっと絡んでくる。……離す気はない、ということらしい。
すると、鷹司が俺の皿を見て、おずおずと口を開いた。
「あの、東條くん。ソース、そっちにある?」
「ああ。今、渡す」
右を向いてソースを渡し、左を向いて瀬那の様子を確かめる。
前を向けば、雫と斎藤が揃って目を逸らす。
……おい。そんな、見てはいけないものを見たみたいな反応をするな。
少し離れた席では、浩紀が何か言いかけて、愛莉に肘でつつかれていた。
和人は俺と目が合うと、困ったように笑って自分のカップを持ち上げる。
俺も一度、飲み物を口に運んだ。
さっき自分で選んだ烏龍茶なのに、どうにも味がよくわからなかった。
◇
家に帰り、玄関を上がったところで、瀬那が立ち止まって俺を見上げた。
外では浮かべていた笑みが、もうなかった。
何か言おうとした唇が一度閉じられる。そのまま俺を見ている瀬那に、こちらから腕を伸ばした。
理由はわかる。何かフォローしないといけないことも。
ただ、今は何を言えばいいのかわからず、俺はそっと彼女を抱きしめた。冬服越しに、瀬那の体温がじんわりと伝わってくる。
「ごめんな、瀬那」
「……わかっています。わかっていますが……やっぱり、嫌なものは嫌です」
「わかってるよ。瀬那がしてほしいことなら何でもするから、もう少しだけ我慢してくれ」
「……はい」
俺の背中に回された腕に、力が入るのがわかり、一安心した。
俺も抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
ことがことだけに、慎重に進めないといけない。
最悪の事態を避けるためにも、ここで対応を間違えるわけにはいかない……。
2026.10.12 誤字修正




