第192話 瀬那の後悔
Side:東條 朔也
瀬那の言葉の真意がわからなかった。そのまま解釈すれば、「自分のせいで叔母である朱門さんが家を出ることになった」ということだが……普通に考えたらありえないだろう。
「それはどういう意味なんだ?」
「そのままの意味です。叔母様が朱門家に養子になったと知ったのは、私が中学生に上がったころでした。理由は教えてもらえませんでしたが……そうとしか思えません! だって、当主の実子なのに……朱門家にはたくさん人がいるのに……養子に出されるなんてありえません!」
「落ち着けって、瀬那」
途中から声を荒げ始めた瀬那を落ち着かせるため、一度席を立って彼女の隣に腰を下ろす。頭を撫でると、素直に身を寄せてきてくれたのでひとまず安心した。
「瀬那がそう思っているのはわかった。そう考える理由があるんだろう?」
腕の中で、瀬那がこくんと頷いた。すぐには話し始めない。口にするのもつらい記憶なのかもしれない。
「……」
「……」
無言のまま待つこと数分。
少し落ち着いたのか、瀬那が重い口を開いた。
「……小学生の時、美乃里姉さんと父が言い争っているのを見たことがあるのです」
◇◇◇◇◇
Side:南雲 瀬那
あれは、私がまだ小学生だったころのことです。
ひいおばあちゃんたちが出かけていて、美乃里姉さんが遊びに来ていました。当時は、姉さんのことを「お姉ちゃん」と呼んでいましたが……。
居間で、姉さんが買ってきてくれたお菓子を食べながらおしゃべりをする。そんな、いつも通りの時間を過ごしていると、急に玄関の方が騒がしくなったのです。
「何かあったのでしょうか?」
「そうね、慌ただしい感じね」
二人で顔を見合わせ、声のする方へ目を向けました。
すると、すぐに――
「美乃里様、少しよろしいですか?」
――お手伝いさんが姉さんを呼びに来ました。
「本当に!? なんでまた……」
部屋の外から、姉さんの驚いた声が聞こえてきます。
何があったのか聞こうとしたところで、姉さんがひょいと顔を覗かせました。
「瀬那はしばらくここで待ってて」
けれど、それだけ言い残して、どこかへ行ってしまったのです。
入れ替わるように別のお手伝いさんがやってきて、私は自分の部屋へ連れていかれました。
「瀬那様。しばらくお部屋から出ないようにお願いします」
その人も、用件を伝えるとすぐに出ていってしまいました。
何かあったのだろうとは、幼いながらにわかっていました。
けれど、何が起きているのかは、誰も教えてくれません。家の中が慌ただしいことだけが伝わってきて、姉さんもなかなか戻ってこないのです。
「少しだけなら、大丈夫でしょうか」
好奇心に負けた私は、扉を少しだけ開けて廊下を覗きます。誰もいないことを確かめてから、そっと足を踏み出し部屋を出ました。
廊下には人の気配がありません。
そのまま歩いていくと、いつもお客さんをもてなしている応接間から、誰かが言い争う声が聞こえてきます。
そっと中を覗くと、そこにいたのは姉さんと……父でした。
薄く開いた扉の隙間から、いつもより固い空気が漏れ出しているのがわかりました。
「だから! お前はいつまでこんなことをしているんだ」
「兄さんには関係ないでしょ! 私が好きでやっているんだから!」
父が怒っている姿は、見慣れていました。
私と会う時は、ほとんど怒っているか、睨んでいるか、見下しているか。だから、父の姿を見ても「あぁ、またか……」ぐらいにしか思わなかったのです。
……ですが、姉さんがあんなふうに声を荒げる姿を見るのは、初めてのことでした。
私の知っている姉さんは、いつも優しく、怒られた記憶もありません。
相馬兄さんに揶揄われて怒る時とは、声も表情もまったく違います。
姉さんが、こんなに怒るなんて。
何を言われたのかはわからなくても、きっと、とても酷いことだったのでしょう。
そう思っていると、父が再び口を開きました。
「……もう一度言うが、あの化け物に関わっているとこの家に入れなくなるぞ!」
「だから! 自分の子のことをそんな呼び方をしないで!」
「何を言っているんだ、俺はあいつを自分の子だと思ったことなどない!」
言葉の意味はわかるのに、自分のことを言われているのだとは思いたくありませんでした。
「えっ……」
思わず声が漏れました。
二人の視線が、入り口に立つ私へ向けられます。
「瀬那……」
姉さんが駆け寄ってきて、すぐに抱きしめてくれました。
いつもと変わらない、あたたかい匂いがしました。それだけが、あの日の唯一の救いでした。
けれど、その後のことは、よく覚えていません。
父も近づいてきて、もっと色々なことを言われた気がします。何を言われたのかまでは、思い出せないのです。
実の両親とは、いつかちゃんと話せる時が来る。そう信じていました。姉さんもそう言ってくれたから、今は何かの理由ですれ違っているだけなのだと。
読んでいた小説や、見ていたドラマにも、そういう展開がありましたから……。
その後の記憶は、自分の部屋に戻ってからのものです。
布団にくるまって泣いていた私と、その傍らにいてくれた姉さん。それだけは、覚えています。
やがて、私は中学校に上がりました。
あの日に聞いた言葉は忘れられず、できる限り思い出さないようにしていたのですが……ひいおじいちゃんのお葬式で、知ってしまったのです。
――姉さんの苗字が変わっていたことを。
五条だったら、相馬兄さんと結婚したのだと思えたでしょう。それなら、私にも教えてくれていたはずです。
ですが、姉さんの新しい苗字は、朱門。
南雲家の分家にあたる家の名前でした。
どうして、その家の苗字になったのでしょうか。
気になってそれとなく探りを入れるうちに、姉さんが朱門家に養子に入ったのだとわかりました。
『あの化け物に関わっているとこの家に入れなくなるぞ!』
忘れようとしていた父の言葉が、頭の中で蘇ります。
私のせいで、姉さんは実家から追い出された。
あの時の私には、そうとしか思えなかったのです。
◇◇◇◇◇
Side:東條 朔也
そこまで話すと、瀬那は口を閉ざした。俺の腕を掴む手に、力がこもる。
俺は腕の中で俯く彼女の背中を、ゆっくりと撫でることしかできなかった。
「正確にはいつ養子に入ったのかはわかりませんでしたが、姉さんは変わらず私に接してくれていました。……お葬式の前も後もです」
俺が会った時の朱門さんも、瀬那を大切にしているように見えた。多分、その接し方は昔も今も変わっていないのだろう。
「だけど、私のせいで追い出されたのなら……このまま私と仲良くしていると、今度はもっと酷いことをされるのではないか……そう考えてしまうのです」
幼い瀬那にも、父親の言葉の意味はわかってしまったのだろう。
自分と関わることで、大切な人まで傷つけられる。その恐怖が、深く心に刻まれてしまったのかもしれない。
家を追い出されるだけでも相当なことだ。その先にもっと酷い仕打ちがあると考えれば、怖くなるのも無理はない。
「だから、私は姉さんと仲が良くないという態度を取らないといけないのです」
「……そのことは朱門さんに言ったのか?」
瀬那は頭を横に振った。
「いいえ、言えません……それを言ったら、姉さんに何て言われるか……怖くて」
「……そうか」
事情を打ち明けた時、もし朱門さんに『化け物のお前に関わったから家を追い出された』と、父親と同じように拒絶されたら。瀬那は、ただ落ち込むだけでは済まないかもしれない。
(それこそ、俺と同じことをするかもしれない)
俺の腕を掴んだままの彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。
これで、二人の歪な関係が少しわかった気がする。
瀬那は朱門さんに罪悪感を抱き、これ以上傷つけたくなくて、あんなふうに態度を急変させていたわけだ。
そして、本当はどう思われているのかを確かめることも怖い。
朱門さんが実際にどう考えているのかはわからない。だけど……。
「正直に言えば、朱門さんが瀬那を嫌っているようには見えない。ちゃんと大切にしていると思う」
これまで、瀬那がいないところで朱門さんと話したことは何度かある。
その時の言葉や表情を思い返しても、彼女は姪を大切にしているようにしか見えない。むしろ、姪というより、もっと近しい存在として見ているような気さえする。
「……わかりません。私にはわからないのです。美乃里姉さんの気持ちが……」
俺がそう言ったところで、瀬那が素直に受け止められるわけがない。
それに、俺が見た朱門さんの姿がすべてではない。本人から聞いてもいない本心を、わかったつもりで語ることもできない。
ふと、あの日、警察署で抱いた思いが蘇った。
『東條くん。……色々と面倒をかけるけど、瀬那のこと、よろしくね』
朱門さんは確かにそう言った。
今、腕の中にいる瀬那を見ていると、その言葉に頷いた自分が、ただ黙っているわけにはいかなかった。
『もう少しだけ、他人の俺が踏み込んでみても良いのかもしれないと、そう感じた。ただ俺に、そのお節介を焼く勇気があればの話だが……』
あの時は、二人の事情も知らず、踏み込んでいいのか迷っていた。
だけど今は、瀬那が何を恐れているのかを知った。ただの他人として、遠くから見ているだけの関係でもない。
腕の中で、瀬那の小さな寝息が聞こえ始めていた。
俺のことを救ってくれた瀬那のためにも……今度は俺が、動いていいはずだ。




