第189話 (第三章終幕):一夜明けて
Side:東條 朔也
これは夢だ。
意識が「夢」だとわかっているから、明晰夢というやつだろう。
白いのか黒いのかすらわからない空間。
夢でよくある、何もかもがはっきりしない感覚。
前後左右、そして上下。見渡す限り何もない。
気味が悪い、この空間――
――でも、不思議と嫌な感じはしない。
足場があるのかどうかすらわからない、そんな場所を俺は歩いていた。
なぜ歩いているのかはわからない。
それなのに、なぜか進まなければならないという使命感だけはあった。
止まろうとしても、足は勝手に前へ進んでいく。
「……」
しばらく歩いていた。
もう何時間も歩き続けているような感覚があるけど、これはただの夢だ。
実際には数分も経っていないのかもしれない。
やがて、その先に一人の泣いている男の子を見つけた。
黒髪の少年。
俯いているせいで、顔は見えない。
……だけど、なぜか大切な誰かに似ている気がした。
「大丈夫か?」
気がつけば、俺は少年のそばまで近づいて声をかけていた。
近づこうと思った記憶はある。
なのに、その途中がすっぽり抜け落ちている。
「……ぐすっ……ぐすっ……」
声をかけても、少年は泣き止まない。
こちらを見ることさえしなかった。
もう一度声をかけようとしたが、なぜか言葉が出てこない。
明晰夢のくせに、どうやら好き勝手に動けるわけではないらしい。
ふと、少年の後ろに人影が現れた。
金色に近い髪と、金の瞳を持つ老人。
同じ髪と瞳を持った、泣いている少年より少し年上の少女。
そして、黒髪に黒い瞳をした老夫婦。
誰かに教えられたわけでもないのに、最後の二人が夫婦なのだと、なぜかわかった。
俺が一歩下がると、その人たちは少年へと近づいていった。
何かを話しかけているようだが、その内容までは聞き取れない。
……ただ、少年を慰めていることだけはわかった。
それでも、少年は泣き止まない。
ずっと……。
ずっと……。
ずっと……。
しばらくその光景を眺めていると、少女がこちらを向いた。
ずっと無視されていたというより、彼らには俺が見えていないのだと思っていたのだが……。
「……、……! ……っ!」
少女は少年を指差しながら、俺に何かを必死に訴えている。
だけど、やっぱり声は聞こえない。
俺は首を横に振り、わからないと伝えるしかなかった。
「……っ」
すると少女は不満そうに頬を膨らませ、ジト目でこちらを見る。
その仕草と表情が――彼女と重なって見えた。
――いや、まさかな。夢の中の理屈なんて、都合よくできているだけだ。そう自分に言い聞かせても、胸の奥にざらついた感触が残った。
「……」
少女は顎に手を当て、何かを考え始める。
そして、一度目を閉じ――再び開いた。
――その瞳は朱く、燃えるような色へ変わっていた。
「っ……!」
その瞬間、俺の意識が朱い瞳へ吸い寄せられる。
視界が歪み、辺り一面が同じ朱に染まっていく。
あまりの眩しさに、俺は思わず目を閉じた。
「……あの子を……救ってあげて……」
――最後に、そんな声が聞こえた気がした。
◇
どこかから小鳥の声が聞こえる中、目を覚ますと、腕の中には瀬那がいた。
……まあ、それはいつも通りだけど、俺が先に起きるのは珍しいな。
瀬那はちゃんと浴衣を着ているが、寝相のせいで少しだけ乱れている。
それを見ただけで――
――昨夜のことを思い出し、急に顔が熱くなる。
あれだけ覚悟を決めていたはずなのに、一晩明けてみると妙に恥ずかしい。
『朔也くん……大好きです』
最後にそう言った彼女は、その直後、気を失ったのではないかと思うぐらいに、あっという間に眠ってしまった。
寝る時は暖房をつけない俺たちだ。
そのままでは風邪をひきかねないので、起こさないように身なりを整えて、浴衣を着せておいたのだ。
……寝ている彼女に服を着せるって、なんだか悪いことをしているような気分だった。その後、俺も身なりを整え、そのまま泥のように眠ったわけだ。
「あ、もう十時かよ」
近くに置いてあったスマホを見ると、もう朝食の時間は終わっていた。
この時間なら、昼食とまとめた方がよさそうだな。
ふと、連泊だからそろそろ客室清掃が入る時間帯だと思い至る。
だが、昨夜のうちにドアの外へ『起こさないでください』のマグネットプレートを貼っておいた俺を褒めてやりたい。
……大晦日で起きるのが遅くなる可能性があったからだ。
それ以外の他意はない。
でも、これなら誰かに邪魔される心配もなさそうだな。
瀬那はまだ寝ている。
朝はあまり見る機会がないが、やっぱり寝顔も可愛いものだ。
そんな穏やかな寝顔に、そっと手を伸ばして頭を撫でる。すると腕の中の瀬那が「んぅ……」と寝ぼけた声を漏らし、もぞもぞと身じろぎを始めた。
「しまった、起こしてしまった」と思った頃には、ゆっくりと長いまつげが震え、うっすらとまぶたが開く。
まだ焦点の合っていない、とろんとした瞳が俺の方を向き――やがて、その視線が俺を捉えた。
「……おはよう、瀬那。よく寝てたな」
「あ……さくや、くん……。おはよう、ございます……」
寝起きの舌足らずな声で挨拶を返すと、瀬那はふにゃっと笑って俺の胸元へ顔をすり寄せてきた。
まるで甘える子猫のような仕草に、思わず頬が緩む。
「んしょ……っ」
瀬那は身体を起こそうと、ベッドに手をついて力を入れた。
だが、次の瞬間。
「あっ……」
ピタッと動きを止め、小さく驚いた顔をした。
「ん? どうした?」
「あ、いえ……その……なんだか、身体にちょっと違和感が……」
そう言った直後、瀬那ははっとしたように目を見開いた。
何かを思い出したのだろう。みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まっていく。
「……昨日のこと、思い出したか?」
「……聞かないでください」
「俺も同じだから安心しろ」
「それ、全然安心できませんっ……!」
恥ずかしそうに顔を背ける瀬那を見て、思わず笑いそうになる。
俺だって冷静を装っているだけだ。
昨夜のことを思い出せば、同じように顔が熱くなる。
気まずいような、くすぐったいような沈黙が落ちた。
瀬那は恥ずかしさを誤魔化すように視線を彷徨わせ――ふと、自分が身につけているものに気づいたらしい。
「あれ……? 私、浴衣を……?」
ぱちぱちと瞬きをして、自分の浴衣の襟元を掴む。
昨夜、自分で着替えた記憶がないことに気づいたのか、瀬那の動きがピタリと止まった。
そして、ロボットのようにギギギ……と首を動かし、俺の顔を見る。
「さ、朔也くん……もしかして、これ……着せてくれたのですか?」
「あぁ」
「~~~~っ!?」
瀬那は声にならない悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。
「ね、寝ている間に……着せてもらったってことですよね!?」
「仕方ないだろ。そのままじゃ風邪ひきそうだったんだから」
「そ、それはわかりますけど! 寝ている間に着替えさせてもらうなんて、無防備すぎて……っ! あぁぁ、恥ずかしいです……!」
バタバタと足を動かし、瀬那は布団を頭まですっぽりと被ってしまった。
もぞもぞと動く布団の山を見て、俺は思わず吹き出す。
「笑わないでください!」
「悪い悪い。でも、そんなに気にしなくてもいいだろ? ……寝顔、可愛かったぞ」
「っ!」
布団の動きがピタリと止まった。
たぶん、中ではさらに真っ赤になっているんだろう。
俺は少しだけ強引に布団の端を引っ張り、隠れている瀬那の顔を外へ出す。
抵抗するかと思ったが、瀬那はおとなしく布団から顔を出し、上目遣いで俺を見つめてきた。
目元は恥ずかしさから少し潤んでいる。
けれど、本気で困っているわけではなさそうだった。
「……恥ずかしいですけど」
「ん?」
「……朔也くんが、優しくしてくれたのは……すごく、嬉しいです」
ぽつりとこぼされた言葉に、今度は俺の心臓が大きく跳ねた。
瀬那は顔を隠していた手をどけ、ゆっくりと俺の首に腕を回してくる。
そのまま俺の胸元へ顔を埋めた。
「……朔也くん」
「なんだ?」
「……大好きです。本当に……大好き」
小さく、それでも真っ直ぐな想いが込められた声。
俺は瀬那の背中へ腕を回し、そっと抱きしめ返した。
「俺もだよ。……愛してる」
少しだけ力を込めて抱きしめると、瀬那は嬉しそうに「ふふっ」と笑い、俺の胸へすりすりと額を擦りつけた。
時計の針は、もうすぐ十時半を指そうとしている。
朝食はすっかり逃してしまったが、この温かくて幸せな時間を手放す気には、まだ当分なれそうになかった。
◇◇◇◇◇
Side:――――
一人の少女が書物を閉じ、天井を仰いだ。
何かを思案しているような仕草だった。
「……やっぱり、仕上げはしておいた方がいいかな。ねぇ、どう思う?」
そう問いかける少女に、答える者はいない。
部屋にいるのは、彼女一人だけなのだから。
「面倒だけど……このままだと、全部持っていかれるかもしれないのよね。本当に興味がないのかもわからないし……そのために用意はしていたけど」
少女の独り言は続く。
「それに、あなたには興味があるのよね。だって、そうでしょう?」
一度言葉を切り、楽しそうに口元を緩める。
「私の誘いを拒否した男なんて、身内以外じゃ、あなただけ」
相変わらず返事はない。
それでも少女は、まるで誰かがそこにいるかのように壁へ向かって話し続ける。
「ずっと……何をやっても上手くいって、つまらなかった。でもね、あの日、あなたに会ってから、とっても楽しくなってきたの」
少女が壁へ手を伸ばす。
その先にあったのは、一枚の写真。
「ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」
爪の先が、写真の輪郭をなぞるようにゆっくりと滑る。その動きは、まるで愛おしむようでもあった。
「――さん」
少女は不敵に笑った。
静かな部屋に、時計の秒針だけが小さく音を立てていた。
ここで第三章は終わります。
いつも通り、この後 SS をいくつか挟んで、第四章に入る予定です。
これからのことですが、大まかなプロット自体を変更する予定はないのですが、細かい部分は当初の予定から変わる可能性が……と言うより、これまでもありました。
その辺りもあって、正直、第四章をどこまでとするかが少し曖昧な状態だったりします。
うーん、この辺りは処女作ということもあって、まだまだ構成の詰めが甘かったですね。反省、反省。
ただ、書けば書くほど「これもやりたい」「あれもやりたい」と増えている状態でもあります。
展開も色々と思いつくのですが、そのたびに、
「それ増やすと、風呂敷広げすぎじゃない?」
となっていますw
そんな感じで終盤へ向かっていきますが、よろしければ第四章も引き続きご覧いただけると嬉しいです。




