第21話 二人の呼び名
夕暮れに染まる帰り道、俺たちは繋いだ手の温もりを確かめ合うように歩いた。口数は少なかったが、沈黙さえも心地よく感じられた。
マンションに着き、鍵を出すために、名残惜しさを押し殺して手を離す。その瞬間、横から「あっ……」と、吐息に混じるような微かな声が漏れた。
驚いているのか、それとも寂しがっているのか。今の彼女がどんな顔をしているのか、気になって仕方ない。けれど、もし目が合ってしまったら、今度こそ離れられなくなる気がして、俺はあえて前を向いたまま鍵を探した。
すると、クイクイと制服の裾を引かれる感触があった。
名残惜しさを感じていたのは、どうやら俺だけではなかったらしい。
部屋に入り、夕飯の準備を始める。まだ落ち着いていないだろう南雲には、先にお風呂に入ってもらった。
温まれば、さっきの嫌なことを少しでも忘れられるはずだ。
冷蔵庫を開けて、材料を確認する。せっかくだから、夕飯も温まれるものにしよう。残ってるものから、レシピを考える。
先ほどの男を思い出す。最後は逃げてくれたが、南雲の言動からストーカー行為があったのは明白だ。血走った目はいまだに覚えている。横に彼氏らしき男がいるのに、あそこまで強引に動く奴が、これだけでもう諦めるだろうか。
――いや、そんなはずはない。
「南雲の安全を考えないとな」
俺は密かに誓い、対策を考えながら調理を再開した。
決意のためか、いつもより野菜を切る包丁の音が、力強く響いた。
◇
「……お待たせしました。お風呂、いただきました」
しばらくして、脱衣所のドアが開いた。ふわりと、いつもの甘いシャンプーの香りがリビングに漂ってくる。
湯気の中から現れた南雲の顔はほんのりと上気していて、入る前よりは幾分すっきりした表情に見えた。少しはリフレッシュできたのだろうと、俺は密かに胸を撫でおろす。
けれど、俺と目が合った彼女は、なぜか困惑したように立ち尽くし、その瞳にはまだ薄暗い不安の影が落ちていた。
夕飯も完成間近だったので、俺はそのまま彼女に休んでもらうことにした。
「そこまで甘えるわけにはいきません」と案の定食い下がってきたが、「風呂上がりのスキンケアとかあるだろ。冷める前にやっとけ」と、あえてさっきの事件には触れず、日常の理由を盾にして無理やり部屋へ押し込んだ。
コンロの火加減を調整しながら、ふと南雲の部屋の方へ視線をやる。
――部屋のドアが、少しだけ開いたままになっていた。
死角になっているため彼女の姿は見えないが、中で身支度をしている気配はする。いつもなら、着替えやスキンケアの時はきっちりドアを閉めて恥ずかしがるのに、珍しいこともあるものだ。
「……」
もしかして、密室で一人になるのが怖いのだろうか。
外の世界から遮断されたこの家の中とはいえ、さっきの恐怖がまだ体に残っているのかもしれない。
だとしたら、台所から響く包丁の音や、鍋が煮える匂い――俺がここにいると証明する『生活音』が、今の彼女にとって僅かな繋がりになっているのではないか。
(……いや、考えすぎだ。自意識過剰もいいところだな)
そんな自惚れた妄想を振り払うように軽く頭を振り、俺は料理の仕上げに取り掛かった。
せめて、この温かいご飯を食べている時くらいは、あの恐怖を忘れられるように。そう願いながら、皿に料理を盛り付けていく。
◇
ごはんをよそい、食事を始める。「いただきます」を一緒に言うのも、もう何度目だろうか。妙に心地よく感じてきている自分に、正直驚いた。
南雲は食事を普通に取れるようで安心した。取れないようなら、精神的に危ない状態だと考えたからだ。
少し落ち着いてから、考えていたことを相談する。
「明日って、確かバイトだったよな?」
「……そうですね」
少しうつむいたが、すぐに顔を上げた。
その表情は、今にも泣きそうだった。
「……あの、東條さん。さっきの人のこと、なんですけど」
「ん? ああ、嫌なら無理に話さなくていいぞ」
「いえ、聞いてほしいんです。……もし、またあんなことがあったら、私……」
膝の上でギュッと拳を握りしめ、南雲はポツリポツリと今までの不気味な体験を口にし始めた。
「……最初は大したことではなかったのです。レジでニコニコと話しかけてくるだけで。多少の雑談なら他のお客様もされるので、気にしていませんでした。でも、少しして気づいたのです。私がシフトに入っている日は、必ず来るのだと。平日も、休日も……一日に何度も」
最初は、ただの熱心な常連客だと思い込もうとしたらしい。
「明確に気持ち悪いと感じ始めたのは、お釣りを受け取る際に、わざと私の手を握るようになったこと。それと同時期に……出勤の時、ルナポートに着くまでの道で顔を合わせるようになったんです」
ルナポートは、南雲が働いている大型の商業施設だ。
いくら何でも、あの規模の施設周辺で何度も偶然出くわすなどあり得ない
「決定打は……不動産屋さんから出たあとです。東條さんも一緒にいた日ですね。ルナポート周辺ならまだしも、あの辺りで偶然会うのは不自然すぎます。しかもあの人、私と目が合った途端に逃げるように去っていって……今思うと、私の新しい住処を探していたのかもしれません」
思い出すだけでもおぞましいのか、彼女の顔にはありありと嫌悪感が浮かんでいた。
「そして……一昨日の夜です。いつも通りバイトを終えて駅に向かっている時、背後から声をかけられました。『ねぇ、南雲ちゃん。家は大丈夫?』……って」
「待て! それって……!」
「……ええ。火事の事を知っていたんです」
「なんで、俺が駅に迎えに行った時に言わなかったんだ!?」
思わず声が荒くなる。あの日も、俺は最寄りの駅で彼女を待っていた。
合流した時の南雲はいつも通りに見えたが……どうやら、俺に心配をかけまいと必死に恐怖を押し殺していたらしい。
「……だって、言えないじゃないですか。ただでさえ拾ってもらって、居候している身です。これ以上、東條さんに迷惑なんてかけられません……っ」
「そう思うのも無理はない。でもな、俺はお前に何かあった方がよっぽど嫌だぞ」
「……すみません。その時はもう、頭が真っ白になってしまって……全力で走って逃げました」
「無事で本当に良かったが……完全にクロだな。マジのストーカーだ」
「……はい」
重苦しい沈黙が二人を包む。
「ストーカーみたい」などという生易しいものではない。火事の事まで知っている以上、正真正銘、悪意を持ったストーカーだ。
ただ、まだ決定的な証拠は少ない。それに相手の身元も、名前さえ分かっていない。
(このままだと、暗い雰囲気のままだな……)
俺はわざとらしく咳払いを一つして、空気を変えるように口を開いた。
「そうだ、さっきの帰り道で言いかけたことだけど。明日、バイト先のカフェまで迎えに行くから、終わっても店内かバックヤードで待っててくれ」
「えっ!?」
「俺も近くで用事があるんだ。せっかくなら一緒に帰ろう」
『お前が心配だから』なんてストレートに言えば、こいつはまた「迷惑をかける」と気にするだろう。だから、用意してあった言い訳を使う。
実際に用事があるのは本当だし、嘘ではない。
「……ありがとうございます。心配して、迎えに来てくれるのですね」
「うぐっ」
……バレバレじゃないか。
そこまで見透かされているなら仕方ない。俺は観念して開き直ることにした。
「念には念を、だ。それに、近くの行きつけのショップに顔を出す用事があるのも本当だから気にするな」
図星を突かれた気恥ずかしさから、少し素っ気ない声になってしまう。
「ふふっ。行きつけのショップ、ですか?」
「ああ。『The Foundry Attic』っていうセレクトショップなんだけど、俺が作ったシルバーアクセサリーも置いてもらってるんだ」
「本当ですか!? アクセサリーを自作してるのは知っていましたがまさか、お店で委託販売までしてるとは思いませんでした」
――ん? 俺、アクセサリー自作してることなんて言ったことあったか?
一瞬疑問に思ったが、彼女の顔を見て思考が止まる。
「……とは言っても、置いてもらい始めたのは先月からで、少しだけだけどな」
「少しだけでも凄いですよ!……相変わらず、東條さんは高校生らしくないですね」
「ひでーな」
「ふふっ」
そこにあったのは、怯えた表情ではなく、いつもの柔らかい笑顔だった。
この顔が見られるのなら、少しばかり小馬鹿にされたって、どうってことはない。
「弁護士の知り合いがいて、家持ちで、すぐ会話を録音する癖があって……おまけにアクセサリーの販売まで。東條さん、辞書で『高校生』の意味を引き直した方がいいですよ?」
……全然『少し』じゃなかった。可愛い顔して、意外と容赦なくいじってくるな。
南雲は楽しそうに指折り数えながら、あきれたように、けれど心底安心したように笑っていた。
「……」
南雲は頬に手を添え、ふむ、と何かを考え込んでいた。前にも見た気がするので、どうやら彼女の癖らしい。
ときおりチラチラとこちらを見ては、何かを言おうとして口を開き、結局何も言わずにパクパクと閉じるのを繰り返している。
金魚みたいで見ていて面白かったので、あえて声をかけずに放置していた。視線に気づいたのか、南雲がジトッと目を細める。
「……なんですか?」
「いや、なんか一人でうんうん悩んでる感じだったからさ」
「……せっかくなので、一つ聞きたいことがあります。……東條さんは、彼女さん、いらっしゃるんですか?」
全く予想外の角度から飛んできた質問に、俺は思わず固まった。
ストーカーの対策会議から、どうしてその話に繋がるんだ。
「急になんだよ……残念ながら、いねーよ。悪いか。だいいち、彼女がいるのに他の女を同居させるわけないだろ」
「わ、悪くはないです。……そうですよね、『俺の家に住め!』なんて言えなくなりますよね」
……俺、そんなオレ様系の偉そうな言い方したっけ?
「……実は、今日のお風呂に入るまで気づかなくて、自然と使ってしまったのですが。浴室にクレンジングオイルがあって、それが気になってしまって。東條さんがお化粧をしているならともかく、その……」
「クレンジングオイル? あぁ、そんなことか。あれはただのニキビ予防だよ。鼻とかの毛穴汚れが落ちるって聞いてな」
「ニキビ予防……。お肌のケアまでしているなんて、意識が高いのですね」
「……そんなことないだろ。男子高校生なら普通だ」
一人で疑って勝手に悩んでいたのか。
納得したのか恥ずかしくなったのか、南雲はまたパクパクと口を開いては閉じるのを繰り返し始めた。
もし手元にボー〇か何かのお菓子があれば、その口にポイッと投げ込みたくなる。
「……あの、東條さん。もしご迷惑でなかったらですが、先ほどの迎えの話、お願いできますか。正直……また会うかもしれないと思うと、怖いですから」
何を今さら。こっちとしては、もう絶対に行く気でいたのだが。
「俺から提案したんだ、迷惑なわけないだろ」
「ありがとうございます。……それで、一つお願いがあるんです。店長や同僚の皆さんに、あの男性のストーカー行為について話すのは、やめておいた方がいいと思うのです」
「なんで? 店全体で共有した方が、いざという時に手を貸してくれそうじゃないか? ……あぁ、そうか。下手に刺激して、逆上させる可能性があるのか」
「はい。出禁や監視など、お店側からあからさまに対応してしまうと、相手がどう出るか分かりません。私も怖いですが……関係のない同僚にまで危害が及んでしまうのは、絶対に嫌なんです」
俺を真っ直ぐに見つめ返したその瞳は、さっきまでの怯えを振り払ったように真剣で、確かな決意を秘めていた。
「それに、今のところは待ち伏せと声かけだけなので、ちゃんとした実害が出ていないというのもあります。被害が出ないに越したことはないんですが……」
「なるほどな。警察にも本格的に相談できるレベルじゃないのかもな」
「はい。そ、それでですね……できればで良いのですが、もちろん東條さんが嫌でなければ、なのですが……」
随分と保険をかけた言い方だ。もじもじとしていて、『煮え切らない』という表現がまさしく合っている。
俺は急かさず、南雲が言葉を紡ぐのを静かに待った。
やがて彼女は真剣な瞳でこちらを見上げ、ほんのりと頬を赤く染めて言った。
「……お店でも、私の『恋人』として振る舞ってもらえませんか?」
「……はぁ?」
「あ、あの! 友達だと、なぜ毎回迎えにくるのか、周りに説明ができないです。親戚という設定でも良いですが、もしあの人の耳に入って嘘だとバレたら、余計に面倒になるのではないかと」
「あぁ……確かに」
「恋人という関係なら、心配して夜に迎えに来ていてもおかしくないですし、お昼ならこれからデートだと言えますし」
「理屈はわかる。でも、お前は嫌じゃないのか? 俺みたいなのが彼氏役で」
「嫌じゃないです!」
食い気味に、すかさず返答されたことに思わず困惑した。
だが、それと同時に……胸の奥がじんわりと温かくなるような、嬉しい気持ちもある。
「そうか……それなら、明日からはそうしよう」
「はい! ありがとうございます」
嬉しそうに微笑んだあと、彼女は一拍置いて、大切に慈しむような声で――
「……朔也くん」
(!? 今、朔也くんって呼んだか!?)
突然の破壊力に心臓が跳ねる。俺が固まっていると、彼女は少し悪戯っぽく、照れ隠しのように微笑んだ。
「……恋人同士なら、名前で呼んだ方が自然かと思いまして」
「お、おう……そうだな。良いんじゃないか……瀬那」
「……ふふっ♪」
俺も負けじと下の名前で呼んでみると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、すぐに花が咲いたような笑顔に変わった。
心底嬉しそうに、楽しそうに笑っている。……本人が嫌がっていないなら、まあ良いか。
ストーカー対策の『嘘の恋人』とはいえ、俺たちの関係は今日、確かに少しだけ変わった。
願わくは――この小さな嘘から始まった関係が、二人にとって良い変化であることを祈っている。




