第20話 忍び寄る影と、寄り添う影
Side : 南雲 瀬那
野外学習の翌日。今日は私のアルバイトの日です。
昨日の今日だというのに、不思議と体に疲れは残っていませんでした。きっと昨夜、あの温かい部屋で、とても安心してぐっすりと眠れたからでしょう。
今朝もいつも通り、東條さんが手早く作ってくれた朝食を二人で囲んでから、一緒に家を出て、途中で別れて登校しました。……なんでもない、とても和やかな朝です。
学校に着いてみると、クラスの中にはまだ疲れを引きずって机に突っ伏している生徒もいましたが、全体の雰囲気は以前よりもずっと賑やかに感じられました。野外学習で親睦を深めた効果は、しっかりと出ているようです。
天童さんは最初、私に対して少しよそよそしい態度でした。
無理もありません。昨日の私は、彼に対する感情を隠しきれず、少しきつい態度を取ってしまったからです。思い出すと少し恥ずかしくて顔が熱くなりますが……それでも、すぐにいつもの彼に戻ってくれたので安心しました。
――そして、放課後。
学校が終わると、私はそのまま電車に乗り、駅前のバイト先へと向かいます。
働き始めてもうすぐ二ヶ月。仕事のペースにもすっかり慣れてきました。
電車を降りて、夕暮れの街を歩きます。
ふと、背中にチリッとした視線を感じて振り返りましたが、足早に行き交う人たちの姿があるだけでした。
(……気のせい、ですよね)
この時の私は、今日もいつも通り、平穏にバイトが終わるのだと、無邪気に信じきっていました。
ほんの少し離れた物陰から、じっと私を見つめる『不気味な男の瞳』に、気づくこともなく――。
◇◇◇◇◇
Side : 東條 朔也
野外学習の翌日は、学校では特に大きなトラブルもなく、平穏な一日が終わろうとしていた。
例のいじめていた特進クラスの女子三人は、罰として反省文を書くことになったらしい。朝のホームルーム前、三波先生がこっそりと俺に教えてくれた。
……ふと思ったが、もし俺が冤罪のままだったら、果たして『反省文』程度で済んでいたのだろうか。退学か、最低でも停学問題に発展していただろう。改めて、自衛のために録音していたことと、三波先生に感謝だ
再来週に中間テストが控えているため、学校全体が少しずつ勉強モードに切り替わってきている。来週からはテスト期間に入り、部活も委員会も休みになる予定だ。
俺は普段からその日のうちに復習を済ませるタイプなので、テスト前だからといってそこまで根を詰めるつもりはない。それは南雲も同じで、彼女も毎日の勉強を欠かしたことがない、真面目な優等生だ。
放課後。お互いに予定のない今日は、リビングのローテーブルに向かい合って勉強をしている。二人とも成績は悪くないので教え合うことはほとんどないが、「他人の目があると気が引き締まるから」という理由で、こうして一緒に机を囲むことになった。
「…………」
カリカリと響いていたシャーペンの音が、また止まった。
昨日、南雲がバイトから帰ってきてからというもの、彼女はどうも様子がおかしい。こうして勉強していても、どこか上の空で、同じページから10分以上進んでいない時がある。それだけじゃない。外を走る車の音や、ちょっとした物音にビクッと肩を揺らしたり、何かに怯えているような……。
このままじゃ、お互いに全く集中できない。
俺はシャーペンを置き、思い切って口を開いた。
「なあ、南雲」
「……っ、はい!?」
「そんなに驚かなくても……。お前、昨日からなんか変だぞ。バイト先で何かあったのか?」
「……あっ。い、いえ。何もないですよ? ちょっと野外学習の疲れが残っているだけですから」
南雲はパタパタと手を振って、ぎこちない笑顔を作った。
……全然、誤魔化せてないがな。
だが、この頑固で抱え込む性格だ。これ以上問い詰めても、自分から口を割りそうにはない。
さて、どうしたものか。
◇
次の日の放課後、委員会が終わりいつも通り一緒に帰る。テストが近いこともあって、図書室は賑わっていた。賑わっていたと言っても、騒いでいたわけではなく、皆、勉強に集中していた。
時折、浩紀と愛莉が分からないところを俺や南雲に訊きに来た以外は、特に変わったことはなかった。
問題は帰り道で起こった。
「それでですね……っ!?」
「うん?」
取り留めもない雑談をしながら歩いていた時、隣を歩く南雲の体が、急にビクッと強張った。
彼女は足を止め、前方を見据えたまま硬直している。その横顔は、驚愕と明らかな恐怖に染まっていた。
「どうした?」
「あ、いえ、あの……」
彼女の視線の先には、一人の男がいた。
道の端に陣取り、こちらをじっと見つめている。距離があってもわかるほど、その目には異様な執着と怒りの炎が宿っていた。
(……こいつ、前に見たことあるぞ)
いつだったか、南雲と一緒に歩いていた時に見かけた奴だ。確かあの時は『バイト先の客』と言っていたが……今の彼女の尋常じゃない反応を見る限り、ただの客であるはずがない。
「あいつ、前もいたよな。……トラブルか?」
「……はい」
どう誤魔化すか悩んでいたのだろうが、俺の目を見ると、南雲は観念したように小さく頷いた。
俺たちが立ち止まっていることに痺れを切らしたのか、男がこちらへ近づいてくる。
それを見た南雲の肩が、また小さく跳ねた。視線は男に釘付けにされたまま、無意識なのか、俺の制服の裾をギュッと強く握りしめている。
(どう考えても、怯えてるな)
俺は男のねっとりとした視線から南雲を隠すように、一歩前へ出て彼女を背中に庇った。
それを見た男は一度足を止めるも、すぐに速度を上げ、肩を怒らせながら小走りで向かってくる。
「お、おまえっ! 僕の南雲ちゃんに何してるんだ!」
僕の南雲ちゃん
そのひどく身勝手で悍しい響きに、背後の南雲が「……いやっ」と声にならない悲鳴をこぼし、息を呑んだ。
俺の裾を掴む小さな手が、小刻みに震えているのが背中越しに伝わってくる。
いつもの凛とした姿はどこにもなく、そこにはただ、年相応の恐怖にすくみ上がる、か弱い女の子が隠れていた。
さらに近づいてくる男を、俺は手で制止し、軽く睨む。少し低い、けれど冷静な声で告げる。
「こいつが怖がってる。あんたは近づくな」
「お、おまえはなんなんだよ!」
「何って? 見ればわかるだろ?」
「っな!」
男は顔を真っ赤にして、驚愕する。
今の俺たちの状態なら、何も言わなくても誤解するはずだ。
「な、……南雲ちゃん、本当なのか! こいつが言っていた恋人なのか!」
(言っていた恋人?)
ビクッと、また南雲は体を震わせた。
後ろを少し振り返ると、縋るような、申し訳なさそうな顔をして俺を見上げていた。
南雲に恋人がいたのは初耳だけど、言い寄ってくるコイツを遠ざけるためにそう言ったのはわかる。今まで俺に言わなかったのは、少し寂しいな。
何かを言いたそうに、でも上手く声が出ないのか、彼女は口を開けたり閉じたりしている。それを見た俺は、南雲にだけ聞こえるように、小さな声で、安心させるように言った。
『大丈夫、俺がいる』
それを聞いた南雲の目に、力が宿ったように見えた。少し落ち着いたのか、一呼吸したあと、南雲はいつもの凛とした姿に戻った。一時的にだったとしても、その姿に俺もホッと胸を撫でおろした。
(恋人が誰か知らないが、言い返してやれ!)
心の中で激励した。
南雲は俺の横に立ち、姿勢を正す。
「南雲ちゃん、違うよね! 好きなのはぼくだよね!」
「……まず、私を馴れ馴れしく『南雲ちゃん』と呼ばないでください。『ちゃん』付けなんて、もっての外です。この人が私の彼氏です。それに、私はあなたを好きになったことなど、一度もありません!」
(えぇー!)
「……えっ!?」
なんとか顔に出さなかったが、驚いて固まってしまった。いつの間にか俺たちは付き合っていたらしい。いつからだろう。記念日は祝わないといけないから、後で聞かないと。
……あー、いやわかってるよ。あいつから逃れるために、とりあえず俺を彼氏にしたんだろうな。本当の彼氏に申し訳ない。
「そういうことだから、悪いけどこいつに近づかないでくれるか」
「う、嘘だっ! なんで南雲ちゃんがこんな不良と付き合ってるんだ!」
言いたいことはわかるが、ひどい奴だ。これでも成績だけはいいんだけどな。
「だから、馴れ馴れしく呼ばないでください。彼はあなたより、ずっと良い人です。考え方が大人ですし、優しいところも素敵です。あなたと違って、私が嫌がることはしません。バイトが終わるまで隠れて待ち伏せするなんて……気持ち悪いです」
「う、うわぁぁ! うそだぁぁぁ!」
男は叫びながら、走って逃げて行った。
俺たち二人はその場で、あいつが見えなくなるまで佇んでいた。
どうでも良いが、走り方が気持ち悪い。
ダバダバダバダバという効果音が聞こえそうだ。
「行ったな」
「ふぅ……」
ため息をついた南雲は、その場に崩れ落ちそうになる。俺は慌てて抱き止め、その体を支える。柔らかい感触と体重をほんのりと感じ、顔が赤くなりそうだ。
「大丈夫か?」
「はい。安心して、気が抜けてしまいました……ありがとうございます。それと……ごめんなさい」
「なにが?」
「ご迷惑をおかけしたからです。あと……か、彼氏って」
何か見当違いなことを考えてるな。
「そんなことか、謝ることじゃないよ。そもそも迷惑をかけられたのはあの男であって、南雲じゃない。彼氏発言には驚いたが、あの場を考えたらそうなるってのはわかる。……本当の彼氏には悪いけどな」
「か、彼氏なんてい、い、いませんよ!」
「そうか、そこから嘘か」
「はい! 彼氏なんていません!」
そんなにムキにならなくても……でも、そうか、いないのか。
「そもそも、彼氏がいたら東條さんの家にお世話になっていませんって」
「それもそうか」
南雲にいつもの調子が戻ってきた。もう大丈夫そうだな。俺は彼女が転ばないよう慎重に姿勢を支えつつ、抱えていた手をゆっくりと離した。
「あっ……」
「ん、どうした? まだ、抱きしめててほしかったか?」
純粋な心配と、ほんの少しのいたずら心を交えて尋ねる。
南雲はポンと音が鳴りそうなほど顔を赤くして――
「なっ……! ば、ばかっ……。何を言っているんですか! か、からかわないでください!」
わかりやすく拗ねた。
とりあえず元気になったみたいで良かった。
とはいえ、まだ完全に安心したわけではないのだろう。あいつが走り去った方向を、南雲は不安そうな瞳でじっと見つめていた。
柄にもないが、こいつにそんな顔をさせておくのは嫌だった。
「ほれ、帰ろうか」
そう言って、俺は無造作に右手を差し出した。
少しでも、彼女の不安な気持ちを拭えるのなら。自分でも信じられないほど甘い行動に出たと思う。
南雲は差し出された俺の手を見て、小さく目を丸くしていた。
……やばい、これで避けられたら死ぬほど恥ずかしいな。
「……」
「……嫌だったか?」
沈黙に耐えきれず、そっと手を引こうとした、その時――。
「……そんなことは、ないです」
俺の掌に、南雲の小さな手がそっと重ねられた。俺は彼女を安心させるように、その細い指先を優しく握り込む。
そのまま、俺たちは手を繋いで歩き出した。
道中、交わす言葉はなかったけれど、繋いだ手から伝わる熱がひどく心地よかった。
願わくは、南雲も同じ気持ちなら良いのだが。
夕暮れに赤く染まり始めた帰り道。長く伸びた二人の影は、ぴったりとくっついたまま離れなかった。
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2026.07.25 言葉を調整。ストーリーに影響はありません。




