第19話 野外学習のその後に
多少トラブルがあったものの、オリエンテーリングは無事に終わった。最後の方は全く参加していなかったが、まあ親睦を深めるだけのイベントだ、問題ない。
そもそも、親睦を深める相手がいない。
強いて言えば、水野とは少し親睦が深まったと思う。浩紀や和人はすでに仲がいいから関係ない。
そして、残りの三人は俺と親睦を深める気はそもそもないだろう。
バス移動で学園へ戻る。
行きとは違い、浩紀、和人、水野、俺という順に座る。梅沢含め、残りは前の席だ。さすがに睨んではこなかった。
車内では、体を動かして疲れたのか、ほとんどの生徒が寝静まっていた。俺はこういう時に寝つけない性質なので、ぼんやりと窓の外を眺めている。
隣の水野も完全に夢の中らしく、俺の肩にがっつりと寄りかかってきていた。
……女子の柔らかい重みを感じるのは男としての役得かもしれないが、身動きが取れない。おまけに、口元からうっすら涎を垂らしているのは見なかったことにしておこう。
思い出すのは先ほどの冤罪騒動だ。こんな見た目をしてるんだ、色眼鏡で見られることには慣れっこになっている。
だからこそ、まさか三波先生が真っ向から俺を庇ってくれるとは思わなかった。いつも俺を見てはオドオドしていた印象だったのに。若い新任教師のくせに、意外と芯は強いらしい。
……素直に、少しだけ嬉しかった。
次に脳裏をよぎるのは、いつもと違う南雲の姿だ。
俺が知っている『南雲瀬那』は、我が家か図書委員の仕事中に、柔らかく笑う姿とたまにイタズラを仕掛けてくる姿だけだ。だからこそ、他人に一線を引くような冷たい態度は新鮮だった。
そして、俺を守るためにあんな態度をとってくれたのだと思うと――自分が彼女にとって『特別』なのだと、馬鹿な勘違いをしてしまいそうになる。
(違う。あいつは義理堅いから、たまたま助けた俺に少し気を許しているだけだ)
心の中で強く頭を振り、芽生えかけた自惚れを叩き潰す。
変な勘違いを拗らせたら、それこそ南雲に迷惑がかかる。
俺みたいな人間を、誰かが好きになるわけがない。
それは、俺がこの数年間で学んだ、絶対的な真理だった。
◇◇◇◇◇
学園に着いた俺たちは、そのまま解散となった。
もう夕方になろうとしている時間だ。太陽がだいぶ傾いている。
浩紀たちと別れ、家路につく。
今日は俺も疲れたし、南雲も疲れているだろう。晩飯は簡単なものでいいか。
スマホを取り出し、南雲にメッセージを送る。
『今日は打ち上げとかないのか?』
『クラスの集まりはありますが、私は辞退しました』
『了解。今日は疲れただろうし、晩飯は簡単なものにしようと思う。外食でもいいが、誰かと鉢合わせるかもしれないから、スーパーで冷食でも買って帰るわ』
『私が作ります!……と言いたいところですが、さすがに今日は疲れましたね。私もご一緒しますので、スーパーで合流しましょう』
クラスメイトに見られるリスクはあるが、ここで断るとまたジト目で睨まれそうだ。俺は『了解』とだけ短く返信した。
やり取りをしている間に、スーパーに着いた。カゴを持ち、冷食コーナーに向かう。
このスーパーには弁当タイプの冷食もあるので、面倒なときは重宝する。
最近の冷食は進歩したなー。……昔を知らないが。
しばらく選んでいると南雲が合流した。
「お待たせしました」
「大して待っていないよ」
「そこは『俺も今来たところ』じゃないのですか?」
瀬那がニコニコと悪戯っぽい笑顔を向けてくる。オリエンテーリングで見せていた鉄壁の外面ではなく、年相応の自然な表情だ。……やっぱり、こっちの方が断然いい。
「デートだったら、そう格好つけて言っていたかもな」
「むむっ。つまり、これはデートではない……と」
唇を尖らせる瀬那に、俺は自分の服を指差した。
「さすがに、煤と泥まみれのジャージでデートは嫌だろ?」
「あっ……確かに」
言われて自分の格好を再確認したのか、瀬那が少し恥ずかしそうに誤魔化し笑いをした。
そう、俺たちはジャージ姿だ。しかも焚火の煤と、オリエンテーリングの砂埃で汚れている。傍から見たら、ただの部活の買い出しに見えるだろうな。
俺はハンバーグの弁当と総菜のサラダを選び、南雲は油淋鶏と同じくサラダにしたようだ。俺は少し量が足りなさそうだが、作り置きしている惣菜が家にあるので、それを追加で出せばいいだろう。
◇
家に着くと、まず真っ先にシャワーを浴びたい。それは南雲も同じだろう。
俺は遠慮する南雲を「部屋が汚れるから」と半ば強引に風呂へ押し込み、買ってきた冷食を素早く冷蔵庫に突っ込んで、そそくさと玄関の外に出た。
煤と泥まみれの服で部屋をうろついて、これ以上掃除の手間を増やしたくないからだ。
『上がったら連絡してくれ』とメッセージを送り、俺はいつものように廊下の端でマンガアプリを開いた。
更新されているマンガを読んでいると、廊下を親子が歩いてきた。
隣に住んでいる館山親子だ。
恵美さんと娘の恵麻ちゃん、確か……小学校三年生だったはず。
引っ越してきた時に顔は見せており、廊下ですれ違う時に挨拶するぐらいの、顔見知り程度の間柄だ。
「こんにちはー!」
「こんにちは」
目が合うと元気よく、恵麻ちゃんが挨拶をし、それに続けて恵美さんも挨拶をしてきた。こちらも「こんにちは」と軽く挨拶を返す。
「お兄ちゃん、お家に入らないのー?」
恵麻ちゃんが無邪気に小首を傾げ、恵美さんも少し不思議そうな目で俺を見た。まあ、当然だ。薄汚れたジャージ姿の男が、自分の家の前でスマホをいじって突っ立っているのだから。
「あ、行事で少し汚れちゃって。シャワーを浴びてから入りたいんですけど、今、友達が先に入ってて……外で待ってるんです」
「ああ、そういうこと。確かにすごい泥ね」
「焚火して、林の中歩きましたから。仕方ないっすね」
それだけ答えた直後、手に持っていたスマホが震えた。
画面には『南雲 瀬那』の文字。
(……危ない。見られたら面倒なことになるところだった)
俺は画面を隠すようにスマホを耳に当てる。
「すみません、電話がかかってきたので」
「気にしないで。恵麻、家に入るわよ」
「はーい。お兄ちゃんまたねー」
「ああ、またね」
恵美さんが鍵を取り出す横で電話に出た。
『もしもし、お風呂上がりました。どこにいるのですか?』
「部屋を汚したくないから、玄関の外にいるよ」
『そこまでしなくても……』
電話越しに聞こえた声と同時に、目の前のドアがガチャリと開いた。
ひょっこりと顔を出した南雲は、スマホを耳に当てたまま、ほっとしたように俺を見上げる。
濡れた髪から滴る水滴と、鼻をかすめる甘いシャンプーの香り。無防備な風呂上がりの姿は、妙に色っぽくて目のやり場に困る。
「本当に外にいたのですね」
ほっとした顔で俺を見た。
すると、それを見ていた恵麻ちゃんが話しかけてきた。
「お姉ちゃんだれー?」
恵麻ちゃんの無邪気な声に、南雲が「えっ!?」と肩をビクッと跳ねさせた。無理もない。いきなり隣の親子と遭遇するとは思わなかったのだろう。
一方の恵美さんも、目を丸くして固まっている。……そりゃそうか。泥だらけの男子高校生が待っていた『友達』が、こんな風呂上がりの美少女だとは思わなかったはずだ。絶対に良からぬ勘違いをされている。
「えっと……」
南雲が助けを求めるようにこっちを見た。どう説明するのか求めているのだろう。
さっき恵美さんに『友達』と言ってしまったのが厄介だ。今さら親戚とは言えないじゃないか。
(頼むから話を合わせてくれ……!)
俺は一拍置き、必死の念を込めながら手で示した。
「この子は、同級生の南雲さん。汚れたのを気にしてたから、うちのシャワーを貸したんです。――南雲、この二人は隣の館山さん。今話しかけたのが娘さんの恵麻ちゃん」
先に『同級生』と紹介することで、以前決めた親戚設定は使えないと察してほしかった。
彼女は俺の意図を汲んでくれたようだが――その瞬間、なぜかほんの少しだけ、不満そうに唇を尖らせた。
「初めまして。東條さんの『同級生』の、南雲です」
「は、はい。初めまして。館山です。こっちは娘の恵麻」
「南雲おねーちゃん?」
「はい、南雲です。初めまして恵麻ちゃん」
「初めまして!」
人見知りしない恵麻ちゃんは、南雲にも元気に挨拶をした。
どうにか設定は誤魔化せたが、微妙に気まずい空気が流れたので、ここはさっさと逃げようと思う。
「じゃあ、俺もシャワー浴びますので、失礼しますね」
「あ、はい。ではまた」
お互い、軽く挨拶をしてそれぞれの家に入った。
……なんとかなったはずだ。
◇◇◇◇◇
Side : 南雲 瀬那
東條さんがお風呂に入った後、私はドライヤーをお借りして、部屋に戻りました。
髪を乾かしたり、スキンケアをするためです。初日に見られたとはいえ、いつも見せるのは恥ずかしいですから。
「『同級生』か……」
ドライヤーをかけながら、先ほどの彼の言葉をポツリと呟きます。
隣の親子に説明するには、一番無難な言い訳です。親戚の設定を使わなかったのにも、彼なりの理由があったのでしょう。頭では理解しています。
――ただ、『ただの同級生』ではなく、もっと別の……。
(いやいやいや! 私、何を考えているの!?)
鏡の前で赤くなった顔を横に振り、必死に邪念を追い出しながらスキンケアを急ぎました。
そう長くない時間で、東條さんはお風呂から上がって、リビングに入ってきました。
リビングからはテレビの音が聞こえてきます。東條さんはテレビをBGM代わりにすることが多いのです。私が部屋を出ると、案の定、彼はソファに座ってスマホをいじっていました。
「東條さん、もう出てきたのですね」
「うん、あぁ。シャワーだといつもこんな感じ。まだ夕飯には早いから、気にせず部屋でゆっくりしてていいけど」
「いえ、お手入れも終わったので、気にしないでください」
「そっか」
そう言って、私は彼の隣に腰を下ろしました。
――ふわりと、ソファが沈み込みます。
一人で座った時とは違うその感覚が、なんだかひどくこそばゆいです。すぐ横からは、私とは違うシャンプーの香りに混ざって、彼自身の体温のような匂いが漂ってきます。
……なんだか、すごく恥ずかしい。そして――落ち着く匂いです。
このままだと変なことを考えてしまいそうなので、今日の話題を出します。
ずっと気にしていたことです。
「野外学習、思いのほか疲れましたね」
「そうだな。オリエンテーリングが思ったより凝ってて驚いたわ」
「そうですね。まさかボルダリングまで準備しているとは、思いませんでした」
帰り道で聞こうかとも思ったのですが、スーパーでの他愛のないやり取りが楽しくて、水を差したくなかったのです。
だけど、やっぱりずっと心配でした。
「……あの、それで。野外学習の最後、変な疑いをかけられていましたが……大丈夫だったんですか? 遠くからだったので、詳しいことは聞こえなかったのですが」
「そうか、聞こえていなかったのか。うーん、流れを説明すると……」
東條さんは事の経緯を話してくれました。忘れ物を取りに戻ってから、林でいじめらしきものを見たこと。そこから冤罪をかけられたこと。そして、証拠を出して疑いを晴らしたことを。
(倉木さんたちと歩いている時の説明で、少し苦い顔をしたのが気になります)
「大変でしたね……お疲れ様です」
「本当に面倒だった。遭遇したのは仕方ないとしても、冤罪は意味がわからん」
「確かに。録音ですが、準備がいいですね」
「トラブルやハプニングに遭遇しそうな時は、あらかじめ起動する癖をつけてるんだ」
少し自慢げに話す東條さん。普段はクールなくせに、珍しくドヤ顔をして言う彼が……少しかわいいかも。
……ん? トラブルやハプニング? もしかして。
「……もしかしてですが。あの日、私を拾った時も録音していましたか?」
「あっ」
東條さんが、明らかに『しまった』という顔をして口を手で覆います。
私は彼を少し睨んでみました。いわゆる『ジト目』というやつです。
「……君のように、勘のいい子は困ったものだ」
「聞いたことがありますね、それ。なにかの漫画のセリフですか?」
「うん、まあ、そのままじゃないけどね。……南雲の時も録音してたよ。ただあれは、南雲に対してどうこうじゃなくて、君に絡んでいたあのナンパ男二人組への対策だったんだけど」
バツが悪そうに視線を逸らしながら、彼はそう白状しました。
その言葉で思い出します。
「……そういえば、ナンパされてましたよね私。そのあとからの出来事が衝撃的すぎて、忘れてました」
そうなのです。あの日からの濃密な二日間が怒涛すぎて、あんなに怖かったナンパの記憶すら、すっかり霞んでしまっていました。
まだ、ほんの五日ほど前の出来事なのに。
もしあの日、東條さんに助けてもらっていなければ、私は今頃どうなっていたのでしょう。考えると少し背筋が冷たくなります。
隣から漂うシャンプーの香り。
この温かい部屋、穏やかな空気、そして――彼との不思議な関係。
すべては、あの雨の日の偶然が重なって生まれた『奇跡の産物』なのだと、改めて思います。
本当に……心地いい。




