第181話 長野旅行⑦
Side:南雲 瀬那
― 数分前 ―
昼食を挟み、林間コースを五度も滑れば、私も朔也くんも慣れたものです。
最初は三十分くらいかかりましたが、もう十分くらいは短縮できたのではないでしょうか。
他のコースも滑っていますが、今のところは林間コースが一番面白いです。
「五キロなのに、スノボーだと大した距離には感じませんね。……楽しいです」
「走ってたら、こんな距離は無理だわな。もう何十キロも滑ってることになるし。……ほれ、水」
「ありがとうございます。……んっ……んっ」
ゴンドラで移動中、朔也くんから手渡されたペットボトルの水を飲んでみると、身体に染み渡るのがわかります。
寒いとはいえスポーツです。思っていた以上に汗をかいていたようですね。
「んっはぁ……美味しいです」
「結構汗かいたよな。顔は寒いけど、ウェアの中は蒸れて暑いくらいだわ」
やっぱり朔也くんも汗をかいているようで、私と同じ気持ちみたいです。
「本当ですね。……それにしても、楽しいです」
「ははっ、今日何度目だろうな、それ。そこまで喜んでくれたなら、誘って良かったよ」
「運動って嫌いではないですが、ここまで『楽しい』って思ったこともなかったのですけど……スノボーは段違いかもしれません」
平均以上の運動能力はあると自負していますが、だからといって競技をしている人より秀でているとは思いませんし、今までスポーツそのものを好きになったこともありませんでした。
こんなに『もう一度やりたい!』と思うのは、自分でも珍しく感じます。
「楽しいって思えたスポーツって、これが初めてかもです。朔也くんと出会わなければ、多分やることもなかったので……その点でも感謝してます」
「大袈裟だって。俺のわがままに付き合ってもらったんだから、感謝されることでもないさ」
「ふふ、そう言うと思いましたけど、感謝は何度伝えてもいいのですよ」
朔也くんは少し照れたように頬をかき、ふいと視線を逸らしました。
「そうか。なら、俺も瀬那に感謝しないとな。一緒に来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
何気ない会話だけど、楽しい会話。
ふと視線を感じて顔を上げると、向かいに座っていたカップルが微笑ましそうにこちらを見ていました。
……恥ずかしい。
「……さ、朔也くん。次はもう少し速度を出してもいいですか?」
「ん? もう一度、林間コースだろ。いいんじゃないか? 思ったより危ないところも少なかったし」
「急斜面だけ気をつければいいですよね」
「そうだな。あっち側に落ちたら、さすがに危ないだろうけど」
初心者向けの林間コースですが、一部だけ、コース脇にかなりの急斜面が柵もなく続いている場所があります。
そこだけは気をつけた方が良さそうです。
ゴンドラから降りると、コースのスタート地点まで片足で移動します。
もう慣れたもので、つまずくこともほとんどありません。
先に滑り出しそうなスキーの家族がいたので、少し離れるまでその場で朔也くんと話します。
「――で、あの辺りでもう少し速度を出してみようと思います」
「いいんじゃないか。あの辺りなら横も安全そうだし、見通しもいいしさ」
「……ついてこられますか?」
「へぇ……言うじゃないか」
ちょっと挑発するくらいにはテンションが高くなっているのを、自分でも自覚しています。
朔也くんは私より先を滑ることもできるはずなのに、そうしません。
もし私に何かあった時、すぐに対応できるように後ろから追いかけているのだと思います。
……多分ですけどね。
でも、それでは朔也くんが全力で楽しめていないのではないかと、少し不安になります。
だから、あえて挑発してみました。これなら私を追い抜いても、何の問題もありません。
……さあ、朔也くんはどうするでしょうか。
いつも通り私が先に滑り始め、数秒遅れて朔也くんも滑り始めます。振り返らなくても、それくらいはわかります。それほど神経が研ぎ澄まされているような感覚がありました。
今朝から滑り始めて、今回が一番速度が出ているのがわかります。
途中には少しだけ上りになっている場所もありますが、勢いを落とさずに抜けることができました。
「……気持ちいい」
風の音が耳の奥で膨らんでいくような感覚がありました。
今日何度目になるかわからない言葉が、自然と口から漏れます。
顔に当たる冷たい風。
――その冷たささえも、今は気持ちいい。
ただ楽しいだけじゃない。
真剣に滑っているのが自分でもわかります。
ゴーグルで外からは見えないでしょうが、感覚だけで、瞳が朱くなっていることもわかりました。
(あぁ……この速度と、風圧と、疲れ……全部が……いい!)
自分でも、かなり興奮しているのがわかります。
――だから、少しだけ危機感が足りませんでした。
十分に速度が乗ってきた、その時。
前を滑っていた子供の身体が、急に大きく揺れました。
「うわっ!」
――転んだ。
距離にして十メートルくらい。
歩いているなら、何の問題もない距離です。
でも、私は今スノーボードで滑っています。
しかも、まだ始めて二日目。
この速度から、急に止まれるほど上手くはありません。
「危ないっ!」
とっさに進む方向を左へずらし、ギリギリでその子を避けることができました。
でも――
『瀬那っ!』
少し後ろを滑っていた朔也くんの叫び声。
イヤホンから聞こえたのか、それとも直接聞こえたのか。
そんな、どうでもいいことを考えてしまうくらい、周囲の動きがゆっくりに感じられて――
「きゃあ!」
――目の前に、木の幹が迫っていました。
ドガッ!
避けた先にあった木へ正面からぶつかり、そのまま雪の上へ投げ出されます。
ドザザーッ!
続いて、頭上から大量の雪が降り落ち――
「……っ!」
――私の視界は、真っ暗になりました。
◇◇◇◇◇
Side:東條 朔也
「瀬那っ!」
瀬那が木へ衝突し、その衝撃で枝に積もっていた雪が一気に崩れ落ちる。
俺は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
「……っ!」
ほんの数秒前まで、数メートル先を滑っていた瀬那が急に進路を変え、コース脇へ外れた。
その先には木。
ぶつかった次の瞬間には、落ちてきた雪に姿を隠されていた。
一瞬だけ、あまりに漫画みたいな光景だと場違いなことを考える自分と、早く瀬那のところへ行かないといけないという焦りが、頭の中で同時に動いた。
瀬那が避けた場所には、転んでいる子供がいた。
その子を避けたのだということは、すぐに理解できた。
理解はできたが――無茶しやがって。
俺は急いで瀬那のところへ向かう。
深く埋まっているようには見えなかったが、それでも心臓に悪い。
「瀬那!」
ボードを足から外す手が震えているのがわかった。
その手で、雪を必死にかき分ける。
周囲から何人かがこちらへ近づいてくる気配もあったが、助けを待っている余裕なんてない。
ある程度の位置に当たりをつけて雪を払うと、すぐに瀬那の顔が現れた。
「瀬那!」
俺と目が合う。
瀬那は――きょとんとしていた。
残った雪を払いながら、すぐに問いかける。
「瀬那、大丈夫か? 痛いところはあるか?」
「……ありません」
「本当に?」
「はい。……ない、です」
事故の衝撃で混乱しているのか、瀬那自身も呆然としていた。
自分でも信じられないのだろう。
雪から出てきた自分の身体を、戸惑ったように確かめている。
木に正面からぶつかった。
俺は確かに見た。
なのに――
――何もない。
瀬那の視線が、ゆっくりと自分の手元へ落ちた。
「……」
しばらく、お互いに言葉が出なかった。
「びっ……」
「び?」
「びっくりしました!」
「……それは俺のセリフだ、アホ」
どうやら怪我もなく、意識もしっかりしているようだ。
ようやく少しだけ緊張が抜け、俺は軽く瀬那の頭を小突いた。
「いたっ!……事故に遭った彼女に何をするのですか!」
「……はぁ。そんなこと言えるなら、本当に大丈夫そうだな。……ほら、起こすぞ」
雪の中から手を取り、瀬那を起こす。
見た限りでは、特に異常はなさそうだった。
「もう一度訊くけど、痛いところはあるか?」
「朔也くんに叩かれたところ以外は大丈夫です……。えぇ、本当に大丈夫です」
「それなら良かった。……ちゃんと働いたみたいだな」
「……これ、ですか?」
瀬那がグローブ越しに、お守りのある場所へ手を添える。
やっぱり、本人も実感したのだろう。
あれだけのことがあったのに、何ともない。
予想外の感覚に戸惑っているのが、表情からもわかった。
瀬那はもう一度、自分の腕や身体を確かめるように触れ、それから俺を見上げる。
「……これについては、後で教えてくれるのですよね?」
「ちゃんと説明する。ただ、ここでする話じゃない」
「……わかりました。では、帰ったら絶対に教えてくださいね」
さすがに、今度こそ話そうと思う。
タイミングもちょうど良さそうだしな。
「ああ。とにかく……本当に無事で良かった」
「きゃっ!」
俺は瀬那を抱きしめた。
「あんまり無茶するなよ……マジでビビったんだからな」
「……朔也くんには言われたくないですね。私の気持ちがわかりましたか?」
「……あぁ。少しはわかった気がする」
「それは良かったです♪」
瀬那も俺の背中へ腕を回してくれた。
その力が返ってきたことで、ようやく本当の意味で息をつけた気がする。
……本当に、無事で良かった。
それと――
ちゃんと働いてくれて、良かった。
だけど、これでもう隠しておく理由はなくなったな。




