第163話 芸術鑑賞会
十一月の末、一、二年生には芸術鑑賞会という行事がある。
内容は演劇だ。劇団を学園に招いて講堂で行うため、移動時間もほとんどかからず、一限から四限までを使って開催される。
席は自由だ。
これは学校側が指定するのが面倒だからとか、交際相手がいる人を考慮したとかではない。演劇に興味のある生徒が、見たい位置で見られるようにするための配慮だ。
せっかく来てもらうのに、興味のない奴らが目の前にいたら劇団員にも失礼だから、という理由もあると思う。
幸い、講堂はちゃんと設計されていて、どこに座っても舞台が見やすいようになっている。そのため、一階の一番前の列が舞台に近すぎて見づらいということもない。つまり、最前列だけガラガラになることもないと思う。
時間になると、みんな仲のいい奴ら同士で固まるように講堂へ座り始めた。
俺もいつものメンバーと固まっていて、横にはもちろん瀬那がいる。
演劇は三時間近くあるらしく、みんな飲み物を持ってきていた。ポップコーンはさすがにない。……映画館じゃないんだから当たり前か。
それに加え、ノートやメモ帳も出している。
全員が席に着いたことを確認すると、壇上に先生が上がり、簡単な説明をした。
その後に劇団の紹介があり、団長が前説を始めた。
『この劇は、我が劇団が制作したオリジナル作品です。ぜひ、楽しんでください』
この話を聞いて、至るところから驚きの声が上がった。
……それはなぜか?
原作があるなら、最悪あとから答え合わせができる。だが、完全オリジナルとなればそうはいかない。
「まじか、オリジナルなのかよ」
「タイトルを見た時から、初めて聞く名前だなって思っていましたが……。原作がないので、感想文は大変かもしれませんね」
芸術鑑賞会は、ただ鑑賞するだけではない。
演劇を見て、聞いて、それを感想文として提出するのだ。これもまた勉学なり。
幸いなのは、直接成績に関わるわけではないという点。
ただ、あまりにも内容が酷い場合は、別の作品の感想文を追加で提出することになるらしく、みんな戦々恐々としていた。
『それでは「ほんとうの言葉」、ご覧ください』
団長がそう宣言し、幕が上がった。
◇
舞台の中央で、男女がローテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
照明が落ち、舞台だけが淡く浮かび上がる。それだけで、空気が変わったのがわかった。
声を出さずに、何かを話している様子を演じている。
「……もう、来なくていい」
不意に、女が俯いたまま告げた声が講堂に響いた。
男は何も言わず、彼女を見つめている。
「ずっと迷惑だったの。あなたが毎日のように来るのも、心配してくれるのも。だから……もう、放っておいて」
悲痛な声で言い切る女の指は、スカートの裾を強く握りしめていた。
けれど男の位置からは、その震える手はテーブルの陰になって見えない。
「……わかった」
しばしの沈黙を破ったのは、男の短い返事だった。
それを聞いた女は、はっと顔を上げる。
「え……?」
「迷惑だったなら、悪かった」
「あ……」
立ち上がる男を引き止めようと、女が手を伸ばす。
だが、途中でその手が止まった。
男は一度だけ彼女を振り返り、わずかに笑う。
笑っているはずなのに、その表情はひどく寂しそうだった。
「じゃあ、もう来ないから」
男は背を向けて歩き出した。
その姿を見て、女の唇が動き――
「違……」
掠れた声は、男には届かなかった。
伸ばしかけた手も、途中で力なく落ちる。
そして、照明が暗転した……。
◇
スポットライトが点くと、場面が変わっていた。
舞台の端に座った女が、膝の上で古びた封筒を握っている。
「どうして、あんなこと言ったんだろう……」
隣に座る友人役の少女が、小さく首を傾けた。
「本当は、来てほしかったんでしょう?」
「……うん」
絞り出すような声で、女は答えた。
「心配してほしかった?」
「うん」
「じゃあ、なんで『迷惑』なんて言ったの?」
核心を突く友人の問いに、女は答えなかった。
しばらくの沈黙が流れる。
「怖かったの」
やがて、ぽつりと呟く。
それは弱々しく、今にも泣きそうな声だった。
「いつか、あの人がいなくなるのが怖かった。だから……いなくなる前に、自分から離れた方が楽だと思った」
「それ、あの人には伝えたの?」
「……言えるわけないじゃない」
友人は悲しそうに女を見つめていた。
「でも、言わなかったらわからないよ」
「わかってくれると思ってた!」
「じゃあ、あなたはあの人が何も言わなくても、全部わかった?」
女が言葉を失う。
「彼は、あなたと一緒にいるだけで幸せだって言ってたよ」
「……っ!」
舞台に長い沈黙が落ちた。
◇
終盤。
駅を模した舞台装置の前で、男が鞄を手にしている。
女は少し離れた場所に立ち、何度も口を開いては閉じていた。
「何か用?」
男が振り返る。
「……何もない」
「そうか」
再び男が歩き出す。
男の顔は苦しそうだった。
その時、女の瞳に涙が浮かぶのが、この距離からでもわかった。
「待って!」
女の必死な声に、男が振り返った。
その顔には、期待と安堵が入り混じったような表情が浮かんでいた。
……だが、彼を呼び止めた女は、そこから先を言えない。
「……元気でね」
長い沈黙のあと、出てきたのはそれだけだった。
男も何かを言いかける――けれど、結局は小さく笑った。
「君も」
二人は反対方向へ歩き出す。
互いに一度だけ振り返るが……その瞬間はわずかにずれていて、二人の視線が交わることはなかった。
……照明がゆっくりと落ちていった。
◇
話の結末は、俺からするとバッドエンドに見えた。
もちろん、そういう作品も多いのはよくわかっている。だけど、どうしてもこういう話は後味が悪く感じてしまう。
俺がハッピーエンド好きだからかもしれない。
「……最後まで、言えなかったのですね」
幕が下りると、周りの奴らは口々に「切なかった」「エグいわ」などと感想を漏らしていた。
だが、俺の横にいた瀬那だけは、拍手にも加わらず、じっと舞台の方を見つめたままだった。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「主役の二人のことです。本当は大切に思っていたのに、結局、最後まで肝心なところを言えませんでした」
「ああ。言わなくても伝わってると思ってたんだろうな」
「……言葉にしなければ、逆の意味に受け取られることもある……ということですね」
妙に実感のこもった声だった。
その表情は真剣で、何かを噛みしめるように前を向いている。
「瀬那?」
「……」
瀬那がこちらを見る。
何かを言おうとしたように唇を開き――すぐに閉じた。
彼女の癖の一つ。
奇しくも、演劇の女と同じ動きだった。
「いえ。少し、もどかしいと思っただけです」
「そうか」
「はい」
そう答えた瀬那は、いつものように微笑んでいた。
その横顔を一瞬だけ見つめる。いつもと変わらないはずなのに、どこか作られたような笑みに見えたのは、気のせいだろうか。
なのに、なぜか。先ほどの言葉だけが、妙に頭に残った。




