幕間 梅沢の誤算
バタッ!
私は鞄を投げ捨て、部屋のベッドの上に倒れ込んだ。
ここ数日、何もかも上手くいかないのが悔しくて、泣きそうだ。
文化祭で出会った、鳴鷹さん。
彼女から東條の中学時代のことを教えてもらい、それを利用して彼を貶める作戦を考えたのはいいけれど、まったくと言っていいほど効果がなかった。
私の予定では、過去のことが広まれば、みんな東條の情けない本性を知るはずだった。
それに、同級生相手に弁護士を立てるような恐ろしい奴だとわかれば、周りは東條から離れ、最後には孤立するはずだった。
東條の彼女である南雲も、文化祭の時には気にしていない様子だったけど……そんな過去があることを周りに知られれば、情けない奴が彼氏なんて恥ずかしくなって、距離を置くはずだった。
「それが、まったくと言っていいほど何も変わらなかった」
いつも通り一緒に登下校をして、昼食を一緒に取るのも変わらない。
それに加え、隙を見た男子が南雲を横取りしようと告白しても、すべて一蹴していた。
しかも、東條のことで悪意のあることを言った相手を、冷静な声で説き伏せているところまで見てしまった。
「あれは、少し遠くから見ていた私でも、ちょっと怖かった……」
そこまでするくらい、東條に惚れているのがわかった。
やっぱり、彼女は和人くんのことを恋愛方面では何も思っていない。
もしかして、私が最初から間違えて――
頭の奥で、小さくノイズが走った。
『南雲瀬那は敵よ』
「痛っ!」
急に頭が痛くなり、私は床へ投げ捨てた鞄を引き寄せた。
中に入っているペットボトルのジュースを取り出し、すぐに一口飲む。ついでにしまっておいたスマホもベッドへ放る。
今のはなんだったのだろうか。
……あれ、私、何を考えていたんだっけ?
どうしてか、頭が痛むと、なにかを飲まなければならない気がした。
もう一口飲むと、締めつけられていた頭が少しずつ楽になっていく。
……味が、以前と少し違うかも。
「まあいいわ。それに、和人くんも和人くんよ。前川はどうでもいいけど、クラスメイト相手に弁護士を立てるような奴を、なんで庇うの!」
和人くんが、同級生や先輩から東條のことを聞かれているのを見たことがある。
ただの世間話なら何もなかったけど、いじめの件をネタにして笑い話にした瞬間、彼は表情を変えた。
……文字通り、空気が変わった。
「あの表情は、あの時、私に見せたものよりも怖かった……」
明らかに雰囲気が変わったことに気づいたのか、話しかけた人たちは平謝りし、その場から逃げ出していった。
「それに、柊先輩に天童くん……あの演説は……」
噂を広めた私を、糾弾しているように聞こえた。
まるで、私を悪者にしているみたいだった。
悪いのは、東條なのに!
「どうせ、東條に丸め込まれたに違いない!」
柊先輩も天童くんも、和人くんみたいに東條に騙されているんだ!
そう、そのはず。
「それに……なんなのよ、婚約者って!」
ボスッ!
近くにあったクッションを壁へ投げつけた。
けれど、軽いクッションは壁にぶつかると、何事もなかったように床へ落ちる。
「あり得ない。あり得ない、あり得ない……」
そんなはずがない。
和人くんに婚約者なんて、いるはずがない。
「あり得ないって言ってるでしょ!」
もう一度クッションを拾い、壁へ叩きつける。
何度投げても、何も壊れない。それが余計に腹立たしかった。
「ありえない……ありえない、ありえない……アリエナイ……」
文化祭の時にも、その話は少し聞いていた。
でも、みんなの聞き間違いか、何かの勘違いだと思っていた。
――違う。
勘違いだと、思い込もうとしていた。
鳴鷹さんから聞いた新しい情報に浮かれていたこともあり、私は信じようとしなかった。
だって、和人くんは、今までそんな素振りを一度も見せなかったんだ。
それに、文化祭で様子を見ていた友達は、「和人くんは困っていた」とも言っていた。今日だって、ずっと苦笑いをしていた。喜んでいなかった。
だったら、あの女が勝手に言っているだけだ。
「そうよ……。あの話は、ウソニ、チガイナイ」
もう一つ、嫌なことがある。
東條を孤立させる予定だったのに、逆に親しい人間が増えているのが気に食わない。
今日のエレノアだってそうよ。
初めから自然に和人くんのグループへ入り込んだ。そのせいで、結果的に東條と南雲の仲間まで増えたんだ。
「だから――」
床に転がっているクッションを拾う。
「私が流した噂に、効果がなかったのも」
両手で掴み、力いっぱい引っ張る。
「あの女が、婚約者を名乗っているのも」
ミシミシと、クッションが悲鳴を上げている。
南雲が東條のそばにいるから、和人くんまで東條から離れない。
和人くんが東條たちと一緒にいるから、あの女まで同じ輪の中へ入り込んできた。
だったら、全部の始まりは東條と南雲だ。
「あれもこれも……全部、東條と南雲が悪いのよ」
耐え切れなくなったクッションの縫い目が裂け、中の綿が部屋に舞った。
白い綿だけが、場違いなほど静かに宙を舞っていた。
和人くんの前にあの女が現れたのも、南雲のせい。
和人が私に振り向かないのも、東條のせい。
カズトが嫌な思いをしているのも、全部あの二人のせい。
床に落ちた白い綿を見下ろす。
不思議だった。
さっきまであれほど苦しかった胸が、嘘のように軽くなっている。
「そうよ……最初から、二人がいなければよかったのよ」
口にすると、それは驚くほど自然な答えに思えた。
その時、ベッドの上へ放り出していたスマホが震えた。
『まだ終わってないよ。次は、もっと上手くやろう』
鳴鷹さんからだった。
「……そうよね」
散らばった綿を踏みながらスマホを手に取った。足元の惨状には、もう何も感じない。部屋の中は、さっきまでの騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
暗くなった画面に、わずかに笑っている私の顔が映っていた。




