第152話 柊菫の一面
翌日は俺が日直だったため、俺たちはいつもより早めに家を出た。
瀬那はいつもどおりの時間でもよかったのだが、一緒に行くと言って聞かなかった。昨日の今日だ。もしかしたら、まだ心配しているのかもしれない。
こういうところでも支えられているのがわかる。
……ありがたいことだ。
学校に着くと、あちこちから多くの声が聞こえてきた。今日は早く出たため、選挙演説の始まりから聞くことになるらしい。
様子を見ると、朝練のために早く登校した生徒にも届くよう、声を張り上げている候補者もいるようだ。
「和人もやっているな」
「そうみたいですね」
少し離れた場所で、天童の手伝いをしている和人が見えた。
『天童光輝』と書かれた襷を掛けているが、そんな姿まで様になるのは、イケメンの特権だろう。
そんなことを考えていると、少し奥から話し声が聞こえてきた。
言い争っているわけではないが、その声にはどこか険がある。
「……だから、それが何かな?」
柊先輩……?
いつもの軽く茶化すような声色ではない。明らかな不満が滲んでいた。
「だから、柊って、東條を生徒会長にしようとしていたんですよね? あいつが中学でいじめられていたって、知っていたんですか?」
「……っ」
俺のことを話している。
柊先輩から生徒会長へ立候補しないかと薦められたのは、まだあの噂が出る前だった。
誰と話しているのかは分からないが、先輩が俺の過去を知ったあとでも、推薦するつもりだったのかは俺も分からない。
「それが何か関係あるの? 被害に遭ったことを、本人の欠点みたいに扱うほうがおかしいでしょ」
「……でも、わざわざ生徒会長に推薦しなくても、とは思わないのですか?」
「もう一度言うけど、そこは欠点ではないよ。むしろ、痛みを知っているなら、人の上に立つ資格があるんじゃないかな? ボクはそう思うけど?」
気づかれないように少し隠れてそちらを見ると、見覚えのない男子生徒と柊先輩が話していた。声だけではなく、その表情もいつもの先輩らしくない。
男子生徒を明らかに嫌悪している。
俺の知る彼女は、何かを言われて機嫌を損ねたように見えても、どこかその状況を楽しんでいるような人だった。
いや、そんな姿しか見たことがなかった。
(それが、今は本気で機嫌が悪い……?)
柊先輩が何度か身を乗り出しかけるたび、隣にいる桐生先輩が腕を引いて止めていた。
「いじめられるような情けない男に、人がついていくと思うのですか?」
「……っ! いい加減に――もが、もががが!」
柊先輩の怒りは、桐生先輩の手のひらによって物理的に封印された。柊先輩は文字どおり、その場でもがいている。
その様子に、近くにいた選挙演説の観客たちが、何事かとこちらへ視線を向けていた。
柊先輩はどうにか手を剥がそうとしているが、桐生先輩の力にはなす術もないようだ。
桐生先輩はその姿勢のまま、男子生徒へ問いかける。
「新聞部のお前が、そんな質問をして何をしたいのかは分からないが、あまり褒められたものではないな」
「……柊さんの腰巾着のお前に、褒められたいとは思っていない」
「もが! もがが!」
「……どちらかといえば、お目付け役なんだけどな」
それには激しく同意する。
だが、本人は不本意らしく、そう言った桐生先輩をにらんでいた。
……でも、その目はいつものアホなことを言っているときのものだった。
「まあ、どちらでもいいが。とりあえず、さっきの言葉は訂正しておけ。ただの侮蔑だぞ。……噂どおりなら、あいつはそういう言葉を見逃さないんじゃないか。そうだろう、東條?」
「……え?」
新聞部の男子生徒が素っ頓狂な声を上げた。
それを無視し、桐生先輩は俺たちのいる方向を見る。どうやら、桐生先輩の位置からは、俺たちが見えていたらしい。
「……さすがに、その程度では何もしませんよ。それに、情け……いや、いじめられていたこと自体は事実ですし」
隣から制服の裾を引っ張られたので、途中で言い直した。
俺が自分のことを「情けない」と言うのも、瀬那は許さないらしい。
「……あ、でも、事実でも名誉毀損になる場合はあるんでしたっけ?」
「たしかに、そういう話は聞いたことがあるな」
「……え? べ、別に本気で侮辱するつもりはなかったんだ。……でも、言い過ぎた。ごめん」
「いいですよ。別に気にしていませんから」
俺の隣で静かに怒っている美人さん以外はな。
口には出せないが、とりあえず早くこの場から逃げてください。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで失礼する……!」
想いが通じたのか、新聞部の男子生徒はお約束のようにそう言い残し、脱兎のごとく逃げ出した。
逃げた理由が、気まずさなのか、俺の隣にいる彼女の圧なのか、それとも別の何かなのかは分からない。
でも、ひとまずこれで落ち着くだろう。
その場に残された俺たちの間に、一瞬の静寂が落ちた。
「もがもがが!……ぷはっ。やっと解放されたよー。尊も、いきなり趣味全開で口を塞がなくてもいいのにー」
「アホなこと言ってるな、暴走娘。あのままだと、無駄に面倒なことを言っただろ」
「……うぅ」
「あいつは腐っても新聞部なんだ。変な記事を載せられても困るだろ」
新聞部は定期的に壁新聞を発行し、校内の掲示板へ貼り出している。
だが、それだけではなく、学校公認のコミュニティページにも専用のスペースがあり、そこにも記事を載せていた。
今どきらしく、壁新聞よりもそちらのほうが更新頻度は高い。壁新聞は半ば趣味なのではないかと感じるほどだ。
……高校の部活動なのだから、それでもいいのかもしれない。
「まあ、あいつの場合は、菫に不利な記事なんて書かないだろうけどな」
「そうなの?」
「……」
なんとなく察した。
だから、桐生先輩にあれほど辛辣なのか。瀬那も「あぁ……」と察したような顔をしている。
「あと、あいつを含めた新聞部の一部が、東條に少し対抗意識を持っているんだよ」
「……はい?」
新聞部と何か一悶着を起こした記憶はない。
以前、ゴシップ記事のようなものを載せられたことはあるが、抗議しに行った覚えもない。
その記事も気づけば消えていたので、すっかり忘れていた。
対抗意識を持たれるとしたら……瀬那は関係ないよな。
俺は瀬那のほうを見て、首を傾げる。瀬那も、そんな俺を見て同じように首を傾げた。
……そういうことではないぞ。
「分かっていないみたいだな。図書委員のブックガイドが中央図書館に展示されているだろ?」
「ええ。司書つながりでお願いされたって言っていましたね」
「それだよ。それで、『新聞部を出し抜いて、よくも!』って感じらしい。要するに、勝手にライバル視されているんだ」
「……畑違いではないですかね、それ」
実際、高校生が作った新聞が図書館で展示されることはあるらしい。
ただ、校内のローカルネタが中心の記事では、まず難しいだろう。
地域密着型の歴史資料だったり、高校新聞コンクールのようなもので入賞したりすれば、可能性はあるかもしれないが。
それに、あのブックガイドは、要するに書籍の紹介冊子だ。
高校生が少し凝ったものを作ったのが珍しく、本離れが進む今、少しでも本に興味を持ってもらえればという趣旨にも合っていたから、展示してもらえたのだと思う。
あとは司書つながりで、たまたま目に留まっただけでもある。
「奴らの代ではないのだが、新聞部の新聞が展示されたことがあったらしい。だから、中央図書館のような大きな図書館へ展示されることを、一つの目標にしているらしいな」
「内容の方向性を、もう少し考えたほうがいいのにねー。あの内容じゃ無理だって、ボクでも分かるよー」
柊先輩が意外にも真っ当なことを言っている。
俺は彼らの新聞をまともに読んだことはないが、柊先輩がそう言うのなら、校内のローカルネタが中心なのだろう。
「図書委員で作ったもので、俺だけが作ったわけじゃないんですけどね」
「そうらしいな。だけど、あいつらにとっては、お前が一番絡みやすいんじゃないかな。一年生で後輩だし、目立っているし、それに……」
「それに?」
「他の図書委員に言うと、泣かれそうで怖いって」
どういう基準だ、それは。
俺も泣けばいいのか?
いや、俺が泣いたところで、面白がられる未来しか見えない。
「まあ、そんなことはいいだろ」
「尊が言い始めたんじゃないかー」
柊先輩が、ブーブーと文句を言っている。
登校してきた生徒たちも、何があったのか気にし始めていた。そろそろ注目を集めつつあるし、行ったほうがよさそうだ。
「俺たちは行きますね。……それと、ありがとうございました」
「なにがー?」
あえて俺は答えず、瀬那と二人で会釈して踵を返した。
歩き出す直前、柊先輩が少しだけ照れたように視線を逸らしたのが見えた。
思わず、口元が緩みそうになるのをこらえた。
……あの人も、照れるんだな。




