第147話 噂と前に進むための一歩①
「東條。お前、中学のとき、いじめられてたんだってな」
出会い頭に放たれた一葉虎真の言葉には、俺の心臓を貫くような鋭さがあった。
だが、瀬那が隣にいる。
俺の過去を知ってもなお、今も一緒にいてくれる彼女がいる限り――
(……大丈夫だ)
もう一度、彼女とつないだ手に力を込め、小さく息を吸う。
揺れるのは仕方ない。だが、こんなどうでもいい相手の言葉にまで、心を乱される必要はない。
(……大丈夫。まだ、大丈夫だ)
腹を決めたとき、瀬那が一歩前へ出ようとしたのが、つないだ手から伝わってきた。俺はその手を軽く引き、彼女を制する。
瀬那がこちらを見るが、俺は彼女に軽くうなずいてから、虎真先輩へ答えた。
「確かに、そういうこともありましたね。それが何か?」
「……そのピアス、もういじめられないために、威嚇用につけてるんだろ?」
「威嚇するためにつけたわけではありませんが……これを見て勝手に距離を取ってくれるなら、俺としても都合がいいです。余計な面倒は増やしたくないので」
本心だ。
本当の理由を知られるくらいなら、粋がっていると思われても構わない。どうでもいい赤の他人が、俺をどう思おうと関係ない。
俺を理解してくれる人が、すぐ隣にいるのだから。
「……お前、馬鹿にしているのか?」
「今の言葉のどこに、先輩を馬鹿にする内容があったんですか? それで、その話が事実だったとして、先輩はどうしたいんです? ぶっちゃけ、関係ないですよね?」
「そういう態度が、ムカつくんだよ!」
怒鳴るなり、虎真先輩が俺へ手を伸ばしてきた。その手の先にあるのは、俺の左耳のピアスだ。何がしたいのかは分からないが――
バシッ!
――伸ばされた手を、俺は叩き払った。後ろで、瀬那が小さく息を呑む音がした。
これは俺にとって大切なものだ。勝手に触れられるなんて、気持ち悪い。
「てめぇ!」
「……いい加減、うざいんですよ、先輩。何を考えているかは想像できますが、もう俺たちに関わるのをやめてくれませんか。……不快です」
「……っ! 瀬那ちゃん、知らなかっただろ! こいつがいじめられてたって! 情けないと思わないのかい!?」
一瞬、頭の奥が冷えるような感覚があった。だが、顔には出さない。
俺の弱点を突いたつもりなのか、逆鱗に触れたつもりなのかは知らない。俺が取り乱さないのが気に入らないらしく、今度は瀬那へ標的を変えたようだ。
だが、それこそ意味がない。
「以前から知っています。ですが、それで朔也くんへの評価が下がることはありません。むしろ、そこから立ち上がった朔也くんを、私は尊敬しています。――それと、名前で呼ばないでください。何度も申し上げていますよね」
「……くっ! そんなことはないだろ!」
虎真先輩が、今度は瀬那の肩をつかもうと手を伸ばした。
俺はすぐに二人の間へ入り、それを防ぐ。
背後へ隠れた瀬那が、俺の服の裾をつかんだ。背中越しに伝わる震えが、虎真先輩の異常さを何より雄弁に物語っていた。
以前から執拗に瀬那へ絡んできていたが、今日はいつにも増して強引だ。そこには、鬼気迫るものさえ感じられた。
「先輩、今度はセクハラですか?」
「そ、そんなつもりじゃない!」
空気が張り詰め、誰かが息を呑む音さえ聞こえそうになった、そのときだった。
「あなたたち、そこで何をしているの!」
現れたのは、二階堂先輩だった。
腕には、一目でそれと分かる『風紀委員』の腕章をつけている。
「……真紀」
「虎真。あんた、またその二人に絡んでいるの……いい加減にしなさい」
「お前に言われる筋合いはない!」
「これでも風紀委員よ。知らないわけじゃないでしょう」
二階堂先輩と虎真先輩が、鋭くにらみ合う。
二階堂先輩は龍真と仲がいいのだから、兄である虎真先輩とも以前からの知り合いなのだろう。
「虎真。放課後、風紀委員室に来なさい。今の件について話を聞くわ」
「……ちっ!」
舌打ちをした虎真先輩は、そのまま踵を返した。
二階堂先輩は「……ふぅ」と息を吐いたあと、周囲を見渡す。
「はい、みんな、終わったから野次馬はおしまい! さっさと登校する!」
パン、パン!
手を叩きながら、周囲にいた生徒たちへ登校を促した。それから俺たちのほうへ振り向くと、苦笑を浮かべる。
「ありがとうございます、二階堂先輩。助かりました」
「ありがとうございます」
俺と瀬那は、そろって頭を下げた。
あのままだったら、まだしばらく騒動は続いていただろう。
「お礼はいいわ。私の仕事だからね。それにしても、あなたたちも大変ね……。本当、あいつは変わらないんだから」
先輩が漏らした「変わらない」という言葉。
それは、聞き流してはいけないような気がした。
「それは、どういう意味ですか?」
「……あいつ、昔からモテていたし、それに見合うものも持っていたのよ。容姿もそうだけど、勉強もできた。だから、自分を好きにならないはずがないって、本気で思っているの」
「……それは、なんとなく分かりますね」
自信を持つこと自体は、もちろん悪いことではない。
ただ、それを保つために、周囲へ自分の考えを押しつけるのは違う。今のあいつは、まさにその状態にしか見えなかった。
『瀬那ちゃんが俺を好きにならないはずがない』
そんな考えを、本気で信じているのだろう。
「中学の頃からああでね。何度か一悶着あったのよ。あそこまで誰かに執着するのは、私も初めて見たけど」
「……先輩から見ても、異常なのですね」
「?」
瀬那の問いには、何かを確認するような響きがあった。
はっきりと分かるほどではない。
だが、いつも一緒にいる俺だからこそ気づける程度の、ほんのわずかな違和感。
「そうね。少なくとも、普通ではないと思うわ。……最近、アレの立場が悪くなっているのよ……だから、焦っているのかもね」
たび重なる俺たちへの不快な行動は、周囲の生徒にも知られているのだろう。
瀬那への告白だけならともかく、その後の粘着や文化祭での行動まで見れば、距離を置かれるのも当然だ。
「……」
「まあ、また何かあったら私に言いなさい。風紀委員として、きちんと対応するから」
「ありがとうございます」
そのあと、すぐに連絡が取れるよう、俺と瀬那は二階堂先輩と連絡先を交換した。
正直、この件について味方が増えたのは助かる。
「……気分を悪くしないでほしいのだけど、訊きたいことがあるわ。いいかしら?」
「聞かないと分かりませんが……なんでしょう?」
二階堂先輩は、瀬那へちらりと視線を向けた。
瀬那はその意図を察したのか、少しだけ俺たちから離れる。
「あなたのピアスのことについてなんだけど……」
二階堂先輩は少し身を乗り出し、周囲を行き交う生徒や瀬那にも聞こえないほどの小声で尋ねてきた。
「そういうことですか。瀬那はピアスの事情を知っているので、大丈夫ですよ」
「そう。それはよかったわ。……このことと関係しているのでしょう?」
先輩の言う『このこと』とは、『いじめ』のことだろう。
この学校で、俺のピアスの本当の意味を知っている生徒は少ない。いや、少ないというより、瀬那を除けば二階堂先輩しかいない。
精神を安定させるためのルーティンが一切広まっていないということは、先輩は約束を守り、誰にも話していないのだろう。
……だから、俺はこの人を信用している。
「はい、そうです」
「やっぱりそうなのね。……ごめんなさい。ただ、確認しておきたかっただけ。他意はないわ。もちろん、このことを誰かに言うつもりもないから、安心して」
「いえ、気にしないでください。先輩は事情をある程度知っているので、そことつながってもおかしくないですから」
「そう。南雲さんも事情を知ったうえで付き合っているなら、あなたにとって良い縁なのだと思うわ」
そう言った二階堂先輩は、一度瀬那を見てから、
「じゃあ、私は行くわ」
と、校舎のほうへ歩いていった。
野次馬もいなくなり、廊下にはいつもの喧騒が戻りつつあった。
それを見送ったあと、瀬那が俺の隣へ戻ってくる。
「……大丈夫ですか?」
「うん? あぁ、大丈夫だよ。前に言っただろ。二階堂先輩は俺の精神の不安定を知っているから、気にしてくれただけだよ」
「そのようですね」
「……それで、さっき二階堂先輩に確認していたのは、どういう意図だ?」
当然、気になったことは聞いておきたい。
瀬那の勘は、よく当たる。だから聞かなければならない。
「……いえ、大したことではないのです」
「その言い方だと、逆に大したことの可能性が高いと思う。だから、聞いておいたほうがいいかな」
「久しぶりに、朔也くんの『最悪』を想定する癖が出てきましたね」
しばらく、こういう話はしていなかった気がするが、よく俺の思考の癖を覚えていたな。
「こら、茶化すな。今はそんなときじゃないだろ」
「ごめんなさい。……本当にはっきりとではないのですが、同じだったのです」
「同じ?」
「はい。……あのストーカーと同じ目をしていました」
やっぱり、大したことだった。
瀬那がそう感じたのなら、虎真先輩がこれで引き下がるとは思わないほうがいい。
下手したら、あいつはもう、ただの面倒な先輩ってだけではない。




