第137話 文化祭:二日目⑦
Side:南雲 瀬那
朔也くんに手を引かれ、私たちは軽音部のライブ会場へと向かいました。
途中、朔也くんに声をかけますが、いつもの顔で返してくれました。それには安心しますが、何かわだかまりのようなものを感じます。……カンですが。
「……てなことがあってさ」
「あぁ、それな。アホらしいよな」
「でもさ、それって目立つ……」
喧騒の中、文化祭なので色々な方が校舎内で歩いています。私たちは言葉少なめにゆっくりと歩いています。無言の時間が続いてもいつもは苦ではありませんが、今は少しだけ違います。朔也くんがいつもより周りを気にしているようなのが心配です。
(鳴鷹さん以外にもいないか心配なのでしょうか?)
それに、私の手を繋ぐ力がいつもより弱い……それが、少し嫌な感じです。
そんなことを考えながら、ライブ会場である講堂の入り口まで来ました。歩いて行くうちに朔也くんも落ち着いてきたように感じて少し安心です。
そして、入り口で受付をした時でした。
「あ、昨日の人ですよね? 五階から落ちたっていう」
私たちを呼び止めたのは来場者のカップルでした。
「隣の彼女さんもいましたわね。あんなことできるなんて、すごいですね、色々と噂になってましたよ」
「あ……いや……、いえ、たいしたことはしていないです」
朔也くんの返事に、私はほんの少しだけ違和感を覚えました。
いつもの朔也くんなら、こういう時はもう少し雑に流します。
照れ隠しのように「大したことないですよ」と言うことはあっても、ここまで丁寧に言葉を選ぶことはあまりありません。
それに、繋いでいた手の力がほんの少しだけさらに弱くなりました。
「いやいや、普通は五階から落ちて無事では済みませんよ。彼女さんも怖かったでしょう?」
「……はい。とても怖かったです」
そう答えると、朔也くんの肩がわずかに揺れました。
しまった、と思ったのでしょうか。
怖がらせてしまったと、また自分を責めたのでしょうか。
私はすぐに言葉を続けようとしました。
「ですが、朔也くんは――」
「昨日は騒がせてすみません」
私の言葉を遮るように、朔也くんが頭を下げました。
その姿に、胸の奥がちくりと痛みます。
悪いことをしたわけではありません。
むしろ、朔也くんはあの子を助けたのです。
それなのに、どうしてそんなふうに謝るのでしょうか。
朔也くんの唇が、一瞬だけ違う形を作りかけたのがわかりました。
「南……瀬那は関係ないので、変な噂はしないでもらえると助かります」
その一言で、胸の痛みが少しだけ強くなりました。
『南雲』、と。今、朔也くんはそう言いかけました。
人前だから。私を守ろうとしてくれているから。変な噂に巻き込まれないように、距離を取ろうとしてくれたのでしょう。
わかります。
朔也くんが私を大切に思ってくれていることは、ちゃんとわかっています。
けれど、今の朔也くんは、私の隣に立っているというより、私を周囲から遠ざけようとしているように見えました。
「あ、すみません。そういうつもりでは……」
「ごめんなさいね。私たちも驚いただけなの。悪い噂というより、すごい人がいたって話だったのよ」
女性の方が慌てたように手を振りました。
隣の男性も、困ったように笑っています。
「そうですか。なら、よかったです」
「はい。本当に。あの子も無事だったみたいですし」
「……それなら、よかったです」
朔也くんは笑いました。
いつもの笑い方に見えました。けれど、私には少しだけ違って見えます。誰かに迷惑をかけないように。私が悪く見られないように。自分の感情を押し込めて、無難な形に整えたような笑顔。それは、とても朔也くんらしくて。
――だからこそ、見ていて苦しくなりました。
「それでは、失礼します」
「あ、はい。ライブ楽しんでくださいね」
「ありがとうございます」
朔也くんはもう一度、軽く頭を下げて私の手を引きました。
いつもより、少しだけ控えめな力です。講堂の中へ入ると、軽音部の演奏を待つ人たちのざわめきが耳に届きました。
ステージの方では、部員らしき生徒たちが楽器の確認をしています。明るくて、賑やかで、文化祭らしい空気でした。
なのに、私の心は少しだけ晴れません。
「……朔也くん」
「ん?」
「先ほどの方たちは、悪い意味で言ったわけではないと思いますよ」
朔也くんは、少しだけ視線を逸らしました。
「あぁ、わかってる」
「では、どうして謝ったのですか?」
「……一応だよ。こういうのは、変に広がる前に謝っておいた方がいいだろ」
それは、間違ってはいないのかもしれません。いつもの朔也くんらしい、対応だったのかもしれません。
――でも、正しいとも思えませんでした。
「私は、噂に巻き込まれても構いません」
「俺が構うんだよ」
即答でした。
その言葉は嬉しいはずなのに、素直に喜べません。
だって、朔也くんの声は優しいのに、どこか苦しそうだったから。
「……私を守ろうとしてくれているのは、わかります」
「なら――」
「でも、私を遠ざけることが守ることだとは思いません」
朔也くんが、わずかに息を呑みました。言い過ぎたでしょうか。
そう思って、少しだけ指に力を込めます。
離れたくない。
そう伝えるために。
朔也くんは、私の手を見下ろしました。
それから、困ったように眉を下げます。
「……悪い。そんなつもりじゃなかった」
「はい。わかっています」
本当に、わかっています。
わかっているからこそ、悲しいのです。
朔也くんは私を守ろうとしてくれています。
でも今の朔也くんは、私を守るために、自分自身を少しずつ削ろうとしているように見えました。
それは、嫌です。
私は朔也くんに守ってほしいのではありません。
もちろん、守ってくれることは嬉しいです。
けれど、それ以上に――隣にいたいのです。
同じ場所に立って、同じものを見て、同じように笑いたい。
「……瀬那?」
「いえ。何でもありません」
今ここで言っても、朔也くんはきっと「気にしすぎだ」と言うでしょう。あるいは、「俺の問題だ」と言うかもしれませんね。
だから、今はまだ言いません。
ただ、繋いだ手だけは離さないように。少しだけ強く、握り直しました。




