第129話 文化祭:一日目⑥
Side:南雲 瀬那
――一瞬でした。
本当に風が吹いただけだと、そう感じるぐらいの一瞬です。
目の前の朔也くんが私の後ろを凝視していると思ったら、いつもより目を見開いた瞬間に、私の視界から彼は消えていました。
速い、なんて言葉では足りませんでした。気づいた時には、もうそこにいない。まるで、彼だけが違う時間を走っているみたいでした。
彼が私の横を通り抜け、後ろへ飛ぶように駆け出したのだと気づいたのは、数秒にも満たない時間でした。
振り返った頃には、彼はすでに柵へ、あと数歩のところまで辿り着いていたのです。
その奥には、腰壁に足をかけ、柵の向こうへ手を伸ばしている――子ども!?
「危ないっ!」
咄嗟に出たその言葉と同時に、男の子の体が前に――柵の向こう側へと落ちます。
「きゃー!」
近くにいた母親らしき女性の悲鳴と同時に、朔也くんは柵へと辿り着きました。
けれど、ほんのわずかに間に合わない。
それでも彼は何も躊躇しませんでした。
身を乗り出し、柵の向こうへ落ちた男の子の体を、朔也くんの手が掴んだのです。
(間に合った)
そう思ったのも束の間、男の子の重さに引かれるように、彼の体まで柵の外へ――
(落ち……た……)
頭の中が真っ白になり、急激に血の気が引いていく。
心臓が嫌な音を立てて跳ね、膝からすべての力が抜け落ちてしまった。
私は冷たい廊下の床に、そのままへたり込んでしまう。
「落ちた!」
「誰か先生呼んで!」
近くで誰かが、そんな信じたくない、認めたくない言葉を口にしていました。
だけど、今の私にはその声を受け止める余裕すらなくて。
「う、嘘……でしょ……?」
そんなはずがない。
あの朔也くんが、私の大好きな人が、こんなところでいなくなるはずがない。
「朔也ー!」
呆然と口から漏れた言葉とほぼ同時に、森田さんが朔也くんを呼ぶ声が聞こえました。
その声で、我に返る。
立ち上がって柵へ向かおうとして――でも、見たくないと思ってしまう。
「和人か!? 受け取ってくれ!」
森田さんの声に反応して、彼の……朔也くんの声が聞こえました。
「朔也くんっ!」
その瞬間、私は無意識に駆け出していました。
森田さんが柵の外側をのぞき込んだと思った次の瞬間、下から男の子の体が押し上げられます。
森田さんはそれを、しっかりと抱きかかえました。
「さ、朔也くん!」
子どもが無事なら、彼も……朔也くんも大丈夫なはず。
そう信じるように柵へ近づき、外を覗き込むと、朔也くんは建物についている雨樋を掴み、宙に浮いていました。
ゆらゆらと揺れていますが、生きています。
「……よかった」
……でも、嫌な予感がしました。
安堵したばかりの心を、誰かに冷たい手で掴まれたような感覚でした。
「まだだ!」
私の安堵の言葉とほぼ同時に、森田さんが叫びました。
彼に振り返った、その時。
ギギギ……
嫌な音と共に、朔也くんが掴んでいる雨樋が外れ――彼がもう一度落ちました。
「朔也くん!」
「……今度こそ、終わったな」
――その声が、鼓膜に届いた瞬間。
私の頭の中で、何かが音を立てて切れた。
気がついた時には、身体が勝手に動いていました。
パンッ!
声のした方へ鋭く振り向くと同時に、私は全力で右手を振り抜きます。
激しく乾いた衝撃音が、騒がしい廊下の喧騒を切り裂きました。
先輩の顔が大きく横にのけぞります。
けれど、自分でも驚くほど、そこに迷いはありませんでした。
躊躇すら、存在しなかった。
後悔は全くありませんでした。
ただ、朔也くんを失うかもしれない恐怖に比べれば、何もかもが小さすぎたのです。
「あ……」
叩かれた頬を呆然と押さえ座り込む先輩を冷たく見下ろしながら、私の手のひらは、じりじりと焼けるように熱を持っていました。
「……南雲さん」
森田さんの声で、我に返ります。
手のひらが、じんわりと熱い。
「そいつは叩く価値もないよ。それよりも、朔也のところに行こう」
その言葉に、私は頷くことしかできませんでした。
◇◇◇◇◇
Side:東條 朔也
保健室の丸椅子に座らされ、俺は友利先生に肩や腕の状態を診てもらっていた。
隣には三波先生が立っている。こちらを見下ろす表情は、いつもの穏やかなものではない。
そして、俺の右側には瀬那がいた。
正確には、いた、というより離れてくれない。
合流してからずっと、俺の制服の裾を握ったまま、少しも離れてくれない。しかも、さっきから一言も喋らないのが、逆に怖かった。
「うーん、ここは痛くない? 大丈夫?」
「はい、大丈夫ですね」
友利先生が触れている肩や腕に、怪我というほどの痛みはない。
少し突っ張る感じはするが、まあ許容範囲だろう。
「……キミ、五階から落ちたのよね」
「正確には、一階分を四回ぐらいですかね」
「そういう問題じゃないわよ」
子供を掴んで和人に渡した後、俺は再度落ちたわけだが、五階からそのまま落ちたわけではない。
さすがに俺も五階からそのまま落ちたら死ぬとは思う。……試したことはないけど。
◇
― 十数分前 ―
雨樋が外れた瞬間、思考は妙に冷えていた。
(ここは五階だ。まともに落ちたら、ただでは済まない)
建物の外壁には、減速に使えそうな出っ張りがいくつか見えた。
空調の室外機、窓の庇、別の雨樋。
成功する保証はない。
手を伸ばす位置が少しずれただけで終わる。
それでも、そのまま落ちるよりはずっとましだった。
(あとは、体がついてくるかどうかだ)
落下の中、ぎりぎり手が届く位置にあった室外機へ腕を伸ばす。
指がかかった瞬間、肩から腕にかけて衝撃が走った。
止まれない。
けれど、速度は落ちた。
庇を蹴り、体を壁側へ押しつける。
手が外れる。もう一度、落ちる。
完全に制止はできなくても、構わない。
少しでも減速させながら落ちればいいのだから。
雨樋、窓の庇……次々に手がかりになりそうな場所を掴み、滑り落ちる。
最後に地面に着いた時は膝に衝撃はあったが、立っていられた。
何度も擦れた指先からは血が出ていたが、こちらもそのまま落ちることに比べれば、大したことはない。
「……なんとか、なったか」
左耳のピアスに、無意識に指が触れていた。
自分の無事を確認した後、瀬那と和人がいるはずの上を向くと、柵の向こうから瀬那と目が合って安堵する。
俺が大丈夫だとわかるように手を上げて知らせた。
(また、泣かせてしまったな)
直後、急に後ろに振り返った彼女と共に、パァン! と高い音が聞こえた。
「なんだ?」
俺はその理由を知るのは少し後のことだった。
◇
― 現在 ―
「まあ、そんな感じですね。なので、高くても一階分ぐらいからの落下なので、大したことはないですよ」
「……ナイフの時も思ったけど、キミは人間かな」
「……最近、自分でもわからなくなってきました」
「何を言っているんですか、二人とも……」
三波先生が呆れたようにため息をつく。
その横で、瀬那の指に力が入った。
「大したこと、ありました」
「瀬那?」
「落ちたんです。目の前で。……大丈夫だとわかっていても、怖かったんです」
小さな声だった。
責めるような声ではない。けれど、その一言で俺は何も返せなくなる。
「……悪い」
「謝るなら、もう少し自分を大事にしてください」
そう言ってから、瀬那はまた俺の胸に額を押しつけた。
「ふふ、愛されているわね。とりあえず、手の怪我の消毒をしましょうか」
「お願いします」
俺は両手を先生に出して治療をお願いした。
「それと……そろそろ南雲さんは離れようか」
「……嫌です」
友利先生に体を診てもらった後、瀬那は横から俺の体を抱きしめていた。その力入れ具合は「もう放しません」という意思が良く伝わってくる。
「うーん、やりづらいけど……まあ、いいか」
「まあ、いいかって……」
「目の前で彼氏が落ちたんだもの。仕方ないわよ」
「相変わらず、柔軟性が高いですね」
「でしょー」
少し胸を張って自慢げに言う、友利先生。
さっきとは違い呆れた顔になっている、三波先生。
そして、まだ怒っているのか拗ねているのかわからない、瀬那。
うーん、若干カオスな空間だ。
「うーん、俺はお邪魔だったかな?」
苦笑いして一部始終を見ていた和人に、俺は目で「助けてくれ」と訴えた。
だが、和人は俺の視線を受け取ると、爽やかな笑顔で親指を立てるだけだった。
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