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学年一の才女を拾ったら癒されました  作者: PPHiT
第三章

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第129話 文化祭:一日目⑥

 Side:南雲 瀬那


 ――一瞬でした。

 本当に風が吹いただけだと、そう感じるぐらいの一瞬です。


 目の前の朔也くんが私の後ろを凝視していると思ったら、いつもより目を見開いた瞬間に、私の視界から彼は消えていました。

 速い、なんて言葉では足りませんでした。気づいた時には、もうそこにいない。まるで、彼だけが違う時間を走っているみたいでした。


 彼が私の横を通り抜け、後ろへ飛ぶように駆け出したのだと気づいたのは、数秒にも満たない時間でした。

 振り返った頃には、彼はすでに柵へ、あと数歩のところまで辿り着いていたのです。

 その奥には、腰壁に足をかけ、柵の向こうへ手を伸ばしている――子ども!?


「危ないっ!」


 咄嗟に出たその言葉と同時に、男の子の体が前に――柵の向こう側へと落ちます。


「きゃー!」


 近くにいた母親らしき女性の悲鳴と同時に、朔也くんは柵へと辿り着きました。

 けれど、ほんのわずかに間に合わない。


 それでも彼は何も躊躇しませんでした。

 身を乗り出し、柵の向こうへ落ちた男の子の体を、朔也くんの手が掴んだのです。


(間に合った)


 そう思ったのも束の間、男の子の重さに引かれるように、彼の体まで柵の外へ――


(落ち……た……)


 頭の中が真っ白になり、急激に血の気が引いていく。

 心臓が嫌な音を立てて跳ね、膝からすべての力が抜け落ちてしまった。


 私は冷たい廊下の床に、そのままへたり込んでしまう。


「落ちた!」

「誰か先生呼んで!」


 近くで誰かが、そんな信じたくない、認めたくない言葉を口にしていました。

 だけど、今の私にはその声を受け止める余裕すらなくて。


「う、嘘……でしょ……?」


 そんなはずがない。

 あの朔也くんが、私の大好きな人が、こんなところでいなくなるはずがない。


「朔也ー!」


 呆然と口から漏れた言葉とほぼ同時に、森田さんが朔也くんを呼ぶ声が聞こえました。


 その声で、我に返る。

 立ち上がって柵へ向かおうとして――でも、見たくないと思ってしまう。


「和人か!? 受け取ってくれ!」


 森田さんの声に反応して、彼の……朔也くんの声が聞こえました。


「朔也くんっ!」


 その瞬間、私は無意識に駆け出していました。


 森田さんが柵の外側をのぞき込んだと思った次の瞬間、下から男の子の体が押し上げられます。

 森田さんはそれを、しっかりと抱きかかえました。


「さ、朔也くん!」


 子どもが無事なら、彼も……朔也くんも大丈夫なはず。


 そう信じるように柵へ近づき、外を覗き込むと、朔也くんは建物についている雨樋(あまどい)を掴み、宙に浮いていました。

 ゆらゆらと揺れていますが、生きています。

 

「……よかった」


 ……でも、嫌な予感がしました。

 安堵したばかりの心を、誰かに冷たい手で掴まれたような感覚でした。


「まだだ!」


 私の安堵の言葉とほぼ同時に、森田さんが叫びました。

 彼に振り返った、その時。


 ギギギ……


 嫌な音と共に、朔也くんが掴んでいる雨樋が外れ――彼がもう一度落ちました。


「朔也くん!」

「……今度こそ、終わったな」


 ――その声が、鼓膜に届いた瞬間。


 私の頭の中で、何かが音を立てて切れた。

 気がついた時には、身体が勝手に動いていました。


 パンッ!


 声のした方へ鋭く振り向くと同時に、私は全力で右手を振り抜きます。

 激しく乾いた衝撃音が、騒がしい廊下の喧騒を切り裂きました。


 先輩の顔が大きく横にのけぞります。


 けれど、自分でも驚くほど、そこに迷いはありませんでした。

 躊躇すら、存在しなかった。


 後悔は全くありませんでした。

 ただ、朔也くんを失うかもしれない恐怖に比べれば、何もかもが小さすぎたのです。


「あ……」


 叩かれた頬を呆然と押さえ座り込む先輩を冷たく見下ろしながら、私の手のひらは、じりじりと焼けるように熱を持っていました。


「……南雲さん」


 森田さんの声で、我に返ります。

 手のひらが、じんわりと熱い。


「そいつは叩く価値もないよ。それよりも、朔也のところに行こう」


 その言葉に、私は頷くことしかできませんでした。


 ◇◇◇◇◇


 Side:東條 朔也


 保健室の丸椅子に座らされ、俺は友利先生に肩や腕の状態を診てもらっていた。


 隣には三波先生が立っている。こちらを見下ろす表情は、いつもの穏やかなものではない。

 そして、俺の右側には瀬那がいた。


 正確には、いた、というより離れてくれない。

 合流してからずっと、俺の制服の裾を握ったまま、少しも離れてくれない。しかも、さっきから一言も喋らないのが、逆に怖かった。


「うーん、ここは痛くない? 大丈夫?」

「はい、大丈夫ですね」


 友利先生が触れている肩や腕に、怪我というほどの痛みはない。

 少し突っ張る感じはするが、まあ許容範囲だろう。


「……キミ、五階から落ちたのよね」

「正確には、一階分を四回ぐらいですかね」

「そういう問題じゃないわよ」


 子供を掴んで和人に渡した後、俺は再度落ちたわけだが、五階からそのまま落ちたわけではない。

 さすがに俺も五階からそのまま落ちたら死ぬとは思う。……試したことはないけど。


 ◇


 ― 十数分前 ―


 雨樋が外れた瞬間、思考は妙に冷えていた。


(ここは五階だ。まともに落ちたら、ただでは済まない)


 建物の外壁には、減速に使えそうな出っ張りがいくつか見えた。

 空調の室外機、窓の庇、別の雨樋。


 成功する保証はない。

 手を伸ばす位置が少しずれただけで終わる。

 それでも、そのまま落ちるよりはずっとましだった。


(あとは、体がついてくるかどうかだ)


 落下の中、ぎりぎり手が届く位置にあった室外機へ腕を伸ばす。

 指がかかった瞬間、肩から腕にかけて衝撃が走った。


 止まれない。

 けれど、速度は落ちた。


 庇を蹴り、体を壁側へ押しつける。

 手が外れる。もう一度、落ちる。


 完全に制止はできなくても、構わない。

 少しでも減速させながら落ちればいいのだから。


 雨樋、窓の庇……次々に手がかりになりそうな場所を掴み、滑り落ちる。


 最後に地面に着いた時は膝に衝撃はあったが、立っていられた。

 何度も擦れた指先からは血が出ていたが、こちらもそのまま落ちることに比べれば、大したことはない。


「……なんとか、なったか」


 左耳のピアスに、無意識に指が触れていた。

 自分の無事を確認した後、瀬那と和人がいるはずの上を向くと、柵の向こうから瀬那と目が合って安堵する。

 俺が大丈夫だとわかるように手を上げて知らせた。


(また、泣かせてしまったな)


 直後、急に後ろに振り返った彼女と共に、パァン! と高い音が聞こえた。


「なんだ?」


 俺はその理由を知るのは少し後のことだった。


 ◇


 ― 現在 ―


「まあ、そんな感じですね。なので、高くても一階分ぐらいからの落下なので、大したことはないですよ」

「……ナイフの時も思ったけど、キミは人間かな」

「……最近、自分でもわからなくなってきました」

「何を言っているんですか、二人とも……」


 三波先生が呆れたようにため息をつく。

 その横で、瀬那の指に力が入った。


「大したこと、ありました」

「瀬那?」

「落ちたんです。目の前で。……大丈夫だとわかっていても、怖かったんです」


 小さな声だった。

 責めるような声ではない。けれど、その一言で俺は何も返せなくなる。


「……悪い」

「謝るなら、もう少し自分を大事にしてください」


 そう言ってから、瀬那はまた俺の胸に額を押しつけた。


「ふふ、愛されているわね。とりあえず、手の怪我の消毒をしましょうか」

「お願いします」


 俺は両手を先生に出して治療をお願いした。


「それと……そろそろ南雲さんは離れようか」

「……嫌です」


 友利先生に体を診てもらった後、瀬那は横から俺の体を抱きしめていた。その力入れ具合は「もう放しません」という意思が良く伝わってくる。


「うーん、やりづらいけど……まあ、いいか」

「まあ、いいかって……」

「目の前で彼氏が落ちたんだもの。仕方ないわよ」

「相変わらず、柔軟性が高いですね」

「でしょー」


 少し胸を張って自慢げに言う、友利先生。

 さっきとは違い呆れた顔になっている、三波先生。

 そして、まだ怒っているのか拗ねているのかわからない、瀬那。

 うーん、若干カオスな空間だ。


「うーん、俺はお邪魔だったかな?」


 苦笑いして一部始終を見ていた和人に、俺は目で「助けてくれ」と訴えた。

 だが、和人は俺の視線を受け取ると、爽やかな笑顔で親指を立てるだけだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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