第14話 信頼の証
帰宅した俺は、まず夕食の準備に取りかかった。
南雲がバイトに行っている間に、下ごしらえのほとんどは済ませてある。あとは仕上げだ。
その間に、買ってきた寝具や日用品を南雲に確認してもらった。
彼女が使うことになる部屋にまとめて置いてある。
「……部屋、少し片付けておいたから。自由に使ってくれ」
「ありがとうございます。……あ、本当だ。本棚が移動してる」
俺の私物で溢れていた部屋も、ある程度整理した。
ほぼ毎日使うPCは自室へ。入り切らなかった本棚のいくつかは、作業部屋へ移動させた。
彼女を「居候」ではなく、一人の「同居人」として迎えるための、俺なりの準備だ。
今日の献立は、簡単に温野菜と冷しゃぶ。それに作り置きの総菜を二品。
湯気の上がる炊き立てのごはんをよそい、南雲と向かい合わせで席に着く。
「いただきます」
「いただきます」
合わせた手のひらの隙間から、だしとポン酢の香りがふわりと鼻を抜けた。
南雲は一口食べると、ぱっと表情を明るくした。
「美味しいです。昨夜もそうでしたが、東條さんって本当に料理が上手ですよね」
「……実家でも、ほとんど毎日作ってたからな。強制的にできるようになっただけだ」
少なくとも、自分で食う分には困らない。
母は仕事で帰りが遅く、姉もあまり家にいなかったから、俺が台所に立つのが自然な流れだった。
当時は面倒だと思っていたが、こうして一人立ちする際の勉強になったと思えば、悪くない。
食事の途中、昼に後回しにしていたことを切り出すことにした。
先延ばしにしても仕方ないし、説明の筋は自分の中で決めてある。
――とはいえ、これはストレートに言うしかないだろう。
「昼のことだけど。家賃がないって話」
「はい。……正直、気になっていました」
「単純な話だ。この家、賃貸じゃない。俺が買ったんだ」
「買った……分譲マンションってことですか?」
「そう。賃貸は未成年の名義とか保証人の審査が面倒でさ。当時の俺の状況じゃ、親の協力も期待できなかった。だから、自分で買った。未成年だからローンも組めなかったから、現金一括だ」
「……えっ? 自分で? 高校生が、ですか?」
「ああ、自分で。買った当時は中学生だったけどな」
コンビニでおにぎりを買ったかのようなトーンで当たり前に告げると、南雲はそのままピタリと固まった。
数秒の沈黙。
彼女の優秀な頭の中で、中学生という年齢と、都内のマンション一括購入という数字、そして世間の常識が激しくショートして火花を散らしているのがわかる。
「……」
「……」
「…………えええっ!?」
ようやく彼女の口から出たのは、聞いたこともないような素っ頓狂な声だった。
学校では常に冷静沈着な彼女からは想像もつかないほど、琥珀色の目を丸くしている。今日の南雲は本当に表情がよく動いて面白い。
俺は金庫から出しておいた権利書のコピーを、テーブルに置いた。
「ほら。名義、ちゃんと俺の名前になってるだろ」
「……確かに、東條 朔也と書かれていますね」
「もちろん親の金じゃない。俺が自分で稼いだ金だ」
「……法律事務所の時も思いましたが、あまりにツッコミどころが多すぎます……っ!」
「大変だな」
「誰のせいですか! いったい誰の!」
珍しく声を荒らげた南雲を見て、俺は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
この子、こんな余裕のない声も出せるんだな……と、しみじみ思う。
「何か変なことを考えてますね」
「そんなことない」
「……まあ、いいです。お金の出どころは一旦置いておくとして、家賃がかかっていない理由は納得しました」
「あ、そこは深く追及しないんだな」
「気にならないと言えば嘘になります。でも……言わないでしょ?」
「うーん。正直、一緒に暮らしてたらバレると思うから、言うつもりだった」
「……バレる?」
南雲は首をかしげた。
各社からの通知や、PCやスマホでの資産管理。生活を共にすれば、否応なしに目に入る。
「細かい話は省くけど……資産運用をしてて、たまたまタイミングが良かった。それだけだ」
実際、高校を卒業するまでに、大学で一人暮らしする資金を貯めるつもりだった。
それが三年、前倒しになっただけだ。実力というより、運が良かったと思う。
「そういうことで、家賃って概念がない。だから出してもらわなくて大丈夫」
「分かりましたが……それでも、タダで置いてもらうのは私の気が済みません。材料費は私が多めに出すとか、料理担当を私にするとか……」
「バイトの日に帰ってから作るのは無理だろ。俺が申し訳なくなる。それに料理は俺もやりたい。……あと、材料費を多く出されると、買い出しの時に遠慮しちまうから嫌だ」
(……それじゃ、ただのヒモみたいじゃないか)
後半は心の中で毒づいたが、本音だ。
案の定、南雲は納得いかないという顔で唇を尖らせている。
「洗濯は任せることになるから、それでよくない?」
「洗濯機を回して干すだけなんて、大した手間じゃありません」
「……じゃあ、俺が苦手な掃除を任せていいか? 本当に、掃除だけは手が動かないんだ」
「掃除ですか」
「そう、掃除。俺、掃除が苦手なのよ」
「綺麗だと思いますけど?」
南雲は不思議そうにリビングを見渡した。
「引っ越したばかりなのと、この前、浩紀たちが来るからって無理やり片付けただけだ」
「なるほど」
まだ納得していない顔をしている。
本当なんだけどな。掃除だけは、なぜか手が動かない。
「本当に、水回り以外の掃除は全然だよ」
「……分かりました。これ以上言っても仕方なさそうなので、掃除を私が担当します。他にもできそうなことがあれば、また提案させてくださいね」
「ああ、助かる」
ようやく妥協点が見つかり、少しだけ肩の力が抜けた。
南雲が気にするのも分かるけど、俺としては、今まで一人でやっていたことを他人にやってもらうのは、少し気が引ける。
「あと、これ。……必要だろ」
俺はポケットから取り出した予備の鍵を、彼女の手のひらにそっと乗せた。
金属特有の冷たさが、彼女の体温を奪う。
「……いいのですか?」
「当たり前だ。同居するのに、いちいち俺が帰るのを待ってなきゃいけないんじゃ不便だろ」
南雲は宝物でも見るような手つきで、鍵を見つめている。
一拍置いて、彼女が顔を上げた。
「……ありがとうございます、東條さん」
真っ直ぐな微笑みに、心臓が僅かに跳ねる。俺は気まずさをごまかすように視線を逸らし、空になった食器を持って台所へ向かった。
◇
食事を終えた俺たちは、順番に風呂に入る。
入る順番を決めるのにひと悶着あったが、じゃんけんで南雲が先になった。
バイトで疲れているだろうし、先に入ってほしかったから、正直ほっとする。
俺が風呂から出ると、南雲がリビングで髪や肌の手入れをしていた。
風呂上がりの、少し幼くなった表情。
「まだ起きてたのか?」
「!? あ、は、恥ずかしいところ見られました……」
「……ごめん、寝てると思って」
「おやすみを、言おうと思って。……扉が開く音、気づきませんでした……」
「そっと開けたからね」
「……」
「……」
互いに視線のやり場に困り、手持ち無沙汰な沈黙が流れる。
昼間のファミレスで見せた「からかい」のような余裕は、今の二人にはもうなかった。
「……えっと、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
たったそれだけのやり取りで、逃げるようにそれぞれの自室へ入る。
けれど、ドアを閉めた後の静寂は、昨日までのような冷たさを持っていなかった。
「おやすみ」と言える相手がいる。
ただそれだけで、部屋の静けさが、前よりもずっと柔らかく感じられた。
ベッドに残る、いつもと違うほのかな香り。自分の部屋のはずなのに、別の誰かの存在が混じり込んでいるようで……胸の鼓動がうるさくなった。




