第13話 同居の準備
事務所を出た俺たちは、少し早いが昼食を取ることにした。
これからのことを話す必要があったことに加え、南雲が昼からアルバイトだからだ。
幸い、俺の家と須藤法律事務所の間にバイト先がある。なら先に食べておいたほうがいい、という話になった。
近場のファミレスに入り、席に着く。メニューを南雲に渡し、俺は注文用のタブレットを操作した。
(がっつり食べるには、少し早いんだよな)
あとで小腹は空くだろうが、軽めにドリアとサラダを頼むことにする。
カートに入れた状態でタブレットを南雲に渡した。
南雲は悩んでいるのか、メニューをまじまじと見ている。
「はい。俺は選んだから、南雲が選んだら注文していいよ」
タブレットを受け取った南雲は、首を傾げた。
「……初めて来ましたが、結構メニューの数が多いですね。迷ってしまいます」
「……え? 初めて?」
「はい。来る機会がありませんでしたから」
親と仲が良くないこと。育ててくれたのが曾祖母。
中学生だけで来るのは、付き合う相手にもよる。
そう考えると、ファミリーレストランに来たことがなくてもおかしくない。
暗い話にしても仕方ないので、明るく提案した。
「迷ってるなら、とりあえずグランドメニューから選んでみたら? 期間限定より、ここの定番のほうが、次来た時も楽しめるかも」
「なるほど。一理ありますね」
今日来た店は、フェアやコラボ中でメニュー数が多い。余計に迷う原因だ。
それなら、今後食べ比べもできるグランドメニューのほうがいい、と提案した。
「……それでは、チキンサラダとパンにしようと思います。注文は、このタブレットを操作すればいいのですか?」
「そう。ファミレスはタブレットか、スマホ注文のところが多いね」
「そうなのですね」
南雲は難なく操作して注文した。
(……スマホの操作は慣れてるのか。助け舟を出す隙がない。そういうところ、強いな)
注文を終えたタイミングで、「お待たせいたしましたニャ♪」と、隣のテーブルに料理を運んできた猫型の配膳ロボットが、愉快な電子音のメロディを鳴らしながら目の前でピタリと止まった。
「……う、動きました。ね、猫が喋っています……!」
南雲は信じられないものを見るような、それでいて少しだけ目を輝かせたような顔で完全に硬直していた。
学校での隙のない完璧な優等生の彼女からは想像もつかない、子供のように純粋な反応に、俺は思わず口角が緩むのを抑えられなかった。
俺はドリンクバーから水を入れたコップを二つ持ってきて、テーブルに一つずつ置く。
「ありがとうございます」
「おう。さて、これからのことだけど、ある程度方針を決めておこうか」
「ぜひ」
南雲は姿勢を正した。なぜか少し緊張しているようだ。
真剣な目でこちらを見ている。
俺の返事を待っているみたいで、妙に落ち着かない。
「とりあえず、明日、不動産屋に行こう。どこにある?」
「東條さんの家から歩いて十分から十五分くらいです」
「そこまで遠くないな。保険の件も、返金の話も、不動産屋に聞けば早いだろ。あと今日は、布団を買っておく」
「……あっ、忘れていました。東條さん一人に買いに行かせるのは、申し訳ないです」
「気にしなくていい」
南雲は左手を頬に当て、少し考える仕草をする。
柔らかな微笑みを浮かべて――
「……同じ部屋なら、布団は一組で足りますよね♪」
「……はぁ!?」
心臓が一拍遅れて鳴った。
俺のベッドはダブルだ。変なことはしない。しない、けど。
一人暮らしすることを真壁さんに言ったとき、『ダブル以上にしろ』って念押しされたのは、こういう時のためか……。
高校生相手に何を言ってるんだ、あの人。
「ふふっ、そんなに驚かないでください。冗談です♪」
「……南雲がそんなこと言うとは思わなかった」
(――距離は守る。そこは絶対に)
「ふふっ♪」
「ったく」
「……」
小声で南雲が何か言ったようだが、聞き返すのが怖かった。
冗談じゃなかったら――って。
「そうだ。ルールを作ろうと思う」
「ルールですか?」
「簡単なやつ。一緒に住むなら必要だろ。たとえば『夕飯いらない日は早めに連絡』とか」
「確かに。そういうのは必要ですね」
「決めておけば、迷わなくて済むしな」
メッセージアプリのメモに打ち込んでいく。
・夕飯がいらない日は早めに連絡
・材料費は折半
・食事は手が空いている方が作る
・ゴミは8時までにまとめておく(出すのは東條)
……みたいな感じだ。
「洗濯は別々でいいよな?」
「水も電気も、もったいなくないですか?」
「嫌だろ。服はともかく、俺の下着とか――」
「気にしません」
「……まじか」
……普通、嫌じゃないのか。
南雲は少しだけ口角を上げて言った。
「私のを見られると恥ずかしいので、洗濯は私がしますね。……それとも、見たいですか?」
(その冗談、心臓に悪い)
「勘弁してくれ……」
「そうでしょうね。それと、住まわせていただくのですから……家賃も折半します。家賃はいくらですか?」
「家賃はいらない。そもそも、うちは“家賃”って形じゃないんだ」
「ご両親が払っているのではないですか?」
「違う。……ここじゃ言えない。帰ってから、ちゃんと説明する」
「……言えないこと?」
「違法とかじゃない。ちょっと、他人に聞かれたくないだけ」
「……?」
南雲は納得していない顔だった。そりゃそうだ。
でも、ここで説明するのは避けたい。帰ったら、どう言うか……考えないとな。
言葉を選び間違えたら、たぶん一気に壊れる。
◇◇◇◇◇
Side:南雲 瀬那
二人で食事を進める。
初めてのファミレス。想像していたより、ずいぶん美味しい。
ルールを作ると聞いた時は驚いたけれど、内容はどれも普通のことばかりだった。
むしろ、東條さんの負担が多いようにも見える。
……居候の私が過ごしやすいように、整えてくれているのだと思う。
法律事務所でのやり取りもそうだ。
些細なフォローが、嬉しかった。
(本当に優しい人)
東條さんの学校での評判は、私も耳にしたことがある。
「ピアスのことで学校を脅した」とか、「他校と喧嘩した」とか。
下品な尾ひれがついた話まで混ざっていて、入学してまだ二か月なのに、いくつもある。
(まあ、根も葉もない噂でしょうね)
委員会の時もそうだし、ここ二日見ている限り、人を傷つけることを好んでやるようには見えない。
それに――
『……同じ部屋なら、布団は一組で足りますよね♪』
勢いで口にしてしまった。なのに、
「それでもいいかも」と、少し思ってしまった。
昨夜、ちゃんと眠れた。だから余計に、嫌じゃないって思ってしまう。
その後の「少し残念です」という私の呟きは、彼に聞こえていなくて良かったです。
理由は分かりませんが、安心する匂い。
その気配が残るベッドと、その持ち主。
嫌なはずがない。
(……何を考えているんだろう)
頬が熱くなるのをごまかすように、水を飲み干す。
すると東條さんが立ち上がりました。
「俺もなくなったから、入れてくるわ」
私のコップまで持って、給水の方へ向かっていった。
私が反応するよりも早く動いていた。
お礼を言う隙も、手伝う隙もくれない。
「……本当にずるいです」
何度目になるか分からない呟きが、またこぼれた。
◇
昼食が終わった後、私はバイト先へ向かっている。
私が席を外している間に、支払いが終わっていたのには、さすがに文句を言った。
言ったのに――
「ほぼ払っていないから大丈夫」
東條さんは、意味がわからないことを言う。
レシートも見せてくれないので、自分の分を出すこともできなかった。
駅の近くで東條さんと別れる。
別れ際に「頑張って」と一言もらった。
(……)
少し軽い足取りで商業施設を歩く。
バイト先の前を通ると、店が混んでいるのが見えた。
(今日も混んでいますね)
スタッフルームは、施設の奥にある。
カフェ専用の休憩室に入り、着替えスペースで制服に着替える。
「おはようございます」
他のメンバーに挨拶をして、休憩室の連絡事項を確認する。特になし。いつも通り。
ガチャ。
その時、休憩室の扉が開いた。
「あ、南雲ちゃん、おはよう!」
「おはようございます、店長」
入ってきたのは、店長の井上さん。
入学前に面接をしてくれた人だ。
……学校には内緒だけど。
「いつも通り、混んでていい感じよ!」
店長、テンション高い……。
その勢いに背中を押されるように、私は店に出た。
私の担当は、注文とドリンクの作成。
今月から、ドリンクも任されるようになった。
「お待たせいたしました」
いつも通り、注文を取る。
最初は注文の手順が複雑で、覚えるのに苦労した。
でも、私は記憶力がいい方だ。
覚えてしまえば、あとは自然に体が動く。
お客さんも慣れた様子で注文してくる。
ゲーム感覚で捌いていくのが、仕事中の楽しみだ。
何人もの注文をリズムよく取っていると、不意にカウンターの前の空気が一つだけ重く、淀んだように感じた。
ぬっと視界を遮るような現れ方で、一人の男性が立っている。
頻繁に店にやってくる常連客で――私が最も苦手な人。
「お待たせいたしました」
「南雲さん、今日も可愛いねぇ♡ いつも頑張っててえらいね」
「あ、ありがとうございます」
同僚が私を呼ぶのを聞いていたらしく、いつの間にか苗字まで知られている。
いい歳の男性が、ネットリとまとわりつくような猫撫で声で話しかけてくるのは、正直背筋がぞっとした。
本当は、接客業としてそんなことを思ってはいけないのだろうけれど。
「ご注文はブレンドですね。他にご注文はございますか?」
「いえ、ないです。君の笑顔だけで十分だから♡」
「……お会計は、◯◯円でございます」
「はい、これで」
この人は、必ず現金で支払う。
理由は――分かっている。
私がレジを操作し、キャッシュトレーにお釣りを入れようとした、その時。
すっと、トレーを遮るように彼の手が伸びてきた。
「はい、直接ちょうだい♡」
「……お返しは◯◯円です」
――ぞわわっ。
お釣りを渡す瞬間、意図的に指先が絡みつくように、ねっとりと手を握られた。
(……気持ち悪い)
吐き気を催すような不快感を必死に顔には出さずに、
「ありがとうございました」
業務用の冷たい挨拶だけを落とす。
彼が背を向けた直後、握られた手を、そっとカウンターの下でエプロンに擦り付けて拭った。
(大丈夫)
――そう自分に言い聞かせれば、大抵のことはやり過ごせる。
次のお客様の注文を取る私の声は、自分でも驚くほど滑らに出た。
◇
「お疲れ様でした」
バイトが終わり、スタッフルームへ戻る。
着替えをしながら、東條さんにメッセージを送った。
『今、バイトが終わりました。これから着替えて帰ります』
早く帰りたい。急いで着替える。
ちょうど着替え終わる頃に返信が来た。
『お疲れ様。気をつけてな』
短いのに、ちゃんと私の今日を見てくれている気がした。
たったこれだけのやり取りなのに、心が少しだけ温かくなる。
(こういうやり取りをしたことがないから……仕方ないです)
心の中でツッコミを入れる。
誰に向けて言い訳しているんだろう。
スタッフルームを出て、駅へ向かった。
「……」
最寄りの駅で降り、改札を出ると――
「えっ!?」
東條さんがいた。
なんでいるのか。
目が合ったので手を振る。待たせるのも悪いと思って、小さく駆け足になった、その時――
「きゃっ!」
入口の階段を踏み外してしまう。
「危なっ! ……大丈夫?」
間一髪、東條さんに手首と肩を掴まれて、転ばずに済んだ。
「大丈夫です。ありがとうございます。それより、どうしてここに?」
「心配だっただけ。ほんとに、それだけ。……嫌なら、これからはしない」
「嫌ではありませんが……そこまでしてもらうのは、申し訳ないです」
「俺が好きでやってることだから、気にしないで。むしろ、俺の心の平和を保つためなんで。諦めて」
「なんですか、それは」
クスッと笑った。
(そういえば、東條さんに触れられても、気持ち悪くなかったですね)
昼間、客に触れられた箇所は、洗っても消えないような不快な熱を持っていた。
けれど、彼に掴まれた手首や肩からは、不思議と嫌な熱を感じない。それどころか、その無骨な手のひらの温度が、心地よかった。
そのまま二人で並んで、家路につく。
二人で帰るのは、寂しくない。
疲れているのに、足取りは軽かった。
街灯の下で、影が一つ、立ち止まっていた。
その歪んだ視線に、私たちは気づかない。
それは、幸せな日常に落ちた一滴のインクのように、静かに、けれど確実に二人の行く末を汚そうとしていた。
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2026.07.25 言葉を調整。ストーリーに影響はありません。




