SS 東條 朔也:自転車
「うちに自転車ってあったのですね」
備え付けられているトランクルームから折り畳み自転車を取り出す姿を見て、瀬那は呟いていた。
『うちに』という言葉にこそばゆい感じがするが、彼女にとってここが自分の家だと当たり前になっている事実に、少し嬉しい。
俺は、歩くには少し時間がかかるが、タクシーを使うにはもったいない距離にある店に、欲しいものがあったため買いに行こうとしたのだ。
その時、自転車があることを思い出して今に至る。
「中学の時から使ってるから少し汚いけど、使うかもしれないからさ、念のため実家から持ってきてたんだ。……さっきまで忘れてたけど」
「……そうなのですね」
「瀬那も気にせず使っていいからな」
「……は、はい」
歯切れの悪い瀬那に違和感を覚えつつ、俺は軽く動かしてみて調子を確認する。
「うん、ブレーキは大丈夫だな。タイヤの空気だけ入れる必要があるけど」
一緒に保管してあった携帯用の空気入れを取り出して空気を入れる。
体重をかけて空気を入れることができないのでやや大変だが、わざわざ大きい空気入れを買う必要も感じられなかった。
「そうやって空気を入れるのですね、初めて見ました」
「携帯用のだからな。少し大変だけど、頻繁に使わないならこれで十分だよ」
「携帯用ってことは、そうじゃないのもあるのですね」
「そりゃね、普通は大きいヤツを使うよ……もしかして、空気を入れたことない?」
俺の質問に、失言をしたとわかったのか、あからさまに俺から顔を背けた。
「……」
「……」
……もしかして。
「せなちー、もしかして自転車に乗ったことがない?」
「……っ! せなちーって言わないでください!」
「せなちー」に反応してバッとこちらを向いた。その顔は耳まで真っ赤に染まっており、なぜかひどく悔しそうだった。
「……絶対に笑わないでくださいね? ……そうですよっ、私は自転車に乗れないのです……と言うより、これまで人生で一度も乗ったことがありませんっ」
「マジかよ」
運動能力は人並みどころか、学年女子なら上の方の瀬那が、自転車に乗れないなんて……意外だ。
「驚きすぎではないですか!? しょうがないじゃないですか。乗る機会がなかったのですから」
「小学校とかで友達と乗ってどこかに行かなかったのか?」
「私立に通っていて少し遠かったので、あまり近場では遊ばなかったのです。ひいおじいちゃんたちも、自転車に乗るようなことがなくて」
それなりの家柄だから、移動なら自転車ではなく車だったのだろうな。そもそも、お歳を考えたら危ないから乗らないか。
「なるほどね。それなら乗れなくても仕方なかったかもな。せっかくだから乗ってみるか?」
「……」
「やる気がなさそうね」
「……今更って思ってしまって。それに恥ずかしくないですか?」
高校生が自転車に乗るのを練習してる……うーん、少し恥ずかしいと思う人はいるかもな。
「まあ、でも練習しておいて損はないんじゃないか? もしかしたら今後の旅行先で、綺麗な景色を見ながら一緒にレンタサイクルで走る、みたいなこともあるかもしれないしな」
「……っ」
お、目に見えて悩んでるな。先日の金沢旅行で『旅行』そのものの楽しさを知ってしまったらしく、最近の瀬那は旅行会社の無料パンフレットをたくさん貰ってきたりしている。
実際に行くかどうかはともかく、俺と行く旅行の計画を妄想しているだけでも楽しいらしい。……その健気な気持ちは、俺としても嬉しいしわからなくはない。
「じゃあ、行ってくるよ。すぐに戻ってくるとは思うけど、一人でお留守番、気をつけてな」
「子供じゃあないんですからっ。……いってらっしゃい」
◇◇◇◇◇
こんなやりとりをしたのが数日前。今、俺たちは人があまり来ない裏道にいる。
もちろん、瀬那の自転車の練習のためだ。
ヘルメットやプロテクターも買おうと提案したが、「なんか負けたような気がします!」と、意味のわからない理由で拒否されたため、用意していない。
念のため、擦り傷防止のために長袖長ズボンのジャージに着替えている。最悪、頭さえ打たなければ大丈夫だろう。
「ペダルを漕ぐ要領はエアロバイクと同じだけど、バランスの取り方と重さは全然違うから気をつけてな」
「は、はい……っ」
「とりあえず俺が後ろでしっかり押さえておくから大丈夫。ちゃんと、少し進んだら勝手に手を離すから」
「ちゃ、ちゃんとってなんですか!? 絶対に離さないでくださいね!? 絶対ですよ!?」
前傾姿勢でガチガチに固まっている瀬那の焦りを感じつつ、俺は無慈悲に自転車を押し出すのだった。
「きゃっ! ちょっ、ちょっと、待ってくださーいっ!」
― 東條 朔也:自転車 完 ―




