第11話 朝は思ったより優しくて
Side:南雲 瀬那
枕元に差し込む柔らかな光に誘われ、私はまぶたを持ち上げました。
時計は六時を示しています。
昨日の出来事が嘘のように、部屋には凛とした静寂と、すがすがしい朝の気配が満ちていました。
このお家に来る前は、焦燥感や不安でいっぱいだったのに、今は驚くほど気分が軽いです。
(初めてのお宅なのによく眠れました)
熟睡できたのが良かったのだと思います。これも東條さんのお気遣いあってのことです。
お顔を洗い、寝癖を軽く整えたあと、東條さんにメッセージを送ります。
『おはようございます。ゆっくり眠る事ができました。ありがとうございます。もう起きましたので、いつでも戻ってきてくださいね』
——送信履歴に残る彼のお名前を、私は少しだけ見つめました。
暖かくなってきたとは言え、夜はまだ肌寒いです。さすがに屋外で一夜を過ごしたとは思えませんが、お風邪を引いていないか心配です。
(念のため、温かいものを作っておきましょうか)
冷蔵庫の中身を使うのは、東條さんからお許しをいただいています。冷蔵庫の中身を確認していると、返信が届きました。
『おはよう。了解、今から帰ります。大体二十分ぐらいかな』
『わかりました、お気をつけてくださいね。お家にあるもので、ご飯を作っても良いですか?』
『ありがとう。家にあるものなら、どれでも使っていいよ』
『では、作っておきますね。お風呂は入りますか? 念のため温まった方がいいと思います』
『シャワーは浴びるつもり』
『湯船に浸かってください。用意しておきます』
『いや、いいよ』
東條さんの素っ気ないご返答に、私は顔をしかめます。お付き合いは短いですが、このまま普通にご提案しても、彼が素直に首を縦に振らないことはわかっています。少し考え、ふと昨日のやりとりを思い出して、メッセージを打ち込みました。
『ダメです。これで風邪を引かれたら、私が後悔します。それでもいいのですか?』
『それはずるくないか?』
『昨日のお返しです。大人しく観念してください』
『わかったよ』
「ふふっ♪」
自分でも気づかないうちに、頬が緩んでいました。
昨日、私をベッドに寝かせるために使われた強引な手口のお返しができて、少し満足です。
……まるで、帰りの遅い旦那様を叱る奥様みたい。そう思った瞬間、カーッと顔が熱くなります。
お着替えはお風呂を洗った後でいいでしょう。
——気づけば、お風呂場に向かう私の足取りは、昨日までの重さが嘘のように軽やかでした。
◇
着替えが終わる頃に、東條さんが帰ってきました。
少し眠そうなお顔をしていますが、体調が悪そうには見えません。それに少し安堵します。
「ただいま」
「お帰りなさい。お風呂、もうすぐできますよ」
「ありがとう。着替えを取ってくる」
お着替えを取り、洗面所に入るのを見送ったあと、お食事の準備を再開します。ご飯と、お体が温まるようにベーコンと野菜を入れたコンソメスープ。それからオムレツとグリーンサラダをご用意する予定です。
「気に入っていただけると、良いのですが。どなたかに召し上がっていただくのは久しぶりです」
昨夜まであんなに絶望していたのに、今は誰かのために朝食を作っている。
私の心臓は不規則なリズムを刻んでいました。
期待半分、不安半分。そんなありふれた二つの感情が、胸の奥に浮かび上がります。
――どうしてこんなに、落ち着かないのでしょう。
◇
お風呂から出た東條さんは、少し湿った髪のままリビングに入ってきました。
普段の学校では見せないその無防備なお姿が妙に色っぽく感じて、私は思わず目を逸らしてしまいます。
「……反則です」
「えっ? 何?」
「……いえ、気にしないでください」
「?」
「準備できていますので、座ってください」
誤魔化すようにスープをよそり、お席を促します。
昨夜と同じ位置に座り、東條さんと同時に――。
「「いただきます」」
東條さんがスープを手に取り、一口、二口と飲みます。
「……」
私はそれを見つめながら、膝の上で握ったお手に力が入ります。
(き、緊張します)
「……美味しい……」
その一言で、胸の奥に張りつめていた糸が、ふっと緩みました。
「……良かったです」
気づかれないよう、ふぅっと息を吐きます。
お気持ちが落ち着き、私もオムレツへ手を伸ばしました。
いつものお味に、一安心。慣れないキッチンだったので、少し心配していました。
「料理上手なんだな」
「教えてくださった方がお上手でしたから」
「へー、師匠がいるんだな」
「はい、ひいおばあちゃんです」
「いいね」
温かい笑顔を思い出し、胸の奥がじんわりと温かくなります。
お料理を教えてくれた曾祖母。お料理だけでなく、一人で生活するための術を教えてくれた人。
優しくもあり、厳しかった――大好きな人。
少し照れ臭くなって、私は話題を逸らしました。
「そういえば、どこで過ごされていたのですか?」
「ん? あぁ、カラオケだよ。漫喫と違って、身分証見せなくても入れたからさ」
「なるほど。その手がありましたか」
「……念のため言っておくけど、南雲は一人で深夜のカラオケとかで一夜を過ごすのはやめておきなね。漫喫もそうだけど、可愛い女の子が一人だと、変な奴に狙われるかもしれないから」
「かわっ!? ……気をつけます」
「うん」
何を言っても墓穴を掘りそうなので、ツッコみません。
その代わり、照れ隠しでお食事のペースが上がったのはご愛嬌です。
「今日のことなんだけど、十時に予約したから、九時に出るようにしたいんだけど、大丈夫?」
「(ご予約?)大丈夫です。ここから遠いんですか?」
「最寄り駅から、五駅ぐらい行ったところにあるよ」
「わかりました」
ご予定も決まったので、お食事を再開します。
向かいから、ときおり聞こえる「美味しい」のお言葉に、自然と頬が緩みました。
――やっぱり、一人じゃないっていいな。
その当たり前みたいな時間が、少しだけ特別に感じられました。
◇◇◇◇◇
今、私たちはオフィスビルの十二階にいます。
最寄り駅から五駅。そこから徒歩十分もかからない場所でした。
目の前の扉の横には、銀色のプレートが掛かっています。
――『須藤法律事務所』
「ここだよ」
「……えっ?」
「入ろうか」
「ちょ、ちょっと待ってください。ご相談相手って……弁護士の方なんですか!?」
思わず声が裏返ってしまいました。
「あれ、言ってなかったっけ? そうだよ。中一の頃からお世話になってる先生でさ。信用できる人だから大丈夫」
私は言葉を失いました。
高校生で弁護士に相談することになるなんて、想像もしていなかったからです。
ましてや――。
(中学の頃から……?)
東條さんは、いったい過去に何があったのでしょう。
「ネットでも少し調べたんだけどさ。曖昧な情報も多くて。だったら先生に直接聞いた方が早いと思って。予約しといて正解だったわ」
「……ツッコミどころが多すぎます」
「まあまあ、慣れだ慣れ。ほら行こう」
「……はい」
――もう、なんとでもなれです。
私は小さく深呼吸をして、東條さんの広い背中に続いて事務所のドアをくぐりました。
入ってすぐのところに受付があり、女性が一人座っていらっしゃいました。
「こんにちは。本日は――あ、鳳くん、久しぶり」
(鳳……?)
「お久しぶりです、金子さん。すみません、今は東條です」
「あっ、そうでした、そうでした。ごめんね。予約は伺ってますよ。こちらのお部屋でお待ちください」
受付の女性――金子さんに案内され、奥のお部屋へ入ります。私が法律事務所という場所に来るのは初めてですが、テレビドラマで見るような重厚な応接室がそこにありました。
完全に場違いな場所に来てしまった気がして、緊張で喉が少しだけ乾きます。
高校生の日常からはあまりにかけ離れたこの堅苦しい場所で、けれど東條さんは、まるで行きつけのカフェにでも来たかのように自然な足取りで進んでいきます。
応接用の黒い革張りソファに、東條さんと横並びで座ります。
学校では少し気だるげで不良っぽく見られがちな彼が、この大人の空間に完全に馴染んでいる。隣に座る東條さんの横顔が、今日は妙に大人びて頼もしく見えました。
「東條くんはコーヒーで良かったよね? こちらの……」
金子さんは私を見て、ふと言葉を止めました。
その瞬間、私は気づきます。
――まだ自己紹介をしていません。
「すみません、自己紹介が遅れました。南雲です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね。南雲さんはコーヒーとお茶、どちらが良いですか?」
「コーヒーでお願いします」
「はい、少しお待ちくださいね」
金子さんはお部屋を出て行かれました。
法律事務所の方だから、もっとお堅い雰囲気の方かと思っていましたが、お話ししやすそうな印象で少し安心します。
(それにしても……)
『鳳』。
さっき呼ばれたお名前を思い出します。伺って良いのかわからず、自然と東條さんを見つめてしまいました。
視線に気づいたのか、東條さんはこちらを向きます。
「ん? どうした?」
「……えっと」
「何か言いづらいこと? ……あっ、さっきの名前のことか」
「すみません。失礼かもしれませんが、気になってしまって」
「別に隠してるわけじゃないから、大丈夫だよ。単純に言う機会がないだけで。そんなにややこしい話でもなくてさ、中三の頃に親が再婚して苗字が変わったってだけ。前の苗字が“鳳”ってこと」
「そういうことですか」
「そそ。よくある話だよ。ちなみに両親が離婚したのは中一の頃」
お言葉通り、左耳のピアスを触りながら、彼にとってはどうでもいい、大したことではないみたいに淡々とお話しします。
――けれど。
最後の一言を口にした瞬間、ほんの一瞬だけ、彼の横顔が苦痛に耐えるように歪みかけたのを、私は見逃しませんでした。
――踏み込んではいけない、彼の深い傷に触れてしまった気がしました。
「あの、大丈――」
コンコン。
重厚なドアを叩くノックの音が、私の言葉を遮りました。
「失礼します」
トレーにカップを三つ乗せた金子さんが入ってきて、静かにテーブルへ置かれます。
「須藤がもうすぐ参りますので、少々お待ちください」
「ありがとうございます」
柔らかく微笑み、金子さんはお部屋を出ていかれました。
――そして、ほとんど間を置かず。
扉が開き、ひとりの男性が入ってこられます。
スーツを隙なく着こなし、襟元には、ひまわりをかたどった金色の徽章が静かに光っていました。
室内の空気が、わずかに引き締まった気がしました。
「久しぶりだね、朔也くん」
よく通る、落ち着いたお声でした。
それが――。
私と須藤先生の、最初の出会いでした。




