第二章 崩れゆく日々 ①
王城の朝は早い。
けれど、その朝のアレンは、いつもの時間になっても目を覚まさなかった。
「アレン様。起床のお時間です」
侍女が何度声をかけても、アレンは寝台の中で眠り続けている。
「アレン様?」
肩を揺すられ、ようやく重い瞼を開いた。
身体を起こそうとした途端、足に鈍い痛みが走る。
「……痛い」
昨夜、石壁から飛び降りた時の痛みだった。
朧幻の岬。
夜空を覆った光。
名前も知らない二人。
十年後の約束。
眠気の中へ、昨夜の出来事が次々と蘇る。
夢ではなかった。
そのことが嬉しくて、アレンの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「アレン様?」
「何でもない」
アレンは目を擦りながら、ゆっくりと身体を起こした。
窓の外には、雲一つない青空が広がっている。
「今日は交流会の日ですよ」
「交流会?」
「はい。各国の王族や貴族の子供たちが集まる会です」
聞き覚えはあった。
以前にも何度か説明されたはずだが、アレンにはあまり興味の湧かない話だった。
「勉強みたいなもの?」
「それに近いですね」
やっぱりか。
アレンは小さく息を吐いた。
今日も挨拶をして、礼儀作法に気を配り、大人たちの難しい話を聞くのだろう。
そう考えただけで、少し気が重くなった。
◇
数時間後。
王城の大広間には、多くの子供たちが集まっていた。
豪華な衣装。
煌びやかな装飾。
誰もが立派な身なりを整えている。
大人たちは楽しそうに歓談していたが、子供たちはいくつかの集まりに分かれていた。
初対面の相手も多いのだろう。
アレンも会場を見回したが、知っている顔はほとんどなかった。
「……」
誰かと話すよう促されても、何を話せばよいのか分からない。
自然と会場の隅へ移動し、窓の外へ目を向けた。
庭園の花々が風に揺れている。
その上を、一羽の鳥が横切った。
誰に行き先を決められることもなく、城壁の向こうへ飛んでいく。
「何してるの?」
不意に声をかけられた。
振り返ると、同じくらいの年頃の少女が立っていた。
腰まで届く瑠璃色の髪。
身に纏った白いドレスは、動くたびに裾を柔らかく揺らしている。
襟元や袖には金色の装飾が施され、胸元には見覚えのない紋章が飾られていた。
きっと、どこかの王家か、それに近い家柄の少女なのだろう。
けれど、アレンの目を引いたのは衣装でも髪でもなかった。
真っ直ぐにこちらを見る瞳だった。
「空を見てた」
アレンは正直に答えた。
「面白い?」
「面白い」
少女が不思議そうに首を傾げる。
「何が?」
「鳥」
「鳥?」
「自由だから」
今度は少女がきょとんとした。
「自由?」
「好きな場所へ行けるだろ」
アレンは再び窓の外へ目を向ける。
先ほどの鳥は、もう城壁の向こうへ消えていた。
「いいなって思った」
少女も同じ空を見上げた。
しばらくして、その口から小さな声が漏れる。
「変なの」
「変かな」
「変だと思う」
迷いのない返事だった。
アレンは思わず笑った。
朧幻の岬で出会った二人のことを思い出した。
自分の話を聞いて、不思議そうな顔をしていた。
けれど、笑うことも否定することもなかった。
目の前の少女にも、どこか同じものを感じた。
「君は?」
アレンは尋ね返した。
「何を見てたんだ?」
少女は少し考えてから、会場へ目を向けた。
「人」
「人?」
「うん。覚えようと思って」
会場には、他国の子供たちだけでなく、護衛や貴族、王族の姿もある。
「全部?」
「全部」
「無理じゃない?」
「無理かも」
そう答えながらも、少女の表情は真剣だった。
「でも、知っておいた方がいいから」
「どうして?」
少女は当然のことを口にするように答えた。
「守るため」
短い言葉だった。
それでも、その声に迷いはなかった。
やはり、朧幻の岬で出会った二人と、どこか似ている。
そう思った時には、アレンの口から言葉が出ていた。
「少し外に行く?」
◇
交流会が始まってから、何人もの子供たちと話した。
将来の夢を語る子。
自分の家柄を誇る子。
実際よりも自分を大きく見せようとする子。
話している内容は違っても、皆どこか似ていた。
けれど、窓際にいた黒髪の少年は違った。
周囲の子供たちには目も向けず、窓の外を見続けている。
細い身体つきからは、剣を振るう子供たちのような力強さを感じない。
どちらかといえば、大人しそうな少年だった。
けれど、その黒い瞳が追っていたのは、鳥だけではなかったのかもしれない。
白い雲の向こう。
城壁の外。
自分たちの知らない、どこか遠い場所。
そんなものを見ているように思えた。
変な少年だった。
それなのに。
何不自由なく空を飛ぶ鳥を見つめる横顔を、少しだけ羨ましいと思った。
「うん、行く」
気づけば、そう答えていた。
もう少しだけ、この少年と話してみたかった。
◇
二人は大広間を抜け、庭園へ出た。
会場ほど多くの人はいない。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々と、遠くで鳴く鳥の声くらいだった。
大広間にいた時より、息がしやすい。
それは隣を歩く少女も同じなのかもしれない。
「そういえば、名前を聞いてない」
少女が言った。
「あ、そうだった」
会ったばかりなのだから、知らなくて当然だった。
それでも、先ほどまで随分と話していたせいか、今まで気づかなかった。
アレンは足を止め、少女へ向き直る。
相手の家柄は分からない。
だが、王族や貴族が集まる交流会である以上、名前だけを告げるより、正式に名乗るべきなのだろう。
「僕は、アレン・ルークロウ=アルベニスタ」
少女の瞳が、僅かに見開かれた。
「アルベニスタ……」
「ああ。この国の第一王子だ」
「あなたが、アレン王子だったのね」
少女は一度驚いたあと、姿勢を正した。
「私は、クローネ・アルセリア=アミール。アミール王国の第一王女です」
今度はアレンが目を瞬かせた。
アミール王国。
アルベニスタ王国と国交を持つ、人間界の王国の一つだった。
二人は、改めて互いの顔を見た。
どちらも、やがて国を背負う立場にいる。
「何だか、安心した」
クローネが呟いた。
「安心?」
「うん。アレンも、私と同じだから」
「王族だから?」
「それもあるけど」
クローネは大広間の方角を見た。
「中にいると、ずっと見られている気がするでしょう?」
アレンは、その言葉に頷いた。
「分かる」
「誰と話したかも、どんな挨拶をしたかも、全部見られてるから」
「何をしても、王子として正しいかを見られる」
「そう。それが少しだけ息苦しいの」
「僕も同じだよ」
クローネの表情が和らいだ。
「だから、外に誘ったの?」
「僕は、あそこが息苦しかっただけだよ」
「やっぱり同じだね」
クローネが笑った。
互いに正式な名を知り、同じ立場にいると分かった。
それだけで、先ほどよりも話しやすくなった気がした。
二人は再び庭園を歩き始める。
「クローネには、守りたいものがあるの?」
「あるよ」
クローネは迷わず答えた。
「アミール王国」
「国か」
「うん。お父様もお母様も頑張っているから」
クローネは遠くを見る。
「私も、国を守れる人になりたい」
その横顔は真剣だった。
アレンも王子として、自分の国を守らなければならない。
そう教えられてきた。
けれど、それを自分自身の願いとして語ったことはなかった。
今のアレンにあるのは、外の世界を見てみたいという思いだけだった。
「すごいな」
素直にそう言った。
しかし、クローネは嬉しそうには見えなかった。
「そうかな」
微かに声が沈む。
夢を語っているはずなのに、その表情には喜びよりも緊張が滲んでいた。
何かを我慢しているようにも見えた。
◇
二人は庭園の奥へ進んだ。
噴水の近くまで来たところで、クローネが足を止める。
「ねえ、アレン」
「うん」
「もしさ」
クローネの視線は、噴水へ向けられたままだった。
「守れなかったら、どう思う?」
「守れなかったら?」
「うん」
流れ落ちる水を見つめながら、クローネは続ける。
「頑張っても。一生懸命やっても。それでも、守れなかったら」
先ほどよりも、声が小さかった。
初対面の相手へ尋ねるような話ではないのかもしれない。
けれど、アレンも自分と同じ王族だった。
国を背負うよう求められ、その言動を大人たちに見られている。
そう知ったことで、クローネは初めて、自分の中にあった疑問を口にできた。
アレンは言葉を探した。
大丈夫だと励ませばよいのだろうか。
クローネなら守れると答えればよいのだろうか。
けれど、それでは何か違う気がした。
「怖いの?」
クローネの肩が僅かに揺れた。
返事はない。
アレンは慌てて言葉を足した。
「違ったら、ごめん」
それでもクローネは何も言わなかった。
「でも、怖いんだと思った」
噴水の音だけが、二人の間へ落ち続ける。
やがて。
「……怖い」
クローネが呟いた。
「みんな、私ならできるって言うの」
視線は下を向いたままだった。
「頑張れるって。立派になれるって」
握られた小さな手に力が入る。
「でも、分からない」
声が僅かに震えていた。
「私にできるか、分からない」
クローネは唇を噛む。
「できなかったら、どうしようって考える」
アミール王国の第一王女。
自らそう名乗ったことで、胸の内にある恐れまで言葉になったのかもしれない。
「王女なのに、情けないよね」
クローネは笑おうとした。
けれど、上手く笑えていなかった。
アレンにも、どう答えればよいのかは分からない。
自分は国を守ったことなどない。
第一王子として期待されていても、その期待へどう応えればよいのか、自分自身でも分かっていない。
それでも、一つだけ思ったことがあった。
「分からないのに決める方が、怖くない?」
クローネが顔を上げる。
「え?」
「できるって決めるのも、できないって決めるのも」
アレンは、自分の考えを確かめるように続けた。
「まだ、何も分からないのに」
クローネは黙っている。
「本当にどうでもよかったら、そんなに悩まないだろ」
守れなかった時のことを考えて。
自分にできるか分からずに怖がって。
それでも守れる人になりたいと願っている。
「守りたいから、悩んでるんじゃないの?」
風が吹いた。
舞い上がった花びらが一枚、二人の間を静かに横切る。
「僕は、そう思う」
クローネは何も言わなかった。
ただ、驚いたようにアレンを見つめていた。
変なことを言っただろうか。
そう不安になった時だった。
「……初めて」
クローネの唇から、小さな声が零れた。
「え?」
「そんなことを言われたの、初めて」
みんな、大丈夫だと言った。
クローネならできる。
立派な王女になれる。
迷う必要などない。
誰もが、そう言ってきた。
けれど、同じように国を背負うはずの少年は違った。
怖がることも。
迷うことも。
王族として情けないことだとは言わなかった。
「そっちの方が、嬉しいかも」
クローネが微笑む。
先ほどのような、無理に作った笑顔ではなかった。
その笑顔を見て、アレンも息を吐いた。
何が正しかったのかは、まだ分からない。
それでも。
クローネの握られていた手から、僅かに力が抜けていた。
◇
二人は噴水の近くに並び、同じ空を見上げた。
鳥が一羽、王城の上を横切っていく。
しばらくの間、どちらも口を開かなかった。
けれど、その沈黙を居心地が悪いとは感じなかった。
クローネは、隣に立つ少年をそっと見た。
アルベニスタ王国の第一王子。
自分と同じように、いずれ国を背負う立場にいる少年。
それでも、王子だからという理由だけで国のことを語らず、城壁の向こうにある世界を見たいと願っている。
最初は、変な少年だと思った。
今も、それは変わらない。
ただ。
王女ではない自分の恐れを、初めてそのまま受け止めてくれた。
「また、話してくれる?」
考えるより先に、クローネは尋ねていた。
アレンは少しだけ驚いたあと、いつものように答えた。
「いいよ」
「今度も外で?」
「あの中よりは、こっちの方がいい」
アレンが大広間を見ながら答えると、クローネは小さく笑った。
「私も」
二人は、もう一度同じ空を見上げた。
最初に交わしたのは、互いの正式な名前。
そして、初めて知ったのは、王子と王女という立場よりも先に、二人とも同じように息苦しさを抱えていたことだった。
お読みいただきありがとうございます。
今後は毎週火曜日、金曜日に投稿しようと思います。
精一杯頑張りますのでぜひこのままお読みいただかますと幸いです!




