第一章 約束④
波音だけが、短い沈黙を埋めていた。
少年と少女は、驚いたようにアレンを見つめている。
言わない方がよかっただろうか。
今夜会ったばかりで、名前さえ知らない相手だ。
十年後にも会いたいなど、変に思われたかもしれない。
アレンが目を逸らしかけた時、少年が身を乗り出した。
「いいな、それ!」
「本当に?」
「ああ。十年後なら、俺たちはもう大人だろ?」
少年は背中の木剣を軽く叩く。
「その頃には、俺もみんなを守れるくらい強くなってる。二人にも見せてやるよ」
「見せるって、何を?」
「俺の強さを」
「どうやって?」
「それは、その時に考える」
少女は少し呆れた顔をしたあと、声を立てて笑った。
「やっぱり何も考えてないんだね」
「十年もあるんだから、今決めなくてもいいだろ」
「それはそうかもしれないけど」
二人のやり取りを聞きながら、アレンの胸へ安堵が広がっていく。
少なくとも、少年は断らなかった。
アレンと少年は、少女へ目を向けた。
「君は?」
少女はすぐには答えず、海の向こうを見つめた。
長い黄緑色の髪が、潮風に揺れている。
「十年後なら、今よりたくさん知ってるかな」
「きっと知ってるよ」
アレンが答えると、少女は少しだけ笑った。
「それなら、私も会いたい」
「本当か?」
「うん。二人がどうなったのかも知りたいから」
「俺は絶対に強くなってる」
「それは十年後に確かめるね」
少年は自信たっぷりに頷いた。
少女も、もう迷ってはいなかった。
アレンは二人の顔を見た。
少年は強くなる。
少女はいろいろなものを知る。
自分は世界を見る。
十年後にもう一度会えたなら、それぞれが見つけたものを話すことができる。
今夜の続きを、ずっと先の未来で始められる。
「じゃあ、十年後の今日にしよう」
アレンは言った。
「今日?」
「うん。僕たちがここで会った日なら、忘れないと思うから」
少年が夜空を見上げる。
新月の空に月はない。
星も僅かにしか見えず、足元の月魔草だけが青白く光っている。
「十年後の今日か。分かりやすくていいな」
「場所は、ここでいいよね?」
少女が尋ねる。
「朧幻の岬?」
「名前も、住んでいる場所も知らないんだもの。別の場所では会えないよ」
「確かに」
今夜が終われば、互いを捜す方法はない。
けれど、同じ日、同じ場所へ来れば会える。
アレンは岬を見回した。
暗い海。
青白く光る月魔草。
三人で初めて見つけた景色。
ここなら、きっと忘れない。
「十年後の今日、朧幻の岬で」
アレンが改めて口にする。
「三人で、また会おう」
「おう!」
「うん」
少年と少女が頷いた。
少年がアレンたちへ手を差し出す。
「絶対だからな」
「君が一番忘れそうだけど」
「忘れねえよ!」
「本当に?」
「絶対に忘れない」
真っ直ぐな声だった。
少女は笑いながら、その手へ自分の手を重ねた。
「私も忘れない」
二人がアレンを見る。
胸の奥が、また強く鳴った。
これまで約束は、決められたことを守るために交わすものだった。
王子として授業へ出ること。
稽古の時間に遅れないこと。
大人から求められ、それに従うための言葉だった。
けれど、今は違う。
誰にも命じられていない。
自分がもう一度二人に会いたくて、自分から望んだ約束だった。
「僕も、絶対に忘れない」
アレンは、重なった二人の手へ自分の手を置いた。
三人の小さな手が重なる。
「十年後に、またここで」
「約束だ」
「うん。約束」
その時だった。
三人の足元で、月魔草の光が強くなった。
「え?」
最初は、風に揺れた花が近づいただけだと思った。
けれど、一輪だけではない。
隣の花も、その先に咲く花も、同じように輝き始めている。
「さっきより光ってないか?」
少年が重ねた手を離し、月魔草の前へ屈んだ。
「こんなの、本には書いてなかった」
少女も息を呑む。
青白い光が、花弁の上へ小さな粒となって浮かび上がった。
一つ。
また一つ。
光は花から離れ、夜空へ昇っていく。
「見て!」
少女の声に、アレンは顔を上げた。
岬に咲く月魔草から、無数の光が舞い上がっていた。
暗闇の中をゆっくりと昇り、潮風に運ばれていく。
青白かった光は高くなるにつれ、青や紫、淡い白銀へ色を変えた。
空へ昇った光が、細い帯となって広がっていく。
月も見えなかった夜空に、揺らめく光の道が生まれた。
「すごい……」
少女が立ち上がることも忘れ、空を見上げている。
「なんだよ、これ……」
少年も言葉を失っていた。
アレンは瞬きさえ惜しいと思った。
揺らめく光が海へ映り、空と海の境目を消していく。
波が動くたび、水面の光も形を変える。
まるで、同じ光が空と海の両方を流れているようだった。
本にも、教本にも載っていない。
誰かから聞いた景色でもない。
自分で王城を抜け出し、この二人と一緒に進んだから、今ここで見ることができている。
「本当にあったんだ」
アレンの口から、声がこぼれた。
「うん」
少女が小さく頷く。
「お伽話じゃなかった」
「来てよかったな」
少年の声が聞こえた。
アレンと少女も頷いた。
三人は並んで、夜空を見上げ続けた。
光が揺れるたび、少年は目を輝かせる。
少女は何かを覚えようとするように、空と月魔草を何度も見比べていた。
アレンは、二人の横顔まで忘れないように見つめた。
光だけではない。
三人で岬を歩いたこと。
怖い時には一緒に逃げると決めたこと。
月魔草を見つけたこと。
海を眺め、それぞれの夢を話したこと。
十年後にも、もう一度会いたいと思えたこと。
そのすべてが、今までのどの日とも違っていた。
王子としてではなく、ただの自分として誰かと笑った夜だった。
名前を知らない二人と過ごした時間が、アレンの中で何より大切な思い出になっていた。
やがて、夜空の光が少しずつ細くなっていく。
色を失った粒が、星のように瞬きながら消えていった。
「終わっちゃう」
少女が寂しそうに呟く。
「また見られる」
少年が言った。
「十年後に、三人で見ればいい」
「同じ光が出るかは分からないよ」
「出なくても、三人で来ればいいだろ」
少年の言葉に、少女は一度目を瞬かせたあと笑った。
「そうだね」
最後の光が、夜の中へ消えていく。
この夜、朧幻の岬を覆った光には、まだ名前がない。
やがてその光景は『オーロラベール』と呼ばれ、第八の新月に現れる奇跡として語り継がれていく。
けれど今、それを見届けたのは、互いの名前さえ知らないまま、同じ光を求めてこの岬へ集まった三人の子供だけだった。
光が消えても、三人で見た景色まで失われたわけではなかった。
ここには、三人で見た光があった。
十年後に帰ってくる理由もできた。
誰にも決められていない、三人だけの約束が残っている。
◇
王城へ戻った頃には、東の空が僅かに白み始めていた。
アレンは来た時と同じ石壁を登り、誰もいない裏庭へ降り立った。
服は土で汚れ、足も痛い。
見つかれば、きっと叱られる。
それでも、後悔はなかった。
音を立てないよう廊下を進み、自室へ戻る。
窓の外には、いつもと同じ王都が広がっていた。
夜が明ければ、剣の稽古がある。
その後は学問と礼儀作法。
また、決められた一日が始まる。
けれど、昨日までとは一つだけ違う。
城壁の向こうに何があるのか、アレンはもう想像するだけではなかった。
冷たい潮風も。
暗い海も。
月魔草が放つ青白い光も。
一緒に笑った二人の声も知っている。
寝台へ横になると、アレンは朧幻の岬で見た光を思い浮かべた。
十年後。
もう一度、あの二人と同じ場所へ立つ。
その約束を胸に抱いたまま、アレンは深い眠りへ落ちていった。
翌朝、侍女が何度声をかけても、なかなか目を覚まさなかった。
第一章「約束」を最後までお読みいただき、ありがとうございました!
三人の夢と、一つの約束。
幼い日の出会いが、これから続く長い物語の始まりとなります。
少しでも楽しんでいただけましたら、
ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。
次回からは第二章「崩れゆく日々」が始まります。
穏やかな日々の中で、アレンの運命が少しずつ動き始めます。
更新は毎週火曜・金曜13:00を予定しております。
引き続きよろしくお願いいたします。




