第一章 約束②
三人は互いの姿が見える距離を保ちながら、岬の奥へ進んでいた。
先頭を歩くのは、木剣を背負った少年だった。
その少し後ろを少女が歩き、アレンも二人から離れないようについていく。
夜の海から吹く風は冷たい。
波が岩へぶつかるたび、低い音が暗闇の中へ響いていた。
周囲に人の姿はない。
足元には岩と草が広がり、その先を細い道が奥へ伸びている。
「なんか、冒険って感じだな!」
先頭の少年が嬉しそうに声を上げた。
足元には明かりもなく、どこに魔物が潜んでいるのかも分からない。
それなのに、その足取りには迷いがなかった。
「危なくないの?」
少女が不安そうに尋ねる。
「危なかったら、その時に考える」
「それ、今は何も考えてないってことじゃない?」
「そうか?」
少年は本気で分かっていないらしい。
少女が小さくため息をつく。
そんな二人を見て、アレンは思わず笑った。
「今、笑っただろ」
「少しだけ」
「何がおかしいんだよ」
「二人のやり取りが」
「こいつが細かいことを気にしすぎるんだ」
「君が気にしなさすぎるの」
少女に言い返され、少年は納得できないように前へ向き直った。
ほんの少し前まで、二人がどのような相手なのかも分からなかった。
今も名前すら知らない。
それでも、少年が思いついたまま前へ進み、少女が心配して止めることは、少しずつ分かってきた。
自分とは違う二人の反応を見ていることが、アレンには少し楽しかった。
やがて、先頭を歩いていた少年が足を止めた。
片手を上げ、後ろにいる二人を制する。
「どうしたの?」
「何か聞こえた」
三人は言葉を止めた。
波音と風の間に、何かが地面を擦るような音が混じっている。
少年は背負っていた木剣へ手を伸ばした。
少女も少年のすぐ後ろまで近づき、暗い草むらを見つめる。
アレンの頭には、城で何度も聞かされた言葉が蘇っていた。
城の外には魔物がいる。
子供だけで近づいてはならない。
もし本当に魔物が現れたら、自分に何ができるのだろう。
「……あそこ」
少女が小さな声で告げる。
草むらの奥で、黒い影が動いた。
少年が木剣を抜く。
アレンも腰へ差した訓練用の剣へ手を掛けた。
だが、現れた小さな獣は三人へ近づかず、そのまま岩陰へ逃げ込んでいった。
少年が大きく息を吐く。
「魔物じゃなかったな」
「すぐに剣を抜いたね」
「念のためだ」
「怖かったんでしょう?」
「怖くない」
「本当に?」
「……少し驚いただけだ」
少年は顔を逸らした。
アレンは声を立てないように笑う。
「また笑っただろ」
「ごめん」
「お前だって剣に手を掛けてたじゃねえか」
「僕は怖かったから」
アレンが正直に認めると、少年は言い返そうとして口を閉じた。
「私も怖かったよ」
少女も胸元へ手を添えている。
少年は二人を見比べ、渋々と木剣を背負い直した。
「……分かったよ。俺もちょっとだけ怖かった」
「ちょっとだけ?」
「ちょっとだけだ」
先ほどまで張り詰めていた空気が、ゆっくりと和らいでいった。
「でも、本当に魔物が出たらどうする?」
少女が尋ねる。
「俺が剣で追い払う」
「できるの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「やってみないと分からないだろ」
少年が木剣を軽く叩く。
その姿を見て、アレンは少し考えた。
「危ないと思ったら、三人で逃げよう」
「戦わないのか?」
「勝てるか分からないのに、戦う必要はないだろ」
「でも、逃げ切れなかったら?」
「その時は、君が追い払う」
「結局、俺が戦うんじゃねえか」
「自分で言ったんでしょう?」
少女に指摘され、少年は再び言葉に詰まった。
「……分かった。危なかったら逃げる。それでいいな?」
「うん」
「僕もそれでいい」
逃げる時は、三人で逃げる。
名乗ることさえ拒んだ相手と交わした、簡単な決め事だった。
それでも、何かが起きた時に一人で逃げなくてよいと思うだけで、アレンの不安は少し薄れた。
「じゃあ、行こうぜ」
少年が再び歩き始める。
今度は先ほどよりも速度を落とし、何度か後ろを確かめていた。
三人は周囲の音に注意しながら、岬の奥へ進んでいく。
岩場が途切れ、道の両側へ低い草が広がっていた。
その中で、淡い光が揺れた。
「何か光った」
アレンが足を止める。
三人が近づくと、草むらの中に小さな花が咲いていた。
細い茎の先に開いた花弁が、青白い光を放っている。
「これが、朧幻の岬の光か?」
少年が花の前へしゃがみ込む。
少女も隣へ屈み、花を傷つけないように観察した。
「これは違うと思う」
「違うのか?」
「月魔草だよ」
少女は葉と花弁へ顔を近づける。
「夜になると、周りの魔力を少しずつ蓄える花なの。蓄えた魔力で、花が青白く光るんだって」
「見たことがあるのか?」
「ううん。本で読んだだけ」
「本で読んだだけで分かるのか?」
「葉の形も、花の色も書いてあったものと同じだから」
少女は少し離れたところから花を見つめた。
「珍しい花ではあるけど、誰も見たことのない光じゃないよ」
「そっか」
少年は少し残念そうだった。
「十分綺麗だけどな」
「うん。綺麗だね」
アレンも二人のそばへ屈んだ。
小さな花が放つ光は、王城で使われている魔道具の明かりとは違っていた。
暗闇を強く照らすわけではない。
ただ、自分がここにいることを示すように静かに光っている。
「すごいな」
アレンが呟くと、少女が顔を上げた。
「月魔草が?」
「それもだけど、君が知っていたことが」
「本を読んだだけだよ」
「それでも、僕は知らなかった」
少女は褒められるとは思っていなかったのか、少し困ったように目を瞬かせた。
「本なら、僕もたくさん読まされるけど」
「読まされる?」
少年が聞き返す。
「……たくさん読むんだ」
アレンは咄嗟に言い直した。
少女は不思議そうにしていたが、深くは尋ねなかった。
「本を読むの、嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。本を読んでる時は、知らない場所へ行けるから」
「分かる」
少女が嬉しそうに頷く。
「本の中には、知らないことがたくさんあるもの」
「実際に見たくはならない?」
「なるよ。だから、今日はここへ来たの」
二人が話している横で、少年は月魔草を見つめていた。
「俺は本を読むより、剣を振ってる方が好きだな」
「そんな気はしてた」
「何でだよ」
「木剣を持ってるから。それに、何も考えずに先へ進もうとするから」
「剣と関係ないだろ!」
少年が抗議する。
少女が笑い、アレンも声を立てて笑った。
今度は少年も不満そうにしながら、二人につられるように笑う。
三人の笑い声が、静かな岬へ小さく響いた。
「見て」
少女が立ち上がり、前方を指差した。
月魔草の先に、岩壁の間を抜ける細い道がある。
「まだ先へ行けるみたい」
「行こう!」
少年は返事を待たずに走り出した。
「あっ、待って!」
少女が声を上げるが、少年はすでに岩壁の間へ入っている。
「絶対に待てない人なんだね」
「そうみたい」
アレンと少女は顔を見合わせ、苦笑しながら後を追った。
細い道を抜けたところで、先を走っていた少年が立ち止まっていた。
「おい、早く来いよ」
先ほどまでよりも抑えた声だった。
アレンと少女も岩壁を抜ける。
その先には、開けた場所が広がっていた。
「うわぁ……」
アレンの口から、自然と声が漏れる。
高い崖の下で、夜の海がどこまでも続いている。
月明かりはない。
それでも、波が岩へ砕けるたびに白い飛沫が浮かび上がり、すぐに暗い海へ溶けていく。
王城から海は見えなかった。
高い場所から眺める王都の街並みも、遠くまで続いているように思えた。
けれど、目の前の海には、それを囲む城壁さえない。
その先に何があるのか。
アレンには想像することしかできなかった。
「すごいな」
少年が呟く。
いつもの勢いはなく、広がる海をじっと見つめていた。
「うん」
アレンも頷いた。
怖いこともあった。
それでも、自分でここへ来なければ、この景色を見ることはできなかった。
「本で見た海より、ずっと広い」
少女も海から目を離さない。
「本物を見るのは初めてか?」
「うん。絵でしか知らなかったから」
少年は崖の端から少し離れた岩へ腰を下ろした。
「こういうのを見ると、世界って広いんだなって思う」
アレンは小さく頷いた。
目の前に広がる海の先にも、王城の本には書かれていない景色が存在しているのだろう。
「世界中を見て回れたら、楽しそうだな」
アレンが呟くと、少年が笑った。
「だったら、行けばいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
「行きたいんだろ?」
「そうだけど」
「なら、いつか行けばいい」
少年はそれ以上難しく考えていないらしい。
けれど、アレンはその言葉を否定できなかった。
今夜も、自分で行くと決めたからここへ来られた。
遠い場所へ行くことも、本当に不可能だと決まったわけではないのかもしれない。
「私も、いろんな場所を見てみたい」
少女が言う。
「本に書かれている場所が、本当にそのとおりなのか確かめたいの」
「やっぱり、三人とも同じだな」
少年が満足そうに海を見た。
三人はしばらく、並んで同じ景色を眺めていた。
名前も知らない。
どこから来たのかも聞かない。
それでも、先ほどまでの沈黙とは違っていた。
言葉がなくても、もう気まずくはない。
やがて、岩へ腰を下ろしていた少年が夜空を見上げた。
「なあ」
アレンと少女が、そちらを見る。
少年は二人の顔を順番に見た。
「お前ら、将来は何になりたいんだ?」
その問いに、アレンと少女は思わず顔を見合わせた。




