第一章 約束①
波音だけが静かに響いていた。
朧幻の岬に辿り着いた三人の子供は、互いの姿を見つめたまま動かない。
月明かりもない夜。
人の住む場所から離れた岬に、子供だけで来るような者がほかにもいるとは思わなかった。
相手が何者なのかも分からない。
簡単に近づく気にはなれなかった。
最初に口を開いたのは、木剣を背負った少年だった。
短く切った茶髪。
日に焼けた肌。
アレンよりも少し背が高く、いかにも外を走り回っていそうな少年だった。
「……お前らも?」
短い問いだった。
何を尋ねているのかは、言葉にされなくても分かる。
長い黄緑色の髪を風に揺らしながら、少女が小さく頷いた。
「たぶん、同じだと思う」
「だよな」
少年も納得したように頷いた。
それ以上の言葉は続かない。
アレンは二人の様子を窺った。
木剣を背負った少年は少し緊張しているようだったが、それでも堂々としていた。
少女は周囲へ視線を巡らせ、ときおり暗い海を見ている。
同じ年頃に見えるのに、どこか落ち着いていた。
「帰らないの?」
少女がぽつりと尋ねた。
「帰らない」
少年は即答した。
「何も起きないかもしれないよ?」
「それでも見たいから」
迷いのない返事だった。
アレンは思わず少年を見る。
「どうして、そんなに見たいんだ?」
「面白そうだから」
「それだけ?」
「それだけ」
少年は当然のことのように言い切った。
「変か?」
「いや……」
変というより、少し羨ましかった。
城の中では、何をするにも理由を求められる。
王族として必要だから。
将来、国を背負うためだから。
何を選ぶ時にも、自分がどうしたいかより先に、王子として正しいかを考えなければならなかった。
けれど、目の前の少年は違う。
面白そうだから見たい。
それだけの理由で、夜の森を越えてここまで来ている。
「お前は?」
少年が少女へ顔を向けた。
「私も帰らないよ」
「怖くないのか?」
「少しは怖い」
「じゃあ、何で来たんだ?」
少女は少し考えたあと、岬の先へ目を向けた。
「知らないから」
「知らない?」
「誰も見たことがないんでしょう?」
「そうらしいな」
「だったら、自分で見てみたいの」
少女の声にも迷いはなかった。
「本当に光るのか。どんな光なのか。どうして第八の新月にしか見られないのか」
そこまで口にして、少女は少しだけ首を傾げた。
「気にならない?」
アレンは返事に詰まった。
気になる。
とても気になる。
ただのお伽話かもしれないと分かっていても、自分の目で確かめたかった。
だから、王城を抜け出してここまで来たのだ。
「……気になる」
「でしょう?」
少女が僅かに笑った。
木剣を背負った少年も、面白そうにアレンを見る。
「なんだ。お前も同じじゃん」
「同じかな」
「同じだろ。気になったから来たんじゃねえのか?」
「それは、そうだけど」
理由は少しずつ違う。
それでも、誰かに連れてこられた者はいない。
三人とも、自分でここへ来ると決めたのだ。
「それで、お前は?」
少年が尋ねる。
「え?」
「何でここへ来たんだ?」
二人の視線がアレンへ集まった。
アレンは少し迷った。
王城から抜け出してきたことまで話せば、自分が誰なのか知られてしまうかもしれない。
けれど、ここへ来た理由まで隠す必要はなかった。
「僕は、外の世界を見たいから」
少年と少女が黙った。
変なことを言っただろうか。
そう思いながら、アレンは岬を囲む暗い森へ目を向けた。
「今まで、自分の行きたい場所へ行ったことがなかったんだ」
いつも誰かがそばにいた。
どこへ行くのかも、何をするのかも決められていた。
「だから今日は、自分で決めた場所へ行ってみたかった」
アレンは遠くに聞こえる波音へ耳を傾けた。
「それが、ここだったんだ」
短い沈黙のあと、少年が笑った。
「いいじゃん」
アレンが顔を上げる。
「俺も、いろんな場所へ行ってみたい」
「私も」
少女も頷いた。
「本でしか知らない場所を、自分で見てみたい」
二人とも、笑わなかった。
変だとも、子供には無理だとも言わなかった。
「そっか」
アレンの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
三人の間にあった緊張が、少しだけ薄れていく。
木剣を背負った少年が、改めて二人を見た。
「それで、お前たちは?」
「何が?」
「名前だよ。俺たち、このままずっとお前とか君って呼ぶのか?」
その問いに、アレンの身体が僅かに強張った。
名前を言えば、アルベニスタ王家の者だと知られる。
城を抜け出したことまで伝われば、すぐに連れ戻されるかもしれない。
王子だと分かった途端、二人の態度も変わるかもしれなかった。
「ごめん」
アレンは少年を真っ直ぐに見た。
「僕は、名乗りたくない」
「何でだ?」
「言いたくないんだ」
少年は少し意外そうにしたが、それ以上追及しなかった。
「そっか」
あっさりとした返事だった。
アレンは目を瞬かせる。
「聞かないの?」
「言いたくないんだろ?」
「うん」
「なら、聞いても仕方ねえじゃん」
少年は今度は少女を見た。
「お前は?」
少女は胸元へ手を添え、少しだけ迷うように視線を伏せた。
「私も、言いたくない」
「お前もかよ」
「ごめんなさい」
「別に謝らなくていいけどさ」
少年は後頭部を掻きながら、アレンと少女を交互に見る。
「二人とも変な奴だな」
「夜中に一人でここへ来た君も、同じだと思う」
少女が返すと、少年は言葉を詰まらせた。
「それを言われると、何も返せねえな」
アレンは思わず笑った。
少女の口元も、僅かに緩んでいる。
少年は不満そうな顔をしたが、すぐに自分も笑い始めた。
「じゃあ、名前は聞かない。それでいいな?」
「うん」
「ありがとう」
互いの名前は知らない。
どこから来たのかも、どのような家で暮らしているのかも聞かない。
今の三人には、その方がよかった。
少年が岬の奥へ目を向ける。
「それで、ここからどうする?」
「どうするって?」
「光を見に来たんだろ。ここで待ってるだけじゃ、何も見つからないかもしれない」
「探しに行くの?」
少女が尋ねる。
「ああ」
「何を探すの?」
「分からん」
あまりにも堂々とした返事だった。
アレンは吹き出し、少女は呆れたように少年を見る。
「何も分からないのに行くの?」
「分からないから探すんだろ」
「それはそうかもしれないけど……」
少女は岬の奥へ視線を向けた。
波音の向こうには、黒い岩場と暗い森が広がっている。
ここまで来た道よりも、さらに明かりが少ない。
少女の指が、胸元で僅かに握られた。
「怖いのか?」
少年が尋ねる。
「……うん」
少女は誤魔化さなかった。
「ここへ来るだけでも怖かったの。一人で外へ出たことなんて、ほとんどなかったから」
それでも来た。
誰も答えを知らない光を、自分の目で確かめるために。
少女はアレンと少年を順番に見た。
「名前は言いたくない」
先ほどと同じ言葉を、もう一度口にする。
「どこから来たのかも、今は聞かないでほしい」
「分かった」
アレンが答えると、少年も頷いた。
「聞かねえよ」
「でも……」
少女は少しだけ言葉を詰まらせた。
やがて、意を決したように二人を見る。
「一人で行くのは怖いから、二人と一緒に行きたい」
飾りのない、素直な言葉だった。
「名前を言わないのに、一緒に来てっていうのは変かもしれないけど」
少女の声が少しだけ小さくなる。
「二人が一緒なら、さっきより怖くないから」
少年は一度目を瞬かせたあと、笑った。
「いいぞ」
「本当に?」
「ああ。俺も一人より三人の方が面白そうだ」
少女は今度はアレンを見る。
断られるかもしれないと思っているのか、その表情には僅かな不安が残っていた。
「僕も一緒に行くよ」
アレンは迷わず答えた。
「僕も、一人じゃない方がいい」
「……ありがとう」
少女の表情が和らいだ。
先ほどまで知らない相手へ向けられていた警戒も、完全ではないにしても薄れている。
「決まりだな」
少年は嬉しそうに岬の奥を指差した。
「三人で探しに行こうぜ」
「だから、何を探すの?」
「行けば分かる」
「やっぱり何も考えてないんだね」
「考えてる。光りそうなものを探す」
「それを最初に言えばいいのに」
少女の言葉に、アレンはまた笑った。
ほんの少し前まで、三人は互いの姿を警戒していた。
今も名前は知らない。
素性を打ち明けるつもりもない。
それでも、自分たちが同じものを見たくてここへ来たことは分かっている。
少年が先頭に立つ。
少女がその後ろへ続きかけて、アレンを振り返った。
「行こう」
「うん」
アレンも二人のそばへ歩み寄った。
一人で王城を抜け出した時には、岬で誰かと出会うなど想像していなかった。
まして、名前も知らない二人と一緒に、その先へ進むことになるとは思わなかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
三人は互いの姿が見える距離を保ちながら、岬の奥へ歩き始める。
先頭を進む少年が、ときおり足を止めて後ろを確かめる。
少女も周囲を観察しながら、二人から離れないように歩いていた。
アレンは二人の背中を見つめる。
護衛でも、家庭教師でもない。
王子として接しているわけでもない。
何者なのかも知らないまま、同じものを探して歩く二人。
誰に決められたのでもない。
自分で二人と一緒に行くと決めた。
それだけで、暗い岬の先に何が待っているのか、少しだけ楽しみになっていた。




