プロローグ 後編
その日の夜。
明かりの消えた廊下を、アレンは足音を忍ばせて進んでいた。
胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。
見つかれば、間違いなく止められる。
王子が夜中に一人で城を抜け出そうとしているのだから、当然だった。
廊下の角から足音が近づいてくる。
アレンは柱の陰へ身を隠した。
見回りの兵士が目の前を通り過ぎていく。
息を止め、その背中が見えなくなるまで待った。
「……よし」
小さく呟き、反対側の通路へ駆け込む。
向かったのは、昼のうちに確認しておいた裏庭だった。
庭園の端には、王城を囲む城壁とは別に、敷地を区切るための低い石壁がある。
昼間であれば手入れをする者がいるが、今は誰の姿もなかった。
アレンは石の隙間へ足を掛け、両腕で身体を持ち上げる。
何度か靴が滑った。
服の裾を石へ引っかけながら、どうにか壁の上へ辿り着く。
反対側は思っていたより高かった。
一瞬だけ躊躇したが、目を閉じて飛び降りる。
「っ……!」
着地した足に鈍い痛みが走った。
その場へしゃがみ込み、声を押し殺す。
足を動かしてみると、痛みはあるが歩けないほどではなかった。
アレンは立ち上がり、壁の向こうを振り返った。
王城の屋根が、暗い夜空の下に浮かんでいる。
今なら、まだ戻れる。
何事もなかったように部屋へ帰れば、誰にも気づかれずに済むかもしれない。
けれど、壁を登り直す気にはなれなかった。
護衛はいない。
家庭教師もいない。
どこへ向かうのかを決める者もいない。
目の前には、これまで窓から眺めることしかできなかった夜道が続いている。
怖くないわけではない。
城の外には魔物がいると、幼い頃から何度も聞かされてきた。
それでも、初めて自分で決めた行き先を、何も確かめないまま諦めたくはなかった。
アレンは畳んだ地図を確かめ、朧幻の岬へ向けて走り出した。
◇
夜の森は、昼間よりもずっと広く感じられた。
ハダルは木剣を背負い、海から届く波音を頼りに進んでいた。
頭上では木々の枝が重なり、星の光さえほとんど届かない。
「なんか、冒険って感じだな……」
小さく呟く。
明日の朝、皆へ光の話をする自分を想像した。
きっと、最初は信じてもらえない。
証拠を見せろと言われ、また笑われるかもしれない。
それでも、自分が見たものを話せば、皆も面白がってくれるはずだった。
帰れば、いつもの仲間たちがいる。
そう思えば、一人で歩く夜道も耐えられる。
近くの草むらが揺れた。
ハダルは足を止め、背中の木剣へ手を伸ばす。
「……魔物か?」
葉の擦れる音が近づいてくる。
木剣を抜き、両手で構えた。
やがて草むらから飛び出してきたのは、小さな野兎だった。
「うわっ!」
野兎はハダルの脇を駆け抜け、そのまま暗闇へ消えていく。
ハダルは木剣を構えたまま固まっていた。
周囲に誰もいないことを確かめてから、ゆっくりと息を吐く。
「驚かせるなよ……」
剣を持ってきたからといって、本物の魔物と戦えるとは限らない。
昼間の訓練では、年上の傭兵から一本取ることさえできなかった。
それでも、ここまで来て引き返す気にはなれなかった。
今戻れば、誰にも気づかれずに済むかもしれない。
だが、次の第八の新月が訪れる頃には、今夜のことを後悔している気がした。
ハダルは木剣を背負い直す。
「絶対に見てやる」
自分を奮い立たせるように言い、波音のする方角へ歩き続けた。
◇
研究所の夜は遅い。
研究員たちは時刻など忘れたように、それぞれの研究へ没頭している。
ミランは鞄を抱え、人の少ない廊下を進んでいた。
鞄の中には、写し取った地図と小さな灯りが入っている。
角を曲がる前に足を止め、向こう側を覗く。
誰もいない。
足音を抑えながら、通用口へ向かった。
普段は薬草や資材を運び込むために使われる扉は、荷物の片づけを終えたばかりなのか、僅かに開いていた。
扉の隙間から、冷たい夜風が入り込んでいる。
ミランは一度だけ、研究所の奥を振り返った。
父へ何も言わずに出れば、困らせるかもしれない。
けれど、今から許可を求めても止められる。
「見たら、すぐに帰るから」
誰に聞かせるでもなく呟き、扉へ手を掛けた。
音を立てないように扉を開き、外へ出る。
これまで窓越しに眺めていた夜の空気が、直接頬へ触れた。
目の前にあるのは、灯りのない道と、その先に広がる暗い森だった。
ミランはその場で足を止める。
一人で研究所の外へ出たことはない。
魔物に出会うかもしれない。
道を間違えるかもしれない。
本に書かれていた知識だけで、無事に辿り着けるとも限らない。
不安を数え始めれば、いくらでも浮かんでくる。
それでも、足は通用口へ戻らなかった。
誰も見たことがないのなら、自分で見てみたい。
本当に光るのか。
どのような光なのか。
その先に、まだ誰も知らない何かがあるのか。
答えは本の中にはない。
ミランは鞄から地図を取り出し、朧幻の岬へ続く道を確かめた。
「行ってみよう」
期待を胸に、ミランは夜道へ一歩を踏み出した。
◇
朧幻の岬へ辿り着いたアレンは、膝へ両手をついた。
「はぁ……はぁ……」
思っていたより遠かった。
途中で何度も道を間違えそうになり、そのたびに地図と海の音を頼りに進んできた。
足は重く、息も苦しい。
それでも、自分の足でここまで来られた。
呼吸を整えながら、アレンは顔を上げる。
黒い海。
風に揺れる草むら。
月明かりのない岬には、波が岩へ砕ける音だけが響いている。
まだ、不思議な光は見えない。
早く着きすぎたのだろうか。
それとも、やはりお伽話だったのだろうか。
アレンが周囲を見回した、その時だった。
「……あれ?」
岬の入口近くに、人影が見えた。
木剣を背負った、自分と同じくらいの背丈の子供だった。
向こうもアレンに気づいたらしく、驚いたように足を止めている。
さらに、別の方角から草を踏む音がした。
二人が同時に振り向く。
長い髪を夜風に揺らしながら、もう一人の子供が岬へ入ってきた。
少女も二人の姿に気づき、その場で立ち止まる。
誰も言葉を発しない。
互いが何者なのか分からない。
なぜ月明かりもない夜に、こんな場所へ来たのかも分からない。
ただ、自分以外にも同じお伽話を信じ、朧幻の岬まで来た者がいる。
その事実だけは、三人とも理解していた。
海風が、三人の間を通り抜けていく。
波音だけが静かに響いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
本作『繋ごう、高らかに』は、「繋がり」と「約束」をテーマにした物語です。
アレンたちの旅はまだ始まったばかりですが、少しでも続きを読んでみたいと思っていただけたなら嬉しい限りです。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
ブックマークや評価をいただけると今後の執筆の大きな励みになります。
次回より第一章「約束」が始まります。
更新は毎週火曜・金曜13:00を予定しております。
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