第五章 見えない亀裂⑤
黒い器具が砕けた。
破片が弾け飛び、近くにいた調査員の頬を切り裂く。
「装置を止めろ!」
「止まりません!」
地面を走る光は消えない。
術式から手を離しても。
注ぎ込んだ魔力を断っても。
空間に生じた亀裂は、自ら広がり続けていた。
「他の器具を引き抜け!」
調査員の一人が地面へ手を伸ばす。
黒い器具へ触れた瞬間。
男の腕から力が抜けた。
「何をしている!」
「魔法が……」
震える手が、器具の上へ落ちる。
「身体強化が使えない」
魔力は残っている。
それでも。
力へ変えることができなかった。
亀裂の中で絡み合っていた二つの魔力が、森へ漏れ出していく。
一つは、草木へ染み込むように広がり。
もう一つは、それらを内側から食い破るように侵していた。
周囲の木々が軋む。
葉が色を失い。
太い幹が、不自然に膨れ上がった。
「退避しろ!」
誰かの叫びと同時に。
亀裂の奥から伸びていた腕が、地面へ触れた。
五本あるはずの指は、途中で枝分かれしている。
爪のようなものが土へ食い込み。
亀裂の向こうから、巨大な身体を引きずり出した。
獣にも見えた。
人にも見えた。
背には樹木のような突起が伸び、その隙間を黒い魔力が脈打っている。
足は左右で形が異なり。
身体の一部は、輪郭さえ保てずに崩れていた。
「何だ……あれは」
異形の魔物は、地面へ倒れ込んだ。
苦しむように身体を震わせる。
精霊界と魔界。
二つの異なる魔力が、その身体の中で互いを押し潰していた。
魔力は傷口から漏れ出し。
失われた部分を埋めようと、周囲の力を無差別に取り込んでいく。
近くにあった黒い器具が、次々と光を失った。
異形の魔物が顔を上げる。
頭部に浮かんだ複数の目が。
その場にいる人間達を捉えた。
「逃げろ!」
振り下ろされた腕が、地面を抉った。
◇
アレンは村の北側へ結界を広げていた。
隣では、ガルドがさらに大きな結界を重ねている。
「もう少し右だ」
「はい」
アレンは結界の端を動かした。
村の北側を覆い。
東西の結界へ重ねる。
これなら、森から何かが近づいても反応を捉えられる。
「繋がりました」
「維持しろ」
ガルドの声は険しい。
アレンは結界へ魔力を注ぎながら、北側の森を見つめた。
「森にいた人達が、あの器具を置いたんですか」
「ああ」
「世界を繋ぐために?」
「そのつもりだろう」
「どうして、そんなことを」
「利益だ」
アレンはガルドを見る。
「利益?」
「向こうの世界にしかないものを、自分達だけで手に入れるつもりだ」
それだけのために。
村の近くで、何が起きるかも分からないことを始めたというのか。
「ガルドさんと同じことができると思ったんでしょうか」
「俺と同じである必要はないと考えたんだろう」
ガルドは森から目を離さない。
「穴さえ開けば、その後はどうにでもなるとな」
その時だった。
アレンの結界が大きく震えた。
「っ!」
これまでの小さな揺れとは違う。
北側だけではない。
重ねた結界のすべてへ、何かが流れ込んできた。
「魔力を弱めろ!」
「でも、それだと結界が!」
「いいから弱めろ!」
アレンは言われるまま、結界へ注ぐ魔力を抑えた。
直後。
結界の表面を、濁った魔力が通り過ぎていく。
強いまま維持していれば、結界ごと引き裂かれていた。
「今のは……」
「向こう側から流れ込んだ魔力だ」
ガルドが結界へ片手を当てる。
表面を走っていた揺れが、僅かに収まった。
だが。
森の奥から、新たな音が届いた。
木が倒れる。
一つではない。
何本もの木々が、村へ近づくように倒れていく。
「ガルドさん」
「ああ」
ガルドは結界の向こうを睨んだ。
「何か来る」
◇
「教会へ向かえ!」
レンの声が村へ響いた。
北側の森から聞こえる轟音に、家から出てきた村人達が立ち尽くしている。
「荷物は持つな! 子供と歩けない人を先に!」
レンが村人達を教会へ誘導する。
フィナは怯えて動けなくなった子供の前へ屈み込んだ。
「大丈夫よ」
小さな身体を抱き上げる。
「お父さんとお母さんは?」
「あっちにいる。教会へ行けば会えるから」
フィナは子供を抱え、走り出した。
その後ろを、ユナと母親が追う。
「ミレアさん!」
離れた場所から声が上がった。
足を痛めた老人が、家の壁へ寄りかかっている。
「私が行くわ!」
ミレアが駆け寄り、その腕を自分の肩へ回した。
「レン! 先に皆をお願い!」
「母さんは?」
「すぐに追いつく!」
レンは迷った。
ガルドから命じられたのは、家族を守ることだった。
だが。
目の前には、教会へたどり着けない村人が何人もいる。
「フィナ!」
「分かってる!」
フィナは子供を近くの村人へ預け、ミレアのもとへ戻った。
「私も手伝う」
「教会へ行きなさい」
「一人より二人の方が早いでしょ」
「本当に、誰に似たのかしら」
「お母さんじゃない?」
ミレアは困ったように笑った。
「そうかもしれないわね」
「話してないで急ぐぞ!」
レンが老人の反対側を支える。
「父さんに怒られるのは俺なんだからな」
「レンのせいにしておくわ」
「母さんまで!」
三人は老人を支え、教会へ向かう。
その時。
村の北側から、獣のものとは思えない声が響いた。
笑い声にも。
泣き声にも聞こえる。
いくつもの声を無理に重ねたような咆哮だった。
村人達の足が止まる。
「振り返るな!」
レンが叫んだ。
「教会まで走れ!」
◇
異形の魔物は、木々を押し倒しながら進んでいた。
その身体は、歩くたびに崩れている。
樹木のような突起が折れ。
黒い肉が地面へこぼれ。
そこから霧のような魔力が漏れ出していた。
それでも止まらない。
失われた魔力を補おうとするように。
生命の気配が集まる方角へ進んでいく。
滝下の村へ。
逃げ遅れた調査員が、倒れた木の陰から立ち上がった。
「待て……」
震える手を異形へ向ける。
魔力を集め。
魔法を放とうとする。
何も起きなかった。
異形の目が、ゆっくりと男へ向く。
次の瞬間。
地面が大きく抉れた。
◇
「来るぞ!」
ガルドの声と同時に。
森を覆っていた木々が、左右へ弾け飛んだ。
巨大な影が姿を現す。
アレンは息を呑んだ。
魔物であることは分かる。
けれど。
どの生き物にも似ていない。
身体を覆う魔力さえ、一つに定まっていなかった。
淡い光が全身へ広がったかと思えば。
次の瞬間には、濁った闇がその光を内側から食い破る。
二つの力が争うたびに、肉体が裂けていく。
「苦しんでる……?」
異形は足を止めた。
複数の目が、結界に覆われた村を見る。
その奥にある。
人々の気配を見つめていた。
「アレン」
ガルドが前へ出る。
「結界を切らすな」
「ガルドさんは?」
「あれを村へ入れない」
異形の魔物が地面を蹴った。
巨大な身体が、一瞬で距離を詰める。
振り上げられた腕が、結界へ叩きつけられた。
轟音が響く。
結界の表面へ無数の亀裂が走った。
「ぐっ……!」
アレンの両腕へ、引き裂かれるような痛みが走る。
魔物の力だけではない。
触れた場所から流れ込む異界の魔力が、結界の形を内側から崩している。
「形を戻せ!」
「はい!」
アレンは歯を食いしばり、結界へ魔力を注いだ。
亀裂が塞がっていく。
だが、異形の魔物は再び腕を振り上げた。
ガルドが結界の外へ飛び出す。
幾重もの光の壁が、異形の腕へ巻きついた。
勢いを失った腕が、地面へ叩きつけられる。
「下がれ」
ガルドの周囲へ、新たな結界が展開された。
一枚。
二枚。
数え切れない光の壁が、異形の魔物を囲んでいく。
その全身を押さえ込み。
村とは反対側へ押し返す。
異形が吼えた。
身体から二つの魔力が溢れ出す。
光の壁が揺れた。
一枚が崩れ。
続けて二枚目が砕け散る。
ガルドの頬を汗が伝った。
「これほどとはな」
異形の魔物は、崩れながらも前へ進もうとしていた。
傷ついた身体を引きずり。
自らを壊しながら。
それでも村を目指している。
アレンは結界を維持しながら、背後へ目を向けた。
村人達が教会へ走っている。
レンが先頭で声を張り上げ。
フィナとミレアが、歩けない者を支えている。
ユナも母親の手を引きながら、何度もこちらを振り返っていた。
守らなければならない。
あの場所を。
あの人達を。
「ガルドさん!」
「ああ!」
二人は同時に結界へ魔力を注いだ。
光の壁が重なり。
村の北側を覆っていく。
異形の魔物が三度目の腕を振り上げた。
「止めるぞ、アレン!」
「はい!」
振り下ろされた腕と、二人の結界が衝突した。
夜の村を。
白い光が埋め尽くした。




