第五章 見えない亀裂③
翌朝。
教会の一室では、ソフィアが野兎を診ていた。
昨夜より呼吸は落ち着いている。
それでも。
自分で立ち上がれるほどには回復していなかった。
「傷も病気も見つかりません」
ソフィアが野兎の前へ、細かく刻んだ野菜を置く。
鼻先は動いたが、口をつけようとはしない。
「食べる力も残ってないのかな」
アレンが呟く。
「それだけではないと思います」
ソフィアは薄めた薬を、野兎の口元へ一滴だけ垂らした。
だが。
薬は飲み込まれず、口の端から流れ落ちた。
「薬も駄目なの?」
ユナが尋ねる。
「治すためのものを、身体が受け入れられないようです」
フィナは自分の両手を見つめた。
「私の回復術が弱かったわけじゃない?」
「フィナさんの問題ではありません」
「じゃあ、もう一回試してみたらどうだ?」
レンが野兎を覗き込む。
「今なら効くかもしれないだろ」
「弱っている相手に、何度も魔法を使う方が危ないの」
「でも、何もしなかったら治らないだろ」
「何でも勢いで決めないで」
「俺は心配して言ってるんだよ」
「私だって心配してる!」
フィナの拳が、レンの脇腹へ突き刺さった。
「ぐふっ!」
レンが身体を折り曲げる。
「どうして殴るんだよ!」
「顔が腹立つから」
「顔は関係ないだろ!」
「朝から元気」
ユナが小さく呟いた。
「元気じゃない!」
野兎の耳が、僅かに動いた。
「それだけ騒げるなら大丈夫だね」
「アレン兄まで!」
普段と変わらないやり取りだった。
けれど。
動けずにいる小さな命が、その場の不安まで消してはくれなかった。
◇
朝食を終えた頃。
ガルドは村人達を広場へ集めた。
「今日から、北側の森への立ち入りを禁じる」
村人達の間にざわめきが広がる。
北側の森は、村にとって重要な狩り場だ。
薬草や木の実を採る者も多い。
「原因が分かるまでだ。狩りは東か西へ回れ。北側で採れたものも使うな」
理由を尋ねる声も上がったが、ガルドはそれ以上説明しなかった。
村人達が広場を離れた後。
アレンはガルドのもとへ近づいた。
「昨夜、森へ行ったんですよね」
「何のことだ」
「靴に北側の黒い土がついてます」
ガルドが足元を見る。
「よく見ているな」
「策士ですから」
「まだ名乗るほどではない」
「厳しいですね」
アレンが苦笑する。
ガルドは北側の森へ目を向けた。
「俺の結界も、同じ場所で歪んだ」
「ガルドさんの結界も?」
「ああ。お前の使い方が悪かったわけじゃない」
アレンは小さく息を吐いた。
自分の未熟さが原因ではないかと、昨日から考えていた。
「何が起きているんですか」
「まだ分からん」
「心当たりは?」
ガルドは僅かに間を置いた。
「昔、似た感覚に触れたことがある」
「いつですか」
「今のお前が知る必要はない」
「また子供扱いですか」
「知らないものを知っただけで、強くなったつもりになるな」
突き放すような言葉だった。
しかし。
ガルドの横顔には、隠しきれない険しさがある。
「村の中を見ておけ。普段と違うものがあれば、すぐに知らせろ」
「分かりました」
ガルドは一人で北側の森へ歩き出した。
「それで、村中を調べるのか?」
「そうだね」
アレン達は手分けして、村の中を確認していた。
レンは家畜。
フィナは村人達の体調。
ユナは井戸水や作物。
アレンは結界を使い、昨日と同じ反応を探している。
「面倒だな」
レンが大きく伸びをした。
「面倒なら、一人で森へ行ってもいいのよ?」
フィナが笑顔で拳を握る。
「行かない」
「素直ね」
「森よりフィナの方が危ないからな」
「何か言った?」
「鳥が鳴いたって言った」
「鳥の声にしては腹立たしかったけど」
「気のせいだろ」
レンが早足で距離を取る。
フィナの拳が、僅かなところで空を切った。
「逃げた」
ユナが言う。
「成長したね」
「そこは感心するところじゃないでしょ!」
南側にも東側にも、目立った異常はなかった。
家畜は落ち着き、井戸水にも変化はない。
やがて。
四人は村の北端へたどり着いた。
「ここで最後だね」
アレンが森へ片手を向ける。
淡い光が広がり、小さな結界となって村と森の境を包んだ。
最初は何も起きなかった。
だが。
森に最も近い部分だけが、僅かに揺れた。
「今、動いた?」
「うん」
昨日のように崩れはしない。
それでも。
確かに何かが触れたような揺れが残っている。
「森の中だけじゃなかったのか」
レンの声から、いつもの軽さが消えた。
「ガルドさんに知らせよう」
その時。
ユナが近くの畑へ屈み込んだ。
端に植えられた薬草の葉が、一枚だけ萎れている。
北側の森で採れたものではない。
「これも」
ユナは葉へ触れず、顔を近づけた。
「森にあったのと、同じ匂いがする」
◇
ガルドが北側の森へ戻ると、昨夜まで埋められていた器具は回収されていた。
地面には複数人の靴跡が残り、森の北へ続いている。
木に刻まれた三本の印も、一部が削り取られていた。
「待てと言ったはずだ」
今なら、まだ追いつけるかもしれない。
だが。
村にも異変が現れ始めている。
ここで自分が離れれば、次に何かが起きた時、村を守る者がいなくなる。
ガルドは北へ続く足跡を睨んだ。
やがて。
その場に背を向けた。
◇
「明かりを」
男の声が、暗い森へ響いた。
調査員の一人が片手を掲げる。
掌へ魔力が集まった。
火を灯すだけの簡単な魔法。
しかし。
何も起きなかった。
「どうした」
「分からない。魔力はある」
もう一度、指先へ意識を集中させる。
確かに魔力は動いている。
それでも。
火は生まれなかった。
別の男が、黒い観測器具を取り出す。
表面の文字が、これまでにないほど激しく明滅していた。
「反応が強過ぎる」
「発生源が近いのか?」
答える者はいなかった。
「戻るぞ」
先頭の男が告げる。
「発生源はどうする」
「今は戻る」
彼らはようやく理解していた。
自分達が追っていたものは。
ただ観測するだけで済む現象ではない。
掌には、今も魔力が集まっている。
それでも。
最後まで、火が灯ることはなかった。




