第五章 見えない亀裂②
それから数日が過ぎた。
滝下の村には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
滝の音が響き、畑では村人達が働いている。
けれど。
その日は、村の入口だけが騒がしかった。
「何もいなかった」
狩りから戻った男が、険しい表情で北側の森を振り返る。
「兎も、鳥も、魔物さえもだ。古い切り株より先へ入った途端、何の気配もしなくなった」
狩人達の手に獲物はない。
既にガルドへも報告したという。
アレンは北側の森へ目を向けた。
村から見える景色に、変わったところはない。
木々は風に揺れ、空には鳥も飛んでいる。
だからこそ。
森の奥には何もいなかったという言葉が、不気味に残った。
◇
「これ、おかしい」
昼を過ぎた頃。
教会で作業をしていたユナが、小さな器を見つめていた。
粉末にした薬草と木の実が、器の中で不自然に分かれている。
「何度混ぜても戻るの」
「素材が古いんじゃない?」
フィナが薬草を一つ手に取る。
「今朝、採れたもの」
「どこで?」
「北側の森」
ユナの答えに、フィナの表情が変わった。
そこへ現れたアレンは、頼まれるまま器の周囲へ小さな結界を展開した。
半透明の光を、薬草へ近づけていく。
その瞬間。
結界の一部が、僅かに揺れた。
「今のは?」
「分からない」
アレンは結界を消し、もう一度同じことを試した。
結果は変わらなかった。
薬草へ近づけた部分だけが、何かに押し返されるように揺れている。
「何かある」
だが、それが何なのかまでは分からない。
「だったら、森へ行って確かめよう」
レンが立ち上がる。
「まだガルドさんが戻ってないでしょ」
「見に行くだけだって」
「一人で行くつもりだったでしょ」
「行くならアレン兄も誘う」
「そういう問題じゃない」
「フィナには聞いてない」
「何?」
「何でもない」
「正解だ」
教会の入口から声が届いた。
ガルドだった。
器の中身と、アレンの結界に起きた反応を確認する。
しばらく考えた後。
ガルドは四人へ北側の森を調べるよう告げた。
「古い切り株より先で異変を感じたら、深追いするな。何か見つけても触るな」
「父さんは?」
「俺は村の周囲を調べる」
最後にアレンを見る。
「日が傾く前に戻れ」
「はい」
◇
森へ入ってすぐは、いつもと変わらなかった。
鳥の声が聞こえる。
風が葉を揺らし、小動物が木々の間を走っている。
けれど、奥へ進むにつれて。
一つ。
また一つと。
生き物の声が消えていった。
「ここからだ」
古い切り株を越えたところで、レンが足を止める。
土の上には、鹿や兎、小型の魔物の足跡が重なっていた。
種類は違う。
それでも、向かっている方角は同じだった。
どの足跡も、北側の森から離れようとしている。
「ここにいた生き物が、まとめて逃げたんだ」
レンの声から、いつもの軽さが消えていた。
四人は互いの距離を縮め、さらに奥へ進む。
しばらくして。
フィナが木の根元へ駆け寄った。
「まだ生きてる」
倒れていたのは一匹の野兎だった。
外傷はない。
それでも呼吸は浅く、身体を起こすこともできずにいる。
フィナが両手を近づける。
淡い光が生まれ、野兎の身体を包んだ。
しかし。
回復術の光は身体の表面を滑り、内側へ馴染もうとしなかった。
「何、これ……」
もう一度試しても変わらない。
「魔力は届いてる。でも、何かに邪魔されてるみたい」
無理に続ければ、野兎の負担になるかもしれない。
四人はソフィアに診せるため、野兎を村へ連れ帰ることにした。
「俺が持つ」
レンが布に包まれた野兎を受け取る。
普段よりも、少しだけ静かな声だった。
「アレン兄」
引き返そうとしたレンが、近くの木を示す。
幹に、三本の直線が刻まれていた。
獣の爪痕ではない。
周囲の木にも、一定の間隔で同じ印がある。
「村の人が使う印じゃない」
足元の土も、一部だけ色が違っていた。
誰かが掘り返し、埋め戻した跡だった。
「何か埋まってるのかな」
「触らない方がいい」
アレンの言葉に、レンも手を止める。
「でも、誰かがここに来てたってことだよな」
答えられる者はいなかった。
アレンは片手を前へ出す。
小さな結界が広がり、周囲の木々を包んでいった。
風が光の表面を撫でる。
何も起きない。
さらに奥へ広げた瞬間。
結界の一部が大きく歪んだ。
「っ……」
アレンは魔力を込め、歪んだ箇所を修復しようとする。
だが。
どれだけ形を整えても、その場所だけ光の膜が定着しなかった。
結界が破られたわけではない。
何かに攻撃された感覚もなかった。
作り出したはずの光の膜が、そこだけ形を保てずに崩れていく。
「どうしたの?」
「結界が張れない」
アレンは何もない空間を見つめた。
「いや。張っても、そこだけ残らないんだ」
目の前には何もない。
木も。
岩も。
魔物もいない。
それなのに。
何もないはずの空間に触れた途端、光の膜が形を失っていく。
背筋へ冷たいものが走る。
アレンはすぐに結界を消した。
「戻ろう。ガルドさんへ報告する」
レンは森の奥を見つめた。
まだ調べたいのだろう。
けれど。
腕の中にいる野兎へ目を落とし、小さく頷いた。
「分かった」
四人は来た道を引き返す。
その背後で。
誰もいない空間が。
一度だけ、水面のように揺れていた。
◇
村へ戻った四人は、森で見つけたものをガルドへ報告した。
北側の森から逃げた生き物達。
回復術を受けつけなかった野兎。
木へ刻まれた三本の印。
掘り返され、埋め戻された土。
そして、アレンが張った結界の一部だけが、形を保てなかった場所。
ガルドは黙って聞いていた。
「今日はもう森へ入るな」
「明日は?」
レンが尋ねる。
「俺が確認する」
それ以上。
ガルドは答えなかった。
◇
夜。
村の灯りが消えたあと。
ガルドは一人で北側の森へ入った。
木へ刻まれた三本の傷を辿り、アレン達が見つけた場所へ向かう。
目の前には何もなかった。
どこにでもある森の一角にしか見えない。
ガルドが片手を前へ出す。
淡い光が広がり、巨大な結界となって木々を包んだ。
アレンのものより大きく。
厚く。
僅かな揺らぎもないはずだった。
だが。
結界の一部が歪んだ。
光の膜が形を失い、僅かに崩れ始める。
ガルドはすぐに魔力を強めた。
消えかけた光が再び形を取り戻す。
それでも。
同じ場所だけは、絶えず歪み続けていた。
アレンでは維持できなかった結界を、ガルドは力ずくでその場へ留める。
やがて。
歪んだ光の向こうから、微かな魔力が流れ込んできた。
ガルドは目を細める。
この感覚には覚えがあった。
三つの世界を繋いだ時。
異なる世界の境界へ、初めて結界を触れさせた時のものと似ている。
「あり得ない」
あれから境界は安定していた。
少なくとも。
人里の近くで、このような揺らぎが生じたという報告は受けていない。
ガルドの脳裏に、アレン達の報告が蘇る。
混ざり合わなかった薬草。
回復術を受けつけなかった野兎。
そして、一部分だけ形を保てなかったアレンの結界。
全てが同じ異変によるものかは分からない。
だが。
ここで何かが起きていることだけは、疑いようがなかった。
ガルドは木へ刻まれた印へ目を向ける。
掘り返された土も。
一定の間隔で残された傷も。
自然に生まれたものではない。
「誰が触れた」
低い声が森へ落ちる。
答える者はいなかった。
◇
ガルドが立ち去ってから。
闇の中より、複数の人影が現れた。
「気付かれたな」
男の一人が、ガルドの立っていた場所を見る。
「中止するか」
「いや。場所を変える」
「ガルド殿からは、まだ待てと言われている」
「待っている間にも、揺らぎは移動している」
男は木へ刻まれた三本の印に指を触れた。
淡い光が指先へ集まり、すぐに消える。
「ここで観測できるものは、もう残っていない」
別の男が掘り返された土へ屈み込んだ。
土の中から、細長い黒色の器具を引き抜く。
表面には見慣れない文字が刻まれていたが、その多くは既に光を失っていた。
「次はどこへ」
男は森の奥へ目を向ける。
生き物の声が消えた暗闇の先から。
冷たい風が吹いてきた。
「北だ」
「発生源を確かめる」
人影は器具を回収し、静かに森の奥へ消えていった。




