第五章 見えない亀裂①
朝の滝下の村には、今日も変わらない音が響いていた。
轟々と流れ落ちる滝の音。
家々から立ち上る朝餉の煙。
畑へ向かう村人達の声。
最初は眠りを妨げるほどうるさく感じていた滝の音も、今では目覚めを知らせる鐘のようなものだった。
「アレン。いつまで寝てるの」
階下からミレアの声が飛んでくる。
「もう起きてます」
「起きてるなら早く下りてきなさい。朝ご飯が冷めるわよ」
「はい」
返事をしながら窓の外へ目を向ける。
窓辺に立つアレンは、もう十歳の少年ではなかった。
背は随分と伸びた。
身体にもガルドとの訓練で鍛えられた筋肉がついている。
まだガルドには遠く及ばないが、少なくとも村へ来た頃の自分とは比べものにならない。
あれから五年。
アレンは十七歳になっていた。
そして今年は。
幼い頃に交わした約束から、十年目を迎える年でもあった。
十年後。 もう一度、朧幻の岬で会う。
あの夜に出会った二人も覚えているだろうか。
答えは分からない。 それでも。 アレンは今も忘れていなかった。
◇
「遅いぞ、アレン兄!」
階下へ下りると、既にレンが食卓についていた。
十七歳になったレンの前には、空になった皿が置かれている。
「まだ朝食が始まったばかりだろ」
「俺はもう食べ終わった」
「早過ぎないか」
「アレンが遅いんだ」
「違うわよ」
料理を運んでいたフィナが呆れたように息を吐く。
「レンが早過ぎるだけ」
「父さんはもう外にいるぞ」
「父さんは、あんたみたいに丸飲みしてないの」
「丸飲みじゃない!」
五年が過ぎても、二人のやり取りは変わっていない。
レンは剣士として随分強くなり、今では村の狩りや周辺の警戒も任されている。
フィナも十六歳になった。
神官としてソフィアを支え、簡単な怪我や病気なら一人でも対処できる。
それでもレンを言葉で圧倒する姿だけは、幼い頃と何も変わっていなかった。
「おはよう、アレンお兄ちゃん」
隣から穏やかな声が聞こえた。
「おはよう、ユナ」
十五歳になったユナがパンの入った籠を差し出してくる。
昔のように誰かの後ろへ隠れることはない。
人前で話すことにはまだ慣れていないが、村人達から創作の依頼を受けられるほどには成長していた。
「これ、今日焼いたの」
「ユナが?」
「うん。薬に使った木の実が余ったから、ミレアさんに教えてもらった」
一つ手に取り、口へ運ぶ。
ほのかな甘みと木の実の香りが広がった。
「美味しい」
「本当?」
「うん」
ユナが嬉しそうに笑う。
その直後、レンが籠へ手を伸ばした。
「俺も食う」
「レンはもう三つ食べたでしょ」
ユナは籠を素早く引き寄せる。
「まだ三つだぞ」
「もう三つ」
「ユナまでフィナみたいになってきたな」
「どういう意味よ」
フィナがレンを見る。
食卓に笑い声が広がった。
いつからか。
皆で同じ食卓を囲むことが、当たり前になっていた。
アレンは温かなスープを口へ運ぶ。
何か特別なことが起きるわけではない。
それでも。
こうして皆と食事をする時間が好きだった。
◇
朝食を終えると、アレンとレンは村外れの広場へ向かった。
そこではガルドが既に待っていた。
五年前と変わらない大柄な身体。
手には二本の木剣が握られている。
「遅い」
「朝食はちゃんと食べろと言ったのはガルドさんですよ」
「遅れない範囲で食べろ」
「難しいですね」
ガルドは答えなかった。
代わりに木剣を一本投げる。
レンが受け取った。
「今日は剣聖師として相手をする」
レンの表情が僅かに引きつった。
「またそれか」
「構えろ」
それだけでレンの表情が変わった。
木剣を握り、腰を落とす。
五年前とは違う。
構えに迷いはない。
レンが地面を蹴った。
木剣を正面から振り下ろす。
ガルドが受け止めた。
乾いた音が響く。
レンは止まらない。
すぐに木剣を引き、今度は横から振るう。
一度。
二度。
三度。
攻撃を重ねていく。
昔なら一撃で木剣を弾かれていた。
今ではガルドと数合、打ち合えるようになっていた。
それでも。
ガルドへ届くには、まだ遠い。
「足が止まっている」
「分かってる」
「分かっていない」
ガルドの木剣がレンの手元を打つ。
僅かに力が緩んだ。
その瞬間、身体を押される。
レンは大きく体勢を崩した。
それでも倒れない。
地面を踏み締め、再び前へ出る。
「まだだ」
「遅い」
足を払われた。
今度こそ地面を転がる。
レンはすぐに起き上がった。
「もう一回」
「来い」
稽古は続いた。
レンが向かう。
倒される。
立ち上がる。
もう一度向かう。
何度繰り返しても、ガルドは休ませなかった。
「近い」
木剣が肩へ当たる。
「迷うな」
攻撃を弾かれる。
「前を見ろ」
再び地面へ転がされる。
それでも。
レンは立ち上がった。
昔から変わらない。
何度倒されても前へ出る。
その真っ直ぐさが、レンの強さだった。
◇
一時間後。
レンは草の上へ大の字になっていた。
「もう動けない」
「休め」
ガルドは短く言った。
「やっと終わった」
「休めとは言った」
ガルドの視線がアレンへ向く。
「終わりとは言っていない」
レンが顔を上げた。
何か言おうとしたが、声にはならなかった。
「見ていろ」
ガルドはアレンへ向き直る。
「次はお前だ」
「はい」
アレンは広場へ進んだ。
ガルドが木剣を構える。 アレンは両手を前へ出した。
「来い」
ガルドが踏み込む。
アレンは正面へ結界を展開した。
木剣が結界へ叩きつけられる。
重い衝撃が腕へ伝わった。
アレンは後ろへ下がる。 自分とガルドの間へ、次々と光の壁を展開した。
一枚。
二枚。
三枚。
ガルドが追ってくる。
木剣が一枚目の結界を砕いた。
二枚目を避ける。
ガルドは、正面から壊すより避けた方が早いと判断した。
そして。
三枚目の前で、僅かに進路を変えた。
それを待っていた。
三枚目は本物の結界ではない。
策士の力で作り出した幻だった。
存在しない壁をガルドが避ける。
その先へ。
本物の結界を張った。
ガルドの足が止まる。
ほんの一瞬だった。
けれど。
それだけあれば十分だった。
アレンは薄い結界を足場にして横へ跳ぶ。
そのままガルドの背後へ回った。
肩へ手を伸ばす。
あと少し。
指先が届く。
そう思った瞬間。
アレンとガルドの間に、巨大な結界が現れた。
伸ばした手が弾かれる。
同時に。
首元へ木剣が突きつけられた。
「終わりだ」
ガルドが言う。
アレンは伸ばしていた手を下ろした。
「また負けました」
「あと少しだった」
ガルドも結界を消す。
巨大な光の壁が、静かに空気へ溶けていった。
「今の一枚、偽物だったのか」
レンが結界のあった場所を見る。
「うん」
「ずるくないか」
「何が?」
「ないものをあるように見せただろ」
「避けたのはガルドさんだけど」
「そういうところだよ」
レンは納得していないようだった。
「策士らしいな」
ガルドが言う。
「褒めていますか」
「勝つための力だ」
それだけだった。
けれど。
アレンには十分だった。
五年前に自分で選んだ力が。
今では結界師としての戦い方と、確かに結びついていた。
◇
「レン」
ガルドが呼ぶ。
レンは嫌そうに顔を上げた。
「なんだよ」
「立て」
「休めって言っただろ」
「十分休んだ」
「まだ少ししか経ってない」
「立て」
レンはしばらく地面に寝転がっていた。
だが。
やがて小さく息を吐き、木剣を拾い上げた。
「今度こそ一発入れる」
アレンの隣へ立つ。
「どうする、アレン兄」
「いつも通りでいいよ」
「それ、作戦なのか」
「レンは何か言っても前へ出るだろ」
「当たり前だ」
「だから、それでいい」
レンは少しだけ首を傾げた。
それでも。
木剣を構える。
「行くぞ」
レンが地面を蹴った。
正面からガルドへ向かう。
木剣同士がぶつかった。
その背後へ、アレンは結界を展開する。
レンは振り返らない。
結界を足場にし、さらに前へ出た。
速度が増す。
ガルドが木剣を受け止める。
「右」
アレンが言う。
レンは迷わず動いた。
五年間。
何度も一緒に鍛えてきた。
細かな説明は必要なかった。
ガルドの進路へ結界を張る。
僅かに動きが遅れる。
「今」
レンが踏み込んだ。
木剣を振るう。
ガルドの服の端を掠める。
だが。
次の瞬間。
レンの身体が地面へ転がった。
アレンの目の前にも木剣が突きつけられていた。
「終わりだ」
ガルドが木剣を下ろす。
倒れたまま、レンがガルドの服を見る。
「当たったよな」
「服だけだ」
「でも当たった」
「ああ」
ガルドは認めた。
レンが少しだけ笑う。
「次は身体に当てる」
「やってみろ」
短い返事だった。
稽古を終えた後。
三人は広場の端で休んでいた。
その時、広場へフィナとユナがやって来た。
ユナの手には、小さな薬瓶が握られている。
「これ、本当に疲れが取れるのか」
「取れるよ」
レンはユナから渡された薬を飲み、苦そうに顔をしかめた。
「苦いけど」
「先に言ってくれ」
「言ったら飲まないでしょ」
稽古が終わる頃を見計らい、ユナは時々こうして薬を届けてくれる。
創作士として作れるものが増えても、誰かを気遣う優しさは昔から変わらなかった。
「私たち、やることがあるから先帰るね」
「ありがとな!」
「ありがとう」
二人は先に村へ戻って行った。
「結界師って厄介だな」
レンが呟く。
ガルドは木剣を拾い上げた。
「下位職の中では強い」
静かな声だった。
「剣士よりもか」
「使い手による」
「ずるい答えだな」
「事実だ」
ガルドはアレンが先程まで展開していた結界へ視線を向ける。
「防げる。閉じ込められる。使い道も多い」
それだけ言って、木剣を肩へ担いだ。
「下位職の中では、結界師は強い方だ」
「なら、上位職にも勝てるんですか」
アレンが尋ねる。
「それは別だ」
即答だった。
「上位職には劣る」
「結界師でも?」「ああ」
短い返事だった。
「防げても、勝てるとは限らん」
結界師を弱いとは思っていない。
他の下位職より強いとさえ思っている。
けれど。
上位職を相手にすれば、力の差は確かに存在する。
ガルドはそれ以上語らなかった。
「帰るぞ」
それだけ言って歩き始めた。
◇
しばらくして村へ戻る。
畑では村人達が働いていた。
教会の前ではフィナが老人の腕へ回復術を施している。
その近くではユナが創作した農具を囲み、村人達が楽しそうに話していた。
五年という時間は。
アレンだけでなく。
皆を少しずつ変えていた。
「おや、レンレンじゃないか」
村人の一人が二人を見つける。
「ちょうど良かった。橋の修理を手伝ってくれ」
「だからどっちだよ。俺、今しごかれたばかりなんだけど」
「二人ともだよ。あと若いんだから平気だろ」
「その考えは良くないと思う」
そう言いながらも、レンは橋へ向かっていく。
アレンもその後を追った。
結界で木材を持ち上げる。
レンと村人達が位置を合わせる。
稽古とは違う使い方だった。
敵の攻撃を防ぐためでも。
相手の動きを制限するためでもない。
村で暮らす人達を支えるための結界。
作業が終わる頃には、空が赤く染まり始めていた。
◇
夜。
食卓にはいつもの顔ぶれが揃っていた。
レンが稽古の話を少し大げさに語る。
フィナがそれを疑う。
ユナが静かに笑う。
ミレアが料理を運ぶ。
ガルドは黙って食事を続けている。
アレンはその光景を眺めていた。
いつもの時間。
いつもの笑い声。
何か特別なものではない。
けれど。
この何でもない日常が好きだった。
明日も。
その次の日も。
同じように皆で食卓を囲むのだろう。
アレンはそう信じていた。
◇
その日の夜。
滝下の村から少し離れた森。
複数の人影が木々の間を進んでいた。
灯りは持っていない。
足音も小さい。
「周辺の確認は」
「終わっている」
「村には」
「まだ気付かれていない」
男は木々の隙間から滝下の村を見下ろした。
家々には明かりが灯っている。
「予定は変えない」
「だが、まだ待つように言われている」
「分かっている」
短い返事だった。
男は村から視線を外さない。
「だから、知られるな」
「次はどうする」
「北側を調べる」
「今夜のうちに?」
「ああ」
それ以上の言葉はなかった。
複数の人影が散らばっていく。
一人。
また一人。
森の暗闇へ姿を消した。
彼らが何者なのか。
なぜ滝下の村を調べているのか。
少なくとも。
アレン達はまだ何も知らなかった。




