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間話 境界を越えたもの 後編

 魔法はクローネの声へ応えなかった。

 それでも。

 大型の魔物は止まらない。


 一歩。

 また一歩。


 地面を揺らしながら、城壁へ近づいてくる。


「もう一度」


 クローネは杖を握り直した。

 魔力は残っている。

 身体の中を流れているのも分かる。


 けれど。


 魔法へ変えようとした瞬間。

 何かに塞がれたように、魔力が動かなくなる。


「お願い」


 再び詠唱する。

 杖の先へ、小さな光が集まった。


 弱く。


 不安定に揺れている。

 それでも消えてはいない。

 今度こそ。


 そう思った時だった。

 大型の魔物が頭を下げる。

 硬い甲殻に覆われた角が、城壁へ向けられた。


「衝撃に備えてください!」


 クローネの声が響く。

 直後。

 轟音と共に、城壁全体が大きく揺れた。


 兵士達の身体が地面へ投げ出される。

 積み上げられていた石が崩れ、城壁の下へ落ちていった。


「被害は」

「北側の一部が崩れました」

「土属性の魔術士を集めてください。崩れた箇所を補強します」

「できません」


 返ってきた言葉に、クローネは息を呑んだ。


「城壁の補強を担当する魔術士にも、同じ症状が出ています」

「動ける者は」

「既に試しました。誰も魔法を発動できません」


 攻撃魔法だけではない。

 回復術も。

 城壁を支える魔法も。


 魔力を形にする全ての力が、失われ始めている。


 それでも。

 魔物は待ってくれない。


「弓兵は崩れた場所へ集まってください。残った兵は侵入を防いで」

「大型はどうするのですか」

「私が止めます」

「ですが」

「まだ魔力は残っています」


 魔法にならないだけで。

 その言葉を飲み込む。

 ここで自分まで諦めれば。

 誰も立っていられなくなる。


「クローネ様」


 伝令の兵士が駆け寄ってきた。

 肩から血が流れている。


「西側の防衛部隊からです。魔物が第一防壁を突破しました」

「西側まで?」

「魔術士の半数が戦えなくなっています」

「負傷者を王都へ。残った兵は第二防壁まで後退してください」

「王都からも報せが届いています」


 伝令の声が僅かに震えた。


「同じ症状が、王都の魔術士と神官にも現れ始めています」


 クローネは何も答えられなかった。


 前線だけではない。

 異変は既に。

 国の奥深くまで広がっている。


 再び城壁が揺れた。

 大型の魔物が二度目の突進に備えている。


 クローネは杖を構えた。

 大きな魔法は使えない。


 ならば。


 小さな魔法でいい。

 倒す必要はない。


 足を僅かに逸らすだけでいい。

 杖の先へ風が集まる。

 以前なら、魔法と呼ぶことさえ躊躇うほど弱い風だった。


 けれど。

 今はそれだけでいい。


「今です」


 クローネは風を放った。

 大型の魔物の前脚へぶつかる。


 巨体が僅かに傾いた。

 突き出された角が、城壁の端を掠める。


 石が砕ける。

 それでも。

 直撃だけは避けられた。


 兵士達から声が上がる。

 クローネは杖を支えにして立っていた。

 呼吸が乱れている。


 たった一度。


 僅かな風を起こしただけ。

 それだけで、身体からほとんどの力が失われていた。


「クローネ様。手を」


 杖を握る手から血が流れていた。

 強く握り締め過ぎていたらしい。


「問題ありません」

「しかし」

「まだ立てます」


 大型の魔物が身体を起こす。

 倒すことはできなかった。

 次は防げない。


「全軍、第二防壁まで後退してください」

「クローネ様は」

「最後に下がります」


 兵士は何かを言おうとした。

 けれど。

 クローネの顔を見ると、黙って頭を下げた。


◇


 王都へ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。


 前線から運ばれてきた負傷者が、城門の内側に横たわっている。


 誰もが傷を負っていた。

 それでも。

 治療できる神官はほとんど残っていない。


 魔力が尽きたわけではなかった。

 身体の中には残っている。


 ただ。


 魔法として外へ出すことができない。


「原因は判明したのですか」


 クローネは宮廷の研究者へ尋ねた。


「調査中です」

「それは何度も聞きました」

「申し訳ありません」

「謝罪を求めているのではありません」


 自分の声が強くなっている。

 分かっていた。

 研究者を責めても意味はない。


 誰も休んでいない。

 誰も諦めていない。


 それでも。


 答えを待つ間にも、守れない命が増えていく。


「発症した者に共通点は」

「魔力を扱う者です」

「それだけですか」

「今のところは」


 魔術士。

 神官。

 職業も。

 年齢も。

 暮らしていた場所も違う。


 ただ。


 魔力を魔法へ変えようとした者だけが、同じ症状を訴えていた。


「一つだけ」


 研究者が口を開く。


「何ですか」

「患者の魔力から、これまで確認されたことのない性質が見つかっています」

「魔物の魔力ですか」

「いいえ」


 研究者は首を横へ振った。


「人間のものでも、これまで確認された魔物のものでもありません」

「では、何なのですか」

「分かりません」


 その言葉が。

 何よりも怖かった。


「治す方法は」


 研究者は答えなかった。

 沈黙だけが残る。


「各国へ救援を求めてください」

「既に試みています」

「返答は」


 研究者の隣にいた兵士が俯いた。


「通信術が発動しません」


 攻撃魔法も。

 回復術も。

 城壁を支える魔法も。


 そして。


 遠く離れた相手へ声を届けるための魔法も。


 今まで通りには動かない。


「伝令を出してください」

「既に三人が向かいました」

「返答は」

「ありません」


 兵士は俯いた。


「街道も魔物に塞がれています。伝令が隣国まで辿り着けたかどうかも分かりません」


 国境へ向かう道も。

 隣国へ続く道も。

 既に安全な場所ではなくなっていた。

 救援を求める声さえ。

 アミール王国の外へ届いたかどうか分からない。


 クローネは唇を噛んだ。


「もう一度、伝令を出してください」

「ですが」

「お願いします」


 兵士は僅かに迷った。

 やがて。

 深く頭を下げる。


「承知しました」


 兵士が立ち去る。


 クローネは一人、その場に残った。


 窓の外には、赤く染まり始めた空が広がっている。


 遠くから。

 魔物の声と、戦いを知らせる鐘の音が聞こえていた。


 ふと。

 一人の少年の姿が頭に浮かんだ。


「アレン……」


 クローネは小さく名前を呼んだ。

 アレンの行方が分からなくなってから。

 クローネは何度も捜索を頼んできた。

 各地から届く報告にも目を通した。


 僅かな手掛かりも。

 アレンに繋がるかもしれない噂も。

 見過ごしたことはなかった。


 それでも。


 未だにアレンは見つかっていない。


『絶対に見つけるから』


 かつて。

 誰もいない廊下で口にした言葉を思い出す。


 その決意は。

 今も何一つ変わっていなかった。


 アレンは生きている。


 どこかで。

 きっと今も。

 クローネはそう信じていた。


 今すぐにでも捜しに行きたい。

 自分の目で確かめたい。


 けれど。


 今は国を離れることができなかった。

 魔物が迫り。

 兵士達が魔法を失い。


 救援を求める声さえ、国の外へ届かなくなっている。

 ここで国を置いていくことはできない。


「ごめんね、アレン」


 約束を諦めたわけではない。

 捜すのをやめたわけでもない。


 今はただ。


 守らなければならないものが、目の前にあるだけだった。


 クローネは窓の外から目を離す。

 そして。

 スズナの待つ部屋へ向かった。


◇


「お姉様」


 部屋へ戻ると、スズナが待っていた。

 クローネの姿を見ると、すぐに駆け寄ってくる。


「怪我をしたのですか」

「これくらいなら平気よ」

「平気ではありません」


 スズナがクローネの手を取る。

 掌の傷は布で覆われていた。


「神官様に診てもらわないと」

「今は、もっと重い怪我をした人達がいるから」

「でも」

「本当に大丈夫よ」


 クローネは笑ってみせた。

 けれど。

 スズナの手は離れなかった。


「お姉様の魔法も、使えないのですか」

「少し不安定になっているだけよ」

「嘘です」


 静かな声だった。


「お姉様は、いつもそうやって笑います」

「スズナ」

「怖い時も。苦しい時も。私に心配させないように」


 握られた手に力が込められる。

 不意に。

 スズナの視界が暗くなった。


「スズナ?」


 クローネの声が遠ざかる。

 燃える王都。

 崩れ落ちる城壁。

 魔物に塞がれた広い街道。


 そして。


 木々に覆われた細い道を進む馬車。

 光景はすぐに消えた。

 スズナは大きく息を吸う。


「今のは……」


 何を見たのか。

 いつ起きることなのか。

 スズナ自身にも分からない。


 ただ。


 一つだけ分かった。


「街道は通れません」


 スズナが呟く。


「何ですって?」

「森の中です。細い道を、馬車が走っていました」


 クローネは黙って妹を見る。

 スズナが時折、まだ起きていない出来事を見ることを知っていた。


 けれど。


 その光景が必ず現実になるとは限らない。

 何を意味するのか分からないことも多かった。


「お姉様」


 スズナはクローネの手を握り締める。


「一緒に逃げましょう」

「まだ王都は落ちていないわ」

「でも、このままでは」

「だから残るの」


 遠くから鐘の音が聞こえた。


 一度。

 二度。

 三度。


 東側の防壁へ魔物が近づいたことを知らせる鐘だった。


「私は、この国の王女よ」

「私も王女です」

「ええ」

「なら、私も残ります」

「駄目よ」

「どうしてですか」

「あなたには生きてもらうから」


 迷わず答えた。

 スズナが顔を上げる。


「嫌です」

「スズナ」

「お姉様だけを残して逃げるなんて嫌です」


 クローネも同じだった。

 一緒に逃げたかった。


 国も。

 立場も。


 全てを忘れて。


 妹の手を引いて、遠くへ行きたかった。

 けれど。

 城壁には、まだ兵士達が立っている。


 魔法を失っても。

 傷を負っても。

 国を守るために戦っている。


 その人達を置いて。


 自分だけ逃げることはできなかった。

 クローネはスズナを抱き締める。


「あなたを守ることも、私の役目なの」

「なら、一緒に来てください」

「今は行けない」

「いつなら来てくれるのですか」


 答えられなかった。

 次の朝まで王都が残っている保証はない。

 自分が生きていられる保証もない。


 それでも。


「必ず迎えに行くわ」


 クローネは告げた。


「だから、生きて」


 スズナの手へ、小さな髪飾りを握らせた。

 青い石が埋め込まれた、王家の髪飾りだった。


「これを持っていて」

「受け取れません」

「私の代わりよ」


 クローネはスズナの手を包み込む。


「離れていても。私はあなたの味方だから」


 スズナの目から涙が零れる。

 クローネは指で拭った。

 泣かないでとは言えなかった。


 クローネも。

 今にも泣いてしまいそうだったから。


◇


夜。


 王都の北門近くに、僅かに残された馬車が集められていた。


 向かうのは、隣国へ続く街道ではない。

 山間を抜ける古い輸送路。


 スズナが見た光景を頼りに、クローネが選んだ道だった。


 道は狭く。

 途中から先は、馬車が通れるかも分からない。


 それでも。


 魔物が溢れる街道を進むよりは、生き延びられる可能性があった。


「急いでください」


 兵士達が声を抑えながら人々を馬車へ乗せていく。


 子供と老人。

 動ける負傷者。


 そして。


 王家の生存者として、逃がされることになったスズナ。


 全員を逃がすことはできなかった。

 限られた人数しか通れない。


 だからこそ。


 乗せられた者達は、残る者達の分まで生きなければならなかった。


 北門が僅かに開く。


 数人の兵士が先行して外の様子を確かめる。

 やがて。


 一人が戻ってきた。


「今なら進めます」


 その言葉を合図に、馬車が動き始めた。


「お姉様」


 馬車の後ろから王都を見る。

 城壁の上に、小さな人影が立っている。


 瑠璃色の髪が風に揺れていた。

 遠く離れていても。

 見間違えるはずがなかった。


 クローネは杖を握り、王都の外へ向き直っている。


「お姉様」


 声は届かない。

 馬車も止まらない。

 王都の姿が少しずつ遠ざかっていく。


 その時。


 夜空を赤い光が照らした。

 魔法ではなかった。


 崩れた建物から上がる炎だった。

 馬車の中で、誰かが泣き始める。


 それでも。


 誰も戻ろうとは言わなかった。

 戻れば死ぬ。

 残った人々が命を懸けて作った道を、無駄にしてしまう。


 スズナは胸元へ手を当てた。

 クローネから託された髪飾りがある。


 生きて。


 姉はそう言った。

 だから。

 今は逃げなければならない。


◇


 どれほど進んだのか。

 スズナには分からなかった。


 馬車は途中で動かなくなった。

 馬は疲れ切り。

 車輪も壊れていた。


 そこから先は、それぞれの足で進むことになった。


 空は白み始めている。

 スズナは振り返った。

 遠くの空が赤く染まっていた。


 あの場所に。


 父がいる。

 姉がいる。

 自分を逃がしてくれた人達がいる。


「お姉様……」


 返事はない。


 アミール王国の城壁は、もう見えなかった。

 それでも。

 スズナは胸元の髪飾りを握り締めた。


 必ず迎えに行く。


 クローネはそう言った。


 ならば。


 自分は信じなければならない。

 ここで立ち止まるわけにはいかない。


 スズナは再び歩き始めた。

 どこへ向かえばよいのか。

 この先に何が待っているのか。

 まだ何も分からない。


 ただ。

 一つだけ。


 スズナは生きていた。


 姉から託された言葉を胸に。

 滅びゆく故郷から、遠く離れた場所で。


 自分の足で、歩き続けていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は第四章と第五章の間にあたる間話として、前編と後編を同日に公開しました。

アミール王国で何が起きたのか。

そして、クローネとスズナがそれぞれどのような道へ進むことになったのか。

この出来事は、第五章以降の物語にも深く関わってきます。

次回からは、第五章「見えない亀裂」が始まります。

引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。

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