間話 境界を越えたもの 前編
始まりは。
人一人が通ることもできない、小さな繋がりだった。
人間界。
精霊界。
魔界。
三つの世界は、それぞれ異なるものを持っていた。
人間界には、道具を作り、知識を積み重ねる技術があった。
精霊界には、傷ついた自然を蘇らせる豊かな生命の力があった。
魔界には、他の世界では得られない鉱石と、強い魔力があった。
けれど。
どの世界も、全てを持っているわけではなかった。
だから。
互いに不足しているものを補い合うため、三つの世界は小さな道を繋いだ。
それぞれの世界の代表者から了承を得て。
通すものを限り。
開く時間を定め。
慎重に。
少しずつ。
最初に運ばれたのは、僅かな物資だけだった。
やがて使節が言葉を交わし。
人が行き来し。
三つの世界には、それまで存在しなかった交流が生まれた。
接続は成功した。
救われた土地があった。
豊かになった暮らしがあった。
だからこそ。
人々は、もう少しだけ道を広げても大丈夫だと考えた。
小さかった道は。
長い年月をかけて、少しずつ大きくなっていった。
けれど。
道が広がるにつれて。
人々が望んだものだけを通すことは、次第に難しくなっていった。
管理された道とは別の場所に、小さな歪みが生まれる。
そして。
その歪みを通り。
人間界では見たことのない魔物まで、姿を現すようになった。
「ならば、我々の国がその魔物と戦う使命を担いましょう。ガルド殿」
迷いのない声だった。
アミール国王は、机の上に広げられた大陸の地図へ視線を落とす。
地図には、いくつもの赤い印が記されていた。
そのどれもが、近頃になって魔物の姿が確認された場所だった。
以前から人間界には魔物が存在していた。
だが、今回現れた魔物は違う。
姿も。
性質も。
持っている魔力さえも。
これまで人間界で確認されてきた魔物とは異なっていた。
「簡単に決めていいことではない」
ガルドが口を開く。
「分かっています」
「どれだけ現れるかも分かっていない」
「それも承知しています」
アミール国王は顔を上げた。
その目には、僅かな迷いもなかった。
「我が国は、これまでも魔物と戦ってきました」
アミール王国の国境を越えた先には、魔物が多く生息する地域が広がっている。
兵士達は日々、国境へ近づく魔物を退けていた。
討ち漏らした魔物が周辺諸国へ流れないように。
自国の民だけでなく、その先で暮らす人々まで守るために。
「魔物と戦う術があります。経験もあります」
「今回の相手に、それが通用するとは限らない」
「何もせず、魔物が他国へ流れるのを見過ごすことはできません」
静かな声だった。
それでも。
決意は揺らがなかった。
「誰かが戦わなければならないのでしょう」
「ああ」
「ならば、我々が戦います」
アミール国王は地図へ手を置いた。
赤い印の多くは、アミール王国の近くに集中している。
ここで止めなければ。
魔物は大陸の奥へ進んでいく。
「我々が盾となりましょう」
世界を守るために。
国を守るために。
何より。
そこで暮らす人々を守るために。
アミール王国は戦う。
それが自分達の使命だと。
国王は信じていた。
「必ず支援する」
ガルドが言った。
「各国には俺から話す」
「感謝します」
「お前達だけには背負わせない」
短い言葉だった。
けれど。
国王には、それで十分だった。
国王は手を差し出した。
「共に世界を守りましょう。ガルド殿」
「ああ」
ガルドはその手を取った。
固く。
二人は手を握り合う。
この時は、誰もが信じていた。
流れ込んだ魔物を倒せば。
再び世界へ平穏が訪れるのだと。
まだ知らなかった。
境界を越えたものが。
魔物だけではなかったことを。
◇
それからも。
アミール王国は、魔物との戦いを続けた。
長い年月を経ても。
その使命が終わることはなかった。
アミール王国の北部。
城壁の向こうには、無数の魔物が蠢いていた。
「第三部隊、左へ展開してください」
クローネの声が響く。
「魔術士は城壁の上へ。負傷者は後方へ下げてください」
兵士達が動き出す。
クローネは杖を握り、城壁の下へ視線を向けた。
魔物の数は多い。
それでも。
対処できない数ではなかった。
問題があるとすれば、魔物の数ではない。
ここ数日。
前線では魔法の発動に失敗する者が増えていた。
疲労によるものだと報告されている。
長く続く戦いの中では、決して珍しいことではない。
クローネもそう考えていた。
少なくとも。
この時までは。
「来ます」
兵士の声。
魔物が一斉に走り出す。
地面が揺れる。
クローネは杖を正面へ向けた。
「放ってください」
城壁の上に光が集まる。
炎。
風。
氷。
魔術士達の放った魔法が、迫る魔物へ降り注いだ。
爆発が起きる。
土煙が舞う。
何体もの魔物が地面へ倒れた。
それでも。
後ろから新たな魔物が現れる。
「次を」
クローネが指示を出す。
魔術士達が再び杖を構えた。
詠唱が始まる。
だが。
魔法は放たれなかった。
「どうしました」
クローネが振り返る。
一人の魔術士が杖を握ったまま立ち尽くしている。
「魔力が……」
「落ち着いてください。もう一度です」
「はい」
魔術士は頷く。
再び詠唱する。
魔力が杖の先へ集まる。
小さな光が生まれた。
しかし。
形を作る前に消えた。
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません。後方へ下がって休んでください」
「まだ戦えます」
「命令です」
クローネは静かに告げた。
魔術士が唇を噛む。
それでも命令に従い、城壁を下りていった。
「クローネ様」
別の場所から声が上がる。
今度は二人だった。
魔法が発動しない。
魔力はある。
詠唱も間違っていない。
それなのに。
杖の先へ集まった魔力が、形を作る前に消えていく。
「交代要員を前へ」
「既に出ています」
兵士が答える。
「では、予備の部隊を」
「その部隊でも、同じ症状が出ています」
クローネは言葉を失った。
城壁の下から魔物の声が響く。
最初の魔法で倒し切れなかった魔物が、壁へ取りついていた。
「弓兵。下へ近づけないでください」
矢が放たれる。
何体かは倒れた。
しかし数が多い。
魔法による援護がなければ、すべてを止めることはできない。
「負傷者が出ました」
「神官を」
「回復術が効きません」
クローネは振り返った。
運び込まれた兵士の傍らで、神官が両手を震わせている。
傷口の上には淡い光が浮かんでいた。
けれど。
傷は塞がらない。
「もう一度」
「やっています」
「交代してください」
「他の神官も同じです」
魔術士だけではない。
神官も。
誰もが魔力を持っている。
それなのに。
魔法だけが形にならない。
「どうして……」
小さく呟く。
原因を考えている時間はなかった。
城壁が大きく揺れる。
「北側に大型の魔物が接近しています」
土煙の向こうから、巨大な影が現れた。
四本の足で地面を踏み締める。
硬い甲殻に覆われた頭部。
あれが城壁へ到達すれば。
耐えられない。
「私が止めます」
クローネは杖を握り直した。
「クローネ様、お待ちください」
「他に止められる者がいるのですか」
返事はなかった。
クローネは杖を向ける。
呼吸を整える。
魔力を集める。
身につけてきた術式を組み立てる。
国を守るために学んだ魔法。
幼い頃から。
何度も。
何度も繰り返してきた。
失敗するはずがない。
杖の先へ光が集まる。
「お願い」
小さく呟く。
光が強くなる。
いける。
そう思った。
次の瞬間。
光は音もなく消えた。
「……え?」
何も起きない。
大型の魔物は止まらない。
一歩。
また一歩。
城壁へ近づいてくる。
クローネはもう一度、杖を構えた。
魔力は残っている。
身体も動く。
それなのに。
魔法だけが応えない。
胸の奥へ。
幼い頃から何度も押し込めてきた言葉が浮かんだ。
頑張っても。
一生懸命やっても。
守れなかったら。
「まだです」
震えそうになる手へ力を込める。
クローネは再び詠唱を始めた。
自分が守らなければならない。
この国を。
ここで戦う人々を。
王都で待つ家族を。
スズナを。
けれど。
何度呼び掛けても。
最も必要とされたこの時に。
魔法はクローネの声へ応えなかった。




