第四章 滝下の日々③
フィナが神官の天啓を授かってから、数か月が過ぎた。
朝の滝下の村には、今日も変わらず滝の音が響いている。
アレンは畑の端へ立ち、地面へ向かって片手を伸ばした。
淡い光が細長く広がり、畑と森の境目をなぞるように結界が形作られていく。
「もう少し右だよ」
畑の中から、フィナが声を上げた。
「そこだと、端の苗が結界の外に出ちゃう」
「このくらい?」
「うん。ちょうどいい」
アレンは結界の位置を僅かに動かした。
以前、フィナが口にした使い方だった。
畑へ鳥や獣が入り込まないよう、必要な時だけ結界で進路を遮る。
初めて聞いた時は考えもしなかった方法だったが、試してみれば効果はあった。
結界を低く、薄く張れば、広い範囲でも魔力の消費を抑えられる。
村人が畑へ入る場所だけを空けておけば、仕事の邪魔にもならなかった。
「便利でしょ?」
フィナが得意そうに言う。
「フィナの天啓じゃないのに、どうしてフィナが自慢するんだよ」
近くで土を耕していたレンが顔を上げた。
「私が思いついたからよ」
「使ってるのはアレン兄だろ」
「思いつかなかったら使ってないでしょ?」
「でも、アレン兄の力だ」
「だから何よ」
「二人とも、手が止まってるよ」
アレンが言うと、レンとフィナが同時にこちらを向いた。
「アレン兄は結界を出してるだけだろ!」
「位置を調整してるよ」
「私も確認してる」
「俺だけ土を掘ってないか!?」
「一番向いてるからじゃない?」
「どういう意味だよ!」
近くを通りかかった女性が笑顔で声をかける。
「今日も賑やかだね、レンレン」
「まとめるな!」
女性へ、レンがすぐに言い返した。
「だって、アレンもいるじゃないか」
「だから二人まとめてレンレンじゃなくて、俺はレンで、こっちはアレン!」
「朝から元気だねぇ」
「聞いてくれよ!」
女性は笑いながら通り過ぎていった。
村人たちは、名前の似ている二人をまとめてレンレンと呼ぶことがある。
アレンは特に気にしていなかったが、レンは呼ばれるたびに訂正していた。
「もう諦めたら?」
「アレン兄まで言うなよ!」
「僕はレンレンでもいいけど」
「よくない! どっちを呼んでるのか分からないだろ!」
「返事をした方じゃない?」
「適当すぎる!」
レンが声を上げる。
村へ来たばかりの頃は、自分の名前を誰かに呼ばれるだけで僅かに身構えていた。
今では畑へ出れば声を掛けられ、仕事を頼まれ、ときにはレンとまとめて揶揄われる。
それが嫌だと思ったことはなかった。
アレンが結界の調整を終えると、レンが鍬を肩へ担いだ。
「終わったなら、昼飯にしようぜ」
「まだ半分残ってるよ」
フィナが畑の反対側を指差す。
「午後でいいだろ」
「午前中に終わらせるって言ったのはレンでしょ」
「腹が減る前の俺と、今の俺は別人だ」
「それで通ると思ってるの?」
「思ってないけど、言うだけなら自由だろ」
「開き直らないで」
フィナが呆れた直後、村の中心から鐘の音が響いた。
昼を知らせる鐘だった。
「ほら、昼だ!」
レンは鍬を置き、勝ち誇ったように胸を張る。
「鐘が鳴っただけで、レンが正しくなったわけじゃないよ」
「細かいことはいいんだよ!」
結局、残りは午後に回すことになり、三人はガルドの家へ戻った。
◇
家へ入ると、焼いたパンと煮込み料理の香りが漂っていた。
「おかえりなさい」
台所に立つミレアが、三人を振り返る。
「ただいま!」
レンが真っ先に食卓へ向かった。
「手を洗ってからよ」
「座るだけ!」
「そのままパンへ手を伸ばすつもりでしょう」
「伸ばさない!」
言いながら、既にパンを見ている。
「レン」
「洗ってきます」
ミレアに名前を呼ばれただけで、レンは素直に流し場へ向かった。
フィナもその後に続く。
アレンが台所へ入ろうとすると、ミレアに止められた。
「今日はもう出来ているから、座っていて」
「何か運びます」
「それなら、その器をお願い」
「はい」
アレンは人数分の器を食卓へ運んだ。
初めてこの家へ来た夜は、どこに座ればよいのかさえ分からなかった。
今では自分の椅子があり、どの棚に何が入っているのかも知っている。
間もなくガルドも戻り、五人が食卓へ揃った。
「いただきます」
皆で手を合わせ、食事を始める。
レンはパンを一口で半分ほど頬張り、すぐにミレアから睨まれた。
「ゆっくり食べなさい」
「腹減ってたから」
「喉に詰まらせても知らないわよ」
「大丈夫だって」
そう答えた直後、レンが咳き込む。
フィナが呆れながら水を差し出した。
「言われた直後にやる?」
「たまたまだ!」
「毎回たまたまね」
「フィナは俺に厳しすぎる!」
「レンが同じことを繰り返すからでしょ」
いつもの言い合いが始まる。
ガルドも煮込み料理を口へ運びながら、穏やかに二人を見ていた。
「アレン」
ミレアに呼ばれ、アレンは顔を上げた。
「何ですか?」
「よく笑うようになったわね」
「そうですか?」
「ええ」
ミレアは迷わず頷く。
「ここへ来たばかりの頃は、笑っていてもどこか遠慮していたもの」
「そうかな」
「そうだよ」
フィナも同意する。
「何かするたびに、これで合ってるかって顔してた」
「アレン兄、今でも考えすぎるけどな」
「レンにだけは言われたくないと思う」
「どういう意味だよ!」
「そのままの意味よ」
アレンは二人を見ながら、自分が以前どのように過ごしていたのかを思い返した。
迷惑を掛けないようにしていた。
役に立たなければ、ここにいる理由がなくなるような気がしていた。
頼まれた仕事は断らず、自分にできることを探し続けた。
誰も役に立てとは言っていないのに、何もしなければ追い出されるかもしれないと思っていた。
「まだ、気を遣ってる?」
ミレアに尋ねられ、アレンは少し考えた。
「前よりは、減ったと思います」
「前よりは、なのね」
「全部なくすのは、難しいです」
「急がなくていいわ」
ミレアは煮込み料理の鍋へ手を伸ばし、アレンの器へ新しく注いだ。
「でも、一つだけ覚えておいて」
湯気の立つ器が、アレンの前へ置かれる。
「ここには家族しかいないの。失敗しても、役に立てない日があっても、それだけであなたを追い出す人はいないわ」
アレンは器を見つめた。
家族。
その言葉が、自分へ向けられるとは思っていなかった。
王城を出た日、もう家族はいないのだと考えた。
滝下の村へ来てからも、ガルドたちに助けてもらっているだけだと思っていた。
けれど、この家には自分の椅子がある。
朝になれば声を掛けられ、仕事へ行けば帰りを待つ人がいる。
食卓へ着くのが遅ければ、レンが先に食べようとしてフィナに止められる。
どれも、いつの間にか当たり前になっていた。
「急に言われても困ると思う」
ガルドが静かに口を開いた。
「だが、俺たちがそう思っていると知っておけばいい」
「父さん、格好いいこと言ってる」
「茶化すな」
「俺も家族だと思ってるぞ、アレン兄!」
レンは迷いなく言った。
「私も」
フィナも続く。
二人の視線が集まり、アレンは何と答えればよいのか分からなくなった。
嬉しい。
それだけを口にすればよいのに、胸の奥へ込み上げたものが言葉を塞いでしまう。
「……ありがとうございます」
ようやく出たのは、いつもの言葉だった。
ミレアは少し困ったように笑う。
「またお礼を言ってる」
「ほかに、何て言えばいいのか分からなくて」
「なら、今はそれでいいわ」
ミレアが鍋を持ち上げる。
「もう少し食べる?」
アレンは自分の器を見る。
既に十分な量を食べていた。
「はい。お願いします」
新しい煮込み料理が器へ注がれる。
「俺も!」
レンが器を差し出した。
「あんたは、口の中のものを飲み込んでから」
「もう飲み込んだ!」
「今、慌てて飲み込んだでしょ」
「結果は同じだろ!」
ガルドが小さく笑い、アレンもつられて笑う。
先ほどミレアから告げられた言葉が、胸の中へ静かに残っていた。
ここには家族しかいない。
すぐに自分から家族だと言えるほど、まだ気持ちを整理できたわけではなかった。
それでも、王城を離れた日に失ったと思っていたものは、形を変えて目の前にあった。
◇
食事の後、アレンは家の外へ出た。
夜の村には、滝の音が絶えず響いている。
家々の窓から明かりが漏れ、その一つ一つに誰かの暮らしがあった。
初めて村へ来た夜も、同じ景色を見た。
あの時は、自分がここへいてよいのか分からなかった。
今では畑の結界を頼まれ、村人から名前を呼ばれ、帰れば食卓に自分の席がある。
「アレン兄」
扉が開き、レンが顔を出した。
「何してるんだ?」
「少し、村を見てた」
「毎日見てるだろ」
「そうだね」
「変なの」
レンはそう言いながら、アレンの隣へ並んだ。
「寒いから入ろうぜ」
「うん」
家へ戻ろうとしたところで、アレンはもう一度だけ村を振り返る。
滝下の村。
帰る場所を失った自分を迎え入れ、何者であるかを問わずに居場所をくれた場所。
ミレアの言葉を借りなくても、少しずつ分かり始めていた。
「早くしろよ!」
先に家へ入ったレンが呼んでいる。
「今行くよ」
アレンは明かりの漏れる扉へ向かい、その中へ戻った。




