第四章 滝下の日々①
滝下の村へ来てから、三か月が過ぎていた。
朝を迎えるたび、村には滝の音が響いている。
初めて耳にした時は、その大きさに驚いた。
夜になっても途切れることはなく、本当に眠れるのかと不安になったほどだった。
けれど今では、その音を聞きながら目を覚ますことが当たり前になっていた。
「アレン兄!」
家の外から、朝の静けさを破る声が飛んでくる。
「早くしろよ!」
「まだ朝だよ」
「朝だからだろ!」
何の説明にもなっていない。
アレンが家を出ると、レンが待ち構えていた。
その少し後ろでは、フィナが呆れた顔をしている。
「朝から騒がないでよ」
「まだ何もしてないだろ!」
「呼吸してるだけでうるさい」
「酷くない!?」
レンの声がさらに大きくなる。
近くを通りかかった村人が、二人へ声をかけた。
「今日も朝から元気ね」
「はい、元気です!」
レンは姿勢をぴんと正し、敬礼までして答えた。
「こんなのと兄妹だなんて、本当に世の中どうなってるのかしら」
「それは俺の台詞だ!」
「あんたの答えは求めてない」
「じゃあ言うなよ!」
二人のやり取りは、村へ来たばかりの頃から変わらない。
レンは思いついたことをすぐ口にし、フィナは呆れながら受け流す。
やがてレンが余計なことを言い、最後には拳が飛んだ。
性格も雰囲気も正反対だった。
「アレン兄」
「何?」
「今、俺たちが本当に兄妹なのか疑ってただろ」
「疑ってないよ」
「嘘だ!」
「安心して。私も時々疑ってるから」
「フィナまで!?」
後ろから、小さな笑い声が聞こえた。
ユナがフィナの傍に立ち、口元へ手を添えている。
「ユナまで笑った!」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでも笑っただろ!」
「二人とも、朝から元気だね」
アレンが言うと、レンとフィナが同時にこちらを向いた。
「アレン兄が他人事みたいに言うなよ!」
「アレンも、もうこっち側でしょ」
「こっち側って、どっち?」
「レンに振り回される側」
「おい!」
かつてのアレンなら、こんなやり取りへ何と答えればよいのか分からなかっただろう。
今では、考えるより先に言葉が出るようになっていた。
レンたちと過ごすうちに、誰かの言葉を深く考えすぎず、その場で返せるようになったのだ。
「遊んでいる暇があるなら来い」
低い声が届いた。
少し離れた場所に、木剣を肩へ担いだガルドが立っている。
「遊んでない!」
レンが即座に答えた。
「なら、早く来い」
「はい!」
先ほどまでの勢いはどこへ消えたのか、レンは素直に走っていく。
「父さんには逆らわないのね」
「逆らったら訓練が増えるからな!」
「聞こえているぞ」
「急ぐぞ、アレン兄!」
レンは振り返ることもなく、村外れの広場へ駆けていった。
◇
「来い」
ガルドが木剣を構える。
「今度こそ一本取る!」
レンは勢いよく地面を蹴った。
振り下ろした木剣を、ガルドは最小限の動きで受け止める。
乾いた音が響いた。
レンはすぐに木剣を引き、横から振るう。
その一撃が届くより先に、ガルドの木剣がレンの手元を打った。
「痛っ!」
力の緩んだ木剣が弾き飛ばされる。
続けて足を払われ、レンは地面へ転がった。
「今のは父さんがおかしいだろ!」
「敵も待ってはくれない」
「まだ終わってない!」
「終わった」
「酷くない!?」
「レンお兄ちゃん……いつも同じこと言ってるよね」
ユナが、思ったことをそのまま口にした。
隣でフィナがくすくすと笑う。
「笑うなよ!」
「笑ってないよ」
そう答えながらも、フィナの笑いは収まっていなかった。
「今日は前より長く戦えただろ!?」
「少しだけね」
「成長してるんだからいいじゃん!」
レンは文句を言いながら立ち上がった。
地面へ落ちた木剣を拾おうとしたところで、ガルドが手を上げる。
「レンは終わりだ」
「やった!」
「喜ぶな。もう少し基礎を鍛え直せ」
「結局増えるのかよ……」
ガルドは肩を落とすレンから目を離し、アレンへ向き直った。
「次はお前だ」
「はい」
アレンは地面に置かれた木剣へ目を向ける。
拾おうとすると、ガルドが首を横へ振った。
「お前は使わない」
「では、今日は何を?」
「結界だ」
その言葉に、アレンは僅かに目を見開いた。
ガルドが自分と同じ結界師であることは、以前から知っている。
「ようやく教えてもらえるんですね」
「お前の身体が、稽古に耐えられる程度には戻ったからな」
王都を離れてからの放浪で、アレンの身体はひどく痩せていた。
村へ来た直後に結界の稽古を始めても、魔力より先に体力が尽きていただろう。
この三か月で食事と睡眠を取り、村の仕事を手伝いながら身体を動かしてきたことで、ようやく継続した訓練へ移れる状態になっていた。
結界の扱いをガルドから教わるのは、今日が初めてになる。
「まず、俺の結界を見せる」
ガルドが片手を前へ出す。
淡い光が集まり、その正面へ巨大な結界が現れた。
「……すごい」
アレンは目を見開いた。
ガルドが小さな結界を使う姿なら、これまでにも何度か目にしている。
それでも、本格的な結界を目にするのは初めてだった。
大きいだけではなく、厚みも安定感も、アレンが作るものとは比べものにならない。
光の揺らぎはほとんどなく、一枚の壁として広場に立っていた。
「同じ結界には見えません」
「使う者が違えば、形も役割も変わる」
ガルドは結界へ片手を添えた。
「俺は、お前とは使い方が違う」
「どう違うんですか?」
「俺は戦うために使っていた」
アレンは正面に立つ光の壁を見つめた。
結界は、何かを守るものだと思っていた。
王城で聞いた説明も、これまで自分が試してきた使い方も、その考えを基にしている。
野兎の逃げ道を塞ぎ、魚を捕らえ、雨風を防いだ。
魔物からレンたちを守るためにも使った。
しかし、ガルドの結界から感じるものは、そのどれとも異なっていた。
「結界師なんだろう」
ガルドがアレンを見る。
「だったら、鍛えるのは剣ではなくこっちだ」
アレンは改めてガルドへ向き直った。
「お願いします」
頭を下げると、ガルドは短く頷いた。
「まずは結界を出せ」
アレンは両手を前へ向け、魔力を集める。
正面に小さな結界が生まれた。
「遅い」
「え?」
ガルドの手から小石が放たれた。
「うわっ!」
アレンは反射的に身体を逸らした。
小石が横を通り過ぎ、地面へ落ちる。
「避けるな」
「急に投げられたら避けますよ」
「結界で受けろ」
「出す前に投げましたよね?」
「来ると分かってから出すようでは遅い」
ガルドは新たな小石を拾う。
「相手は、お前が準備を終えるまで待ってはくれない」
「確かにそうですけど……」
「もう一度だ」
ガルドが小石を投げる。
アレンは慌てて結界を作った。
小さな光の膜へ石が当たり、乾いた音を立てて落ちる。
防ぐことはできた。
だが、結界は大きく揺らいでいる。
「遅い。形も安定していない」
「今のでですか?」
「実戦なら、次が来ている」
今度は二つの石が続けて飛んできた。
一つ目は結界で防ぐ。
二つ目が当たった瞬間、結界の端が崩れた。
アレンは魔力を込め、すぐに形を作り直す。
「一枚へ頼るな」
「でも、複数に分けると薄くなります」
「厚い結界が一枚あるだけでは、別の方向から来た攻撃を防げない」
ガルドはアレンの左右を指した。
「守る範囲を考えろ。何を防ぎ、何を通すのかを決めろ」
言われてみれば、これまでのアレンは自分の正面に結界を作ることが多かった。
魔物から三人を守った時も、一方向から来る攻撃を防いだ。
相手が回り込む状況までは、ほとんど考えていない。
アレンは一枚の結界を消し、左右へ小さな結界を作った。
ガルドが小石を投げる。
小石は正面からアレンへ向かい、その右脇を抜ける軌道を描いていた。
アレンは右側に浮かべていた結界を内側へ動かし、小石の進路へ滑り込ませる。
乾いた音が響き、小石が地面へ落ちた。
「悪くない」
ガルドの口元へ、僅かな笑みが浮かんだ。
「今のは褒めていますか?」
「少しな」
「少しだけなんですね」
「まだ始めたばかりだ」
厳しい言葉だった。
それでも、嫌ではなかった。
結界師だからと見下されているわけではない。
この力で何ができるのかを、ガルドは本気で教えようとしてくれている。
そのことが、アレンには嬉しかった。
◇
一時間後。
レンは草の上へ寝転がり、アレンもその隣へ腰を下ろしていた。
「疲れた……」
「アレン兄も言うんだな」
「僕だって疲れるよ」
「でも、ずっと立ってただけだろ?」
「結界を張り続けてたんだよ」
「そんなに疲れるのか?」
「何度も壊れかけた結界を作り直したからね。走るのとは違うけど、身体の中が空っぽになったみたいだ」
レンは草の上へ寝転がったまま、アレンの顔を覗き込んだ。
「よく分からないけど、大変なんだな」
「レンも木剣を振ってただけに見えるよ」
「全然違うだろ!」
「僕から見れば同じだよ」
「何が同じなんだよ!」
「やってる本人にしか、どれくらい疲れるか分からないところ」
レンは反論しようとして口を開いたが、やがて何も言わずに閉じた。
「……それを言われると、何も言えないな」
「分かってくれたならよかった」
少し離れた場所では、ガルドが薪を割っている。
アレンは、その規則正しい音を聞きながらレンを見た。
「そういえば、レンはどうして副職に弓士を選んだんだ?」
「便利そうだったから」
「それだけ?」
「それだけ」
「もっと悩まなかったの?」
「悩んだぞ」
レンは寝転んだまま指を折る。
「剣だけだと、遠くにいる相手へ届かないだろ」
「うん」
「でも、弓があれば届く」
「それで?」
「便利だろ?」
本当に、それだけらしい。
「レンらしいね」
「だろ?」
なぜか誇らしそうだった。
「褒めてないと思う」
フィナが呆れたように口を挟んだ。
「別にいいだろ。俺が使うんだから」
「使いこなせるなら、悪くない理由だ」
薪を割りながら、ガルドが言った。
レンは起き上がり、得意そうに胸を張る。
「ほら!」
「使いこなせるなら、でしょ」
「これから使えるようになる!」
「今は使えないんじゃない」
「細かいな!」
二人が言い合う途中で、フィナが不意に息を吐いた。
「いいなぁ」
「何が?」
「天啓」
フィナはアレンを見る。
「結界師」
次にレンへ顔を向けた。
「剣士と弓士」
最後に、自分の両手を見下ろす。
「私だけ、まだ何もない」
今年、フィナは十歳になる。
天啓の儀を迎える年だった。
「もうすぐだろ?」
「分かってるけど、皆には進む道があるじゃない」
「フィナも、天啓を受ければ決まるよ」
「何になるか分からないから気になるの」
楽しみにしているだけではないらしい。
自分にも誰かの役に立てる力が与えられるのか、不安に思っているように見えた。
「剣士じゃないか?」
レンが言う。
「絶対に嫌」
「即答!?」
「レンと同じは嫌」
「それだけで剣士を否定するなよ!」
ユナが控えめに手を上げる。
「私は……」
皆の視線が集まると、ユナは少し恥ずかしそうに俯いた。
「フィナお姉ちゃんは、神官だと思う」
「私が?」
「うん」
「どうして?」
「優しいから」
一瞬、フィナが言葉を失った。
レンが口元を押さえる。
「優しいって」
「何よ」
「似合う!」
「うるさい!」
フィナが足元の小枝を投げた。
枝は真っ直ぐに飛び、レンの額へ当たる。
「痛っ!」
「すごいね。あれだけ小さな枝を、狙ったところへ当てられるんだ」
アレンが感心して言うと、フィナは僅かに目を丸くした。
「アレン兄、褒めるところそこなのか?」
「でも、本当に正確だったよ」
「だからって、投げられた俺の前で褒めるなよ!」
ガルドが小さく笑う。
穏やかな笑い声が広がり、アレンも、その輪の中で笑っていた。




