第三章 間話② 遠ざかる影
アルベニスタ王国。
アレンが王都を去ってから、二か月が過ぎていた。
王城の会議室には、捜索に関する報告書が積み重なっている。
王都の城下町から近隣の村や宿場まで、騎士たちは何度も足を運んだ。
王都から延びる街道だけでなく、周辺の森や川沿いも、立ち入れる範囲はすべて調べられている。
黒髪の少年を見かけたという証言が届くたび、その場所へ人を送り、本人であるか確認した。
しかし、アレンへ繋がる手掛かりは一つも見つからなかった。
「生存を示す痕跡は、本当に何もないのだな」
国王の問いに、報告を担う騎士が深く頭を下げた。
「はい。衣服や荷物も含め、アレン様のものと断定できる痕跡は確認されておりません」
「遺体も見つかっていない」
「そのとおりです」
国王は報告書へ視線を落とした。
死亡したと示すものはない。
同時に、生きていると示すものも見つかっていなかった。
「陛下」
一人の大臣が口を開いた。
「既に二か月が経過しております」
その場にいる者の多くが、続く言葉を予想していた。
「旅の経験がない十歳の子供が、何の助けも得ずに生き延びている可能性は極めて低いと判断せざるを得ません」
「可能性が低いだけです」
ローウェンの声が、静かな会議室へ響いた。
国王が顔を上げる。
ローウェンは真っ直ぐに背筋を伸ばし、大臣たちへ厳しい視線を向けていた。
「坊ちゃんの亡骸は見つかっておりません。亡くなられたことを示す痕跡もないのでしょう」
「だからといって、生存していると判断する根拠もございません」
「見つかっていない者を、死者として扱う根拠にもなりません」
大臣は僅かに眉を寄せた。
「これ以上、大勢の騎士や兵士を捜索へ割き続けることはできません。国の守りや街道の警備にも影響が出始めています」
「捜索の規模を見直すことと、坊ちゃんを死者として記録することは別の問題です」
「消息不明のままでは、王国の記録を整理できないのです」
「記録を整えるために、人の生死まで決めるおつもりですか」
ローウェンの口調は穏やかなままだった。
それでも、その声には普段の彼からは考えられないほど強い感情が滲んでいる。
「死亡を確認したと断定するわけではありません」
別の大臣が慎重に言葉を挟んだ。
「長期間にわたって消息が途絶え、生存の可能性が極めて低い者を、死亡したものとみなして記録するだけです」
「言葉を変えたところで、坊ちゃんが死者として扱われることに違いはありません」
「ローウェン殿のお気持ちは理解しております」
「理解しているのなら、死を確認していない方へ勝手に終わりを与えないでいただきたい」
会議室へ沈黙が落ちた。
幼い頃からアレンへ仕え、爺と呼ばれて慕われてきたローウェンにとって、これは記録上の処理などではなかった。
あの日、王位継承権だけでなく、王籍と親子関係まで断つ必要はないと最後まで反対した。
それでも、アレンを守ることはできなかった。
そのアレンが、今度は死者にされようとしている。
「ローウェン」
国王が低い声で呼んだ。
ローウェンは大臣から視線を外し、玉座へ向き直る。
「はい」
「お前の主張は分かっている」
「でしたら、どうかお考え直しください」
「王として判断しなければならん」
国王の前には、二か月分の報告書が置かれていた。
騎士たちが捜した場所も、各地から集められた証言も、その一つ一つへ記されている。
国王自身、捜索範囲を広げるよう何度も命じてきた。
それでも見つからなかった。
既に王族ではなくなった一人の少年を捜すために、これ以上多くの騎士を動かし続けることはできない。
王として考えれば、選ぶべき答えは分かっていた。
それでも国王は、決定を告げる言葉をすぐには口にできなかった。
「陛下」
大臣に促され、国王は一度だけ目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、親子の縁を切ると告げたあの日のことだった。
アレンは最後まで父を責めることなく、静かに頭を下げた。
そして、ローウェンにこれ以上争わないでほしいと告げ、一人でその場を後にした。
閉じていく扉の向こうへ消えた、まだ十歳の息子。
王籍を剥奪した。
家族でもないと告げた。
それでもアレンは、何一つ恨みを口にしなかった。
そして今、その息子の死を自分の手で決めようとしている。
国王はゆっくりと目を開く。
「本日をもって、アレン・ルークロウを死亡したものとみなす」
「陛下!」
ローウェンが声を上げた。
「王国の公式記録にも、そのように残せ」
国王はローウェンを見なかった。
見れば、最後まで言い切ることができないと分かっていた。
「大規模な捜索は終了する。ただし、各地へ伝えた人相書きは回収せず、今後も該当する者の情報が入れば必ず確認せよ」
「死亡したものと記録しながら、捜し続けるとおっしゃるのですか」
ローウェンの問いに、国王は答えなかった。
矛盾していることは、自分でも分かっている。
王としては死者だと決めなければならない。
それでも父親として、アレンの死を認めることはできなかった。
「決定は覆さぬ」
国王が告げると、ローウェンは唇を固く結んだ。
これ以上反対すれば、あの日と同じことを繰り返すことになる。
アレンは、自分のために国王や大臣たちと争うことを望まなかった。
その言葉を思い出し、ローウェンは震える手を握り締める。
「……承知いたしました」
絞り出すように答え、深く頭を下げる。
ローウェンは会議室を出ると、誰もいない廊下で足を止めた。
坊ちゃんは亡くなった。
これからは、王国の誰もがそう考える。
ローウェンには、その言葉を受け入れることができなかった。
「どうか、ご無事で……」
返事が届くはずもないと分かりながら、祈らずにはいられなかった。
◇
会議が終わった後も、国王は一人で玉座に残っていた。
机の上には、アレンの処遇について記された書類が置かれている。
死亡したものとみなす。
最後に署名を加えれば、王国の決定として正式に記録される。
国王は筆を手に取った。
しかし、紙へ触れる直前で動きが止まる。
アレンが生まれた日のことを思い出した。
小さな手で、自分の指を握った息子。
初めて歩いた日。
初めて父と呼んだ日。
剣を握り、何度倒れても立ち上がった姿。
どれも、王位継承者の記憶ではない。
自分の息子と過ごした時間だった。
そのすべてを、自分は否定した。
家族ではないと告げ、王城から去っていくアレンを止めなかった。
そして今、その息子の死を自分の手で決めようとしている。
「なぜ……」
筆を持つ手へ力が入る。
「なぜ、戻ってこなかった」
問いかけた直後、自分で答えに気付いた。
戻らなかったのではない。
戻れなかったのだ。
帰る場所を奪ったのは、ほかでもない自分だった。
国王は長く目を閉じた後、書類へ署名を加えた。
震えた筆先から落ちた墨が、一文字だけ僅かに滲んだ。
◇
アミール王国。
クローネは、父である国王から呼び出されていた。
執務室へ入ると、机の上に一通の書状が置かれている。
封蝋に刻まれていたのは、アルベニスタ王家の紋章だった。
「アレンのことですか」
国王が口を開くより先に、クローネが尋ねる。
「ああ」
「見つかったのですか?」
僅かに明るくなった表情を見て、国王はすぐに答えることができなかった。
その沈黙だけで、クローネの顔から笑みが消える。
「何が書かれているのですか」
「落ち着いて聞きなさい」
「お父様」
クローネの声が僅かに強くなる。
国王は書状へ目を落とした。
「アルベニスタ王国は、アレン殿下の大規模な捜索を終了した」
「終了した?」
「二か月にわたって捜索を続けたが、手掛かりを得られなかったそうだ」
「だから諦めるのですか?」
「騎士を動かし続けることが難しくなったのだろう」
「それなら、私が捜しに行きます」
クローネは迷うことなく答えた。
「今すぐには許可できない」
「どうしてですか!」
「お前はアミール王国の第一王女だ。国境付近では今も魔物への対応が続いている。何の準備もなく国を離れさせることはできない」
「準備ならします。必要な役目も果たします。だから、捜させてください」
「クローネ」
「アレンは一人なのです!」
国王は口を閉じた。
クローネがこれほど声を荒らげることは滅多にない。
それでも、書状に記された内容を伝えないわけにはいかなかった。
「アルベニスタ王国は、アレン殿下を死亡したものとみなした」
クローネの動きが止まった。
「……何を、言っているのですか」
「消息不明となってから二か月が経過し、生存の可能性は極めて低いと判断された」
「アレンが亡くなったと、確認されたのですか」
「いや」
「亡骸が見つかったのですか」
「見つかっていない」
「では、どうして死んだことになるのですか」
国王は答えられなかった。
クローネは机へ歩み寄り、書状を手に取る。
記されていた文章を一行ずつ確かめる。
捜索の終了。
死亡したものとしての記録。
王国からアミール王国へ伝えられた、アレンの死。
何度読み返しても、その言葉を受け入れることはできなかった。
「違います」
クローネは書状から顔を上げた。
「アレンは亡くなっていません」
「クローネ」
「見つかっていないだけです」
「十歳の子供が、二か月も一人で生き延びることは難しい」
「難しいだけでしょう」
父の言葉を遮り、クローネは書状を強く握った。
「できないと決まったわけではありません」
「私も、アレン殿下が無事であることを願っている」
「願っているのではありません」
クローネは父を真っ直ぐに見つめる。
「私は、生きていると信じています」
その声に迷いはなかった。
「アルベニスタ王国が死者として記録しても、私は認めません。亡くなった証がないのなら、これから見つかる可能性は残っています」
「国として下された決定を、我々が覆すことはできない」
「国が何を決めても、アレンが生きているかどうかまで決めることはできません」
クローネは書状を机へ戻した。
「私は捜し続けます」
「クローネ」
「今すぐ国を離れられないのなら、情報を集めます。アルベニスタ王国以外の町や村にも人を送ってください」
「簡単なことではない」
「分かっています」
反対されることも、すぐには動けないことも承知している。
それでも、諦めるという選択だけはできなかった。
「アレンは、誰にも見つけてもらえない場所で待っているかもしれません」
自分が諦めれば、本当に誰もアレンを捜さなくなる。
そのことの方が、クローネには恐ろしかった。
「私だけでも、必ず見つけます」
国王は娘を説得する言葉を見つけられなかった。
「今日は下がりなさい」
「……失礼いたします」
クローネは一礼し、執務室を後にした。
◇
廊下へ出たクローネは、行き先も決めずに歩き続けた。
窓の外には、青い空が広がっている。
空の下には幾つもの国や町があり、そのどこかにアレンがいる。
王城にいると思っていた。
手紙が届けば、自分の言葉を読んでもらえると思っていた。
返事が来ないのは、気持ちが変わったからではないかと不安になったこともある。
けれど今は、手紙が届いているのかさえ分からない。
「アレン……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
それでも足を止めずに歩いていると、廊下の先に一人の少女が立っていた。
「お姉様」
「スズナ」
クローネの異母妹であるスズナは、心配そうにこちらを見つめている。
「何かあったのですか」
「……いいえ」
「嘘です」
迷いのない返事だった。
クローネは取り繕おうとしたものの、上手く笑うことができなかった。
「アレンが、亡くなったものとして扱われることになったの」
「亡くなったのですか」
「分からないわ」
クローネは首を横へ振った。
「見つかっていないだけ。亡くなったことを示すものは、何も見つかっていないの」
「それなら、終わっていません」
スズナは静かに答えた。
「え?」
「まだ終わってないから」
それだけを告げると、スズナはクローネの手を握った。
小さな手だった。
それでも、その温もりは確かに伝わってくる。
「アレン様は、まだ見つかっていないだけです」
「……そうね」
「お姉様が諦めなければ、いつか会えます」
根拠がある言葉ではなかった。
けれど今のクローネには、何よりも必要な言葉だった。
「ありがとう、スズナ」
クローネは握られた手へ、自分の指を重ねた。
アルベニスタ王国が死者と決めても。
周囲の誰もが生存を諦めても。
自分だけは、アレンを諦めない。
いつか必ず見つける。
その時には、手紙へ何度も書いた言葉を、自分の声で伝える。
何があっても、自分の気持ちは変わっていないと。
同じ頃。
遠く離れた滝下の村へ続く道を、アレンは三人の子供と共に歩いていた。
故郷では死者となり、大切な人からも遠ざかりながら。
それでもアレンは、確かに生きていた。




